短編:半透明の海
◉風まかせ文芸部【半透明の海】参加作品
その眼鏡は、世界中の研究者を驚かせた。
開発したのは、生物の視覚を研究するN博士だった。眼鏡をかけるだけで、特定の動物と同じ色覚や視覚特性を再現できる。
犬の視覚なら色数が減る。タカなら数キロ先まで鮮明に見える。ネコなら暗闇でも景色が浮かび上がる。
医療や生物学への応用が期待され、この発明は瞬く間に世界中の注目を集めた。ところが、N博士自身も予想していなかった現象が起きる。
海だった。
どの生物の視覚モードに切り替えても、海だけが半透明になるのである。海面は薄い青いガラスのようになり、光が届く場所であれば、何十メートルも下の海底まで見渡せた。
魚の群れ、岩礁、サンゴ、沈没船。その映像は世界中に配信され、人々は歓声を上げた。
「海底観光が変わる」
「幻の沈没船が探せる」
旅行会社は半透明の海を体験するツアーを企画し、眼鏡メーカーは一般向けモデルの発売を発表した。
だが、その熱狂は長く続かなかった。人間が沈めたものまで、すべて見えてしまったからだ。
事故車、不法投棄された大量のごみ、戦争で沈んだ兵器。そして、これまで発見されなかった無数の白骨。ニュースは連日、その映像を流した。
「こんなものまで見えるのか……」
体験した人々は眼鏡を外し、二度とかけようとしなかった。
「もう十分だ」
「見なければよかった」
発売予定だった一般向けモデルは中止となり、眼鏡は一部の研究機関だけで使われることになった。
数年後。N博士は引退を前に、一冊の報告書を書き残した。長年の研究の末、奇妙な事実が判明したからだ。
海が半透明に見えていたのは、眼鏡が作り出した効果というわけではなく、それが海の本来の姿だったのである。動物たちの目には海は本来の姿のまま映っていただけだった。
つまり、違っていたのは人間だけだったのだ。人間には、見たくないものを見ないようにする性質が備わっている。
そして人間の脳には、目から入る情報を無意識に補正する仕組みもある。進化の過程で、その補正が働くようになった。
報告書の最後に記されていた一文に、こうあった。
「海は太古の昔より、ずっと半透明だった。海を青く見せていたのは、見たくない真実から目をそらすために進化した、人間の目だった」と。
