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短編:オオムラサキ

◉風まかせ文芸部【名前】参加作品

 日本の国蝶、オオムラサキ。
 突然、上司から電話で頼まれ、そのオオムラサキを確保しなければならなくなった。
 俺はこの年になるまで、国蝶というものの存在も、オオムラサキという蝶のことも知らなかった。
 子ども時代、昆虫の標本キットで夏休みの自由研究にしてるやつとかいたが、うちは両親が共働きだったこともあり、夏休みだからといって、山や海へ出かけるなんてことはなかった。
 それに俺は、部屋に閉じこもり、エアコンの効いた部屋でゲームばかりしていたタイプだ。
 カブトムシやクワガタを飼っていた同級生もいたが、俺はまったく興味がなく、この年になるまで昆虫と触れあう機会は皆無だった。
 そんな俺だが、今回は遅れてきた少年時代だと思って、オオムラサキを捕まえることに気合いを入れている。

 上司から服装は作業着と指定されたので、今は作業着を買いに来ている。なぜ作業着なのか疑問に思ったが、自然の中を歩き回るのならその方が理にかなっているからだろう。
 丈夫で、汗や汚れを気にせず動けるし、酷暑続きのこの時期、熱中症対策も欠かせない。

 事情を話すと、店員は慣れた様子でうなずいた。
「それなら、伸縮性がよく、汗も乾きやすい接触冷感のインナーと、ファンの付いた空調服がいいですね。インナーは肌にピッタリなもの、空調服は少し大きめで。足元は安全靴にして、薄手の作業手袋もあると便利ですよ」
 言われるがまま、一式を揃えた。試着室の鏡に映る自分は、どう見ても現場作業員だったが、普段はスーツばかり着ている俺にとって、それはそれで新鮮だった。

 ──こうして俺は、人生初の“本格的な昆虫採集”に向かうことになった。

 当日。まだ空が白み始めたばかりの早朝に家を出た。自力で集めた資料によると、目撃情報の多い場所は県境に近い雑木林。人の手があまり入っていない、自然が多く残された一帯だ。
 昨日の夕立のせいで湿度が増し、朝から蒸し暑くて大変だが、空調服のスイッチを入れると、背中から顔に風が抜けて快適だった。
 安全靴でぬかるんだ土を踏み、枝をかき分け、汗を拭いながら進む。これが仕事だと思えばどうということはない──いや、まあ過酷ではあるが……。

 だが、肝心のオオムラサキという蝶が、どんな動きをするのか、どこに潜んでいるのか、俺はほとんど知らなかった。スマホで見た写真のイメージだけを頼りに、ひたすら目を凝らす。
 午前中は空振りだった。汗の量と虫刺されの数だけが成果だ。
 昼前、一本の大きなエノキの木の周辺で、視界の端を、紫がかった影がかすめる。
「あ!……」
 次の瞬間、息を殺して木の幹に背を寄せた。
「いた!」
 確かに、写真で見たあの色だ。黒に近い濃い紫、角度によって青くも見えるはね。その美しさに思わず見とれてしまった。
 だが、これは仕事だ。捕まえなければならない。俺は慎重に距離を詰め、持参したネットを構えた。
 翅がふわりと動いた、その一瞬を狙って──

「よしっ!」

 手応えがあった。網の中でばたつく影。逃がさぬよう、そっと網に閉じ込める。心臓がばくばくと鳴っていた。
「やった!」
 そんな大袈裟なものではないが、俺はオオムラサキに勝ったのだ。虫取りでこんな達成感を覚える日が来るとは思わなかった。慎重に専用ケースに移し、誇らしい気持ちで車に戻った。

 一課と二課の合同捜査会議が始まった。世田谷で起きた老夫婦殺害事件の捜査の進捗について、現状の共有が行われた。
 被疑者は浮かび上がっていたが、決定打となる証拠に乏しく、任意同行をかける前に、その男の周辺を徹底的に洗うことになった。
 そこで被疑者の交際相手の女を調査していたところ、その女が別の詐欺事件に関わっていることが判明し、逮捕状を請求。二課に引っ張らせることになった。
 しかし二課では現在、大物政治家の汚職問題に捜査員の大多数を割かれている。そこで一課から数人の捜査員が派遣されていた。俺もその一人だった。
 女の居所は今も掴めていない。会議が終わっても、指揮を執る課長と管理官は苦い顔だ。

「おい、荒谷あらたに!」
 会議室に俺の名を呼ぶ課長の声が響く。
「はい!」
 返事と共に立ち上がった俺に、課長が訊ねた。
「お前の方はどうだ。何か進展あったのか?」
 俺は胸を張って答えた。
「はい。オオムラサキなら、確保しています」
 一瞬、会議室が静まり返った。課長が、ゆっくりと眉をひそめる。
「……なんだと? 報告は受けてないぞ! 何で早く言わない!」
「いえ、会議が終わってから報告するつもりでした」
「どこにいたんだ!」
「え? ああ、県境のエノキの林です。かなり大きくて立派な個体でしたよ。ほらこれ。ちゃんと作業着を着て捕まえました」
 俺が美しい国蝶の入ったケースをリュックから取り出してテーブルの上に置くと、堰を切ったように会議室がざわめいた。
 課長が額に青筋を浮かべながら、テーブルを叩く。
「荒谷……俺は──“オオムラサキを探し出して作業着で確保してこい”と言ったんだ!」
「はい。何か間違っているでしょうか?」
 課長は手帳を取り出すとそこに走り書きをした。
 文字で書かれたことで、すべてがゆっくりとつながった。そこにはこう書かれていたのだ。

『大村沙紀を探し出して詐欺容疑で確保してこい』

刑事 荒谷くんの活躍はこちらにも。
↓併せて読んでいただけると幸いです。

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