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短編:雨の音

◉風まかせ文芸部【雨】参加作品

 町のはずれに、小さな時計店があった。看板には「時雨堂」と書かれている。
 店主の老人は変わった趣味を持っていて、雨の日になると店の前に椅子を出し、目を閉じて耳を澄ませる。
「今日の雨は、少し寂しい音だな」
「今日は誰かを待っている音だ」
 そんなふうに雨の音を聞き分け、独り言を呟くのだ。町の人々は笑った。雨の音に違いなどあるものか、と。だが、老人は首を振る。
「あるとも。雨は空の記憶だからね」
 そんな話を信じる者はいなかった。ただ一人、高校生の少女、つむぎを除いて。

 紬は雨の日になると店を訪れた。
「今日の雨はどんな音?」
 老人は目を閉じる。
「うーん……今日は旅立ちの音だな」
「旅立ち?」
「誰かが新しい一歩を踏み出した日に降る雨だ」
 紬は不思議そうに笑った。だがその笑顔の奥に、老人は小さな影を見つけていた。
 紬の父親は三年前に亡くなっている。それ以来、彼女は雨の日が嫌いだった。父を見送った葬儀の日も雨だったから。それなのに、なぜか時雨堂にだけは足を運んでいた。

 ある日のことだった。夕立が町を包み込むと、激しい雨が屋根を叩き、窓を震わせた。紬は店の奥で雨宿りをしていた。
「ねえ、おじいさん」
「なんだい」
「雨って、どうして降るのかな」
 老人は少し考えた。
「空が泣いているから、という人もいるね」
「本当は違うでしょ」
「もちろんだ」
 老人は笑った。そして窓の外を見ながら言った。
「でも私はね、空が忘れてはいけないものを地上に返しているんだと思う」
「忘れてはいけないもの?」
「大切だった日々とか、人とか」
 紬は黙った。雨粒が窓を流れていく。
「だから雨の日は、会えなくなった人が近くにいる気がする」
 老人の声は静かだった。
「姿は見えない。声も聞こえない。でも、確かにそこにいる」
 その言葉は、紬の胸の奥へゆっくりと沈んでいった。

 その年の夏の終わり、老人は店を閉めた。病気だったらしい。町の人々は初めて知った。老人がもう長くないことを。
 最後の日も雨だった。紬は店を訪れた。老人は椅子に座り、いつものように雨の音を聞いていた。
「今日はどんな雨?」
 紬が尋ねる。老人はゆっくり目を開くとそっと微笑んだ。
「再会の雨だよ」
「誰と誰の?」
「さあね」
 老人はそう言って空を見上げた。
「でもね、とても優しい音だ」
 それが最後の会話になった。数日後、老人は静かに息を引き取った。

 秋が過ぎ、冬が終わり、やがて春が来た。時雨堂は空き家のままだった。
 それでも雨の日になると、紬は時々その前を通ってみた。あの日の言葉を思い出しながら。

 ある雨の日だった。大学進学のため、町を離れる朝。駅へ向かう途中で雨が降り始めた。
 紬は立ち止まる。傘を開こうとして、ふと耳を澄ませた。屋根を打つ雨。アスファルトを叩く雨。木々を揺らす雨。
 さまざまな音が重なっていた。その中に、懐かしい声が聞こえた気がした。

──旅立ちの音だな

 老人の声だった。もちろん、本当に聞こえたわけではない。でも紬は笑っていた。
「そうか」
 空を見上げる。雨粒が頬を濡らす。それは空が地上へ返してくれた、大切な記憶のようだった。父のこと。老人のこと。笑った日々のこと。忘れたくないものすべて。

 雨は静かに降り続く。まるで会えなくなった人たちが、遠い空の向こうから「元気でね」と語りかけてくるかのように。

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