短編:自動ドア
◉風まかせ文芸部【自動】参加作品
駅から外れた路地に、今は利用されていない空きビルがあった。一階には五年ほど前に閉店したクリーニング店。二階から上には何があったのか知る人はいない。
朽ちつつある建物の入口だけが妙に新しく、自動ドアが設置されていた。
その自動ドアは、電気の使用を止めてあるにもかかわらず、夜になると、ひとりでに開くと噂されていた。
転勤してきたばかりの柏木新二は、初めてこの路地を通った夜、空きビルの前を歩いた。
すると、スーッと静かに自動ドアが開く音がした。思わず音の方に目をやると、ドアが開いている。
何の気配もない。センサーが反応するような距離でもない。
そう理解しながらも、新二はなぜかすぐに目を逸らしてしまった。うまく言い表せないが、ドアの向こうの暗闇に何かの存在を感じたからだ。
そのまま振り返らずに歩いたが、背中を冷たく細い指でなぞられたような感覚だけが残った。
翌日、帰宅時にまたビルの前を通ると、自動ドアが静かに開いた。新二が歩いてきた“その瞬間”だけを狙っていたかのように。
距離を変えても、歩く速度を変えても、新二の視界に入った時、ドアは必ず開いた。
雨の日も、風の日も、夕方でも、深夜であっても、扉はいつも新二の姿を捉えると音を立てた。
「関わらないほうがいい」
そう思ったが、足は毎晩、そのビルのある路地へと向かってしまう。気づけばドアの見える場所に立っているのだ。理由はない。しかしなぜか抗えなかった。
ある深夜のこと。残業続きで疲れ切った新二が歩いていると、自動ドアはすでに開いていた。
暗闇の奥、ほのかに橙色の光が揺れていた。
「蝋燭?」
炎は小刻みに揺れている。しかし、近くに人影はない──いや、あるようにも見えた。
炎の向こうに、ぼんやりと“形”が浮かんでいるような気がしたのだ。
鼓動が激しくなり、呼吸も浅くなった。
見てはいけない。理由はないが、それだけは感覚としてわかった。背を向けた瞬間、誰かが耳元でそっと息を吸う音がした。
そして──
「やっと気づいてくれたのね」
そう囁いた声は、ずっと前から新二のことを知っているようだった。
数日後、ビルの前へ行っても、自動ドアは開かなくなった。あの時囁いた声の主は、新二に対する興味を失ったのかもしれない。そう考えることにした。
しかしその夜、家に帰ると、自宅の玄関ドアが静かに開いた。鍵を閉めて出たはずなのに。
新二が恐る恐る中を覗くと、暗い部屋の奥から、微かに橙色の明かりが瞬いた気がした。蝋燭のような匂いもする。
新二は凍りついた。背後の廊下に、何かがゆっくりと立ち止まる気配がしたのだ。
「こっちだったんだ?」
その声は、喜んでいるのでもなく、怒っているのでもなく、何かを確信しているような響きがあった。
翌朝、アパートの管理人が、新二の部屋を訪れた。隣人から「深夜に大きな足音がしてうるさい」という苦情の連絡があったためだ。
ノックをするが返事はない。ドアには鍵がかかっている。しばらく待っても動きがないことを確かめてから、合鍵でドアを開けようとした。
すると、鍵のかかっていたドアが、内側からごく自然にスッと開いた。
「おはようございます」と挨拶をするも、ドアの向こうには誰もいなかった。
「柏木さん、いらっしゃいませんか?」
部屋の中を窺いながら声をかけても返事はない。仕方なく中に入るが、誰もいなかった。窓は施錠され、物が乱れている様子もない。
ただひとつ違和感があったのは、玄関の床に女物のヒールの靴跡がひとつだけ、黒い染みになって残っていたことだ。靴跡は左足のものだった。
管理人が首を傾げながら部屋を出ていこうとした時、備え付けの靴箱が勝手に開いた。
中には女物のヒールが片方だけ置かれている。右足用だが、床の靴跡のヒールに間違いなかった。
ますます首を傾げた管理人は、靴箱の奥の暗闇から、かすかに空気を吸うような音がするのを聞いた。
風は吹いていない。部屋の中で、自分以外はすべて静止している。管理人は背筋に冷たいものを感じ、慌ててドアを閉めた。
だが廊下を歩きだした途端、背後で扉が閉まる音がした。誰もいないはずの新二の部屋で。
その夜から、例のビルの自動ドアは、毎晩決まった時刻に開くようになった。足跡はつかないが、確実に誰かがそこを通っているような挙動だった。
その時間帯にその道を歩く者は、少し離れた位置からでもそれを感じると言う。
そしてその奥の闇から、何かがこちらをじっと見ている気配がするのだった。
