【SS】いつもの場所のあの子に捧ぐ
今朝も、彼は鍵盤で唄っている。
駅前のストリートピアノから数歩離れた定位置で、音声検索を立ち上げる。仕事が早い今どきのAIはすぐにクラシックの曲名を表示してきた。愛の挨拶。ふーん、エルガーさん。高校生の私でも聞いたことのあるメロディーだ。電源ボタンで画面を消す。見飽きた液晶より紺色のブレザーがいい。校章が入ったボタンが袖で日の光を反射して、長い指先が白と黒の鍵盤に触れている。その間だけ、私はあの人を記憶する。
茶髪が揺れて、クラスのどの男子よりクールな目元が覗いた。伏せられた睫毛すら輝いてみえて、今日だけは胸が痛かった。少し前に動画を妹に見せて、カッコいいだろと自慢してたくせに。我ながら都合がいい。
妹の審判では彼女の推しに負けてしまったが、事実としてグランドピアノの周りには足を止めている人がいる。私と同じように。あの今どき珍しいおさげの女の子は水曜日と金曜日は必ず見かけるし。少し離れた広告の前で腕を組むサラリーマンはほぼ毎日いる。固定ファン持ちなのだ、彼は。
昨日までは私もその中のひとりだった。
多分、今もそう。だけど、この演奏が終わったら私は固定ファンから一歩昇格する。嫌な汗を手のひらに感じて、ぐぱぐぱと気を紛らわす。肩にかけたカバンには、端役から不審者に降格しないように選んだ既製品のチョコレート菓子が入ってる。いろんな意味で重くないように。
同じ制服じゃないから、できるアプローチを考えてきた。チョコレート分、いつもより重い持ち手をかけ直す。揺らしたスマホが並べた数字はいつも彼が演奏を止める時間。金曜日の朝に添えられた愛の挨拶にぱらぱらと拍手が贈られる。もちろん、駅に続く地下広場で長くは続かない。止めていた足を素早く動かして、観客は乗客へとジョブチェンジしていく。プレイヤーだった彼も同じ。横に置いていた薄いリュックを背負って、駅へと足を向けた。
「あの」
彼は私と反対の方向、声をかけたおさげの少女に顔を向ける。出遅れてしまった私は、開きかけた口を閉じるしかなかった。汚れた床はところどころ黒くなっていて、可愛らしい箱を渡す彼女にこみ上げる感情に似ていた。胃の中を渦巻く気持ち悪さに唇を強く結ぶ。
「ありがとう。嬉しいです」
いつもピアノで歌う彼の想像よりさわやかな声。こんな声だったんだ。
「あの、Instagramやってますか?」
恥じらうおさげ少女により、アカウント交換が始まった。液晶を起こして出てきたのは、遅刻ギリギリの時刻。もう駄目だ、猶予はない。留まりたい気持ちをぎゅっと圧縮して歩き出す。
いつもの電車を逃したら、しばらく各停しかこない。一時間目が終わるまでに登校できるかも危うくなってしまうし、私はそれだってかまわないけど、呼び止めたら彼だって遅刻してしまう可能性がある。
断腸の思いで改札に定期券をかざす。叶うならこの気持ちをシンデレラにスパチャしたい。共感してほしい。でも駄目だ、シンデレラは王子に視認されてた。共感してもらえるはずがない。十二時の鐘の代わりに、電車の発車メロディーがホームに響く。ガラスの靴は残せない。
結局、チョコレートは三時間目の終わりに友達と食べた。体育で疲れた身体に砂糖たっぷりの準チョコレート菓子はとても優しく染み渡った。
スマホの画面に愛の挨拶が浮かんでる。Bluetoothで飛んでくるエルガーさんの挨拶は、今朝聞いた彼の唄い方と全然違っていた。開いた赤い問題集に、ため息を落としてしまう。なんてことだ。ただでさえこの問題集は厚いのに、ため息分さらに厚くなった。
彼のピアノが上書きされる惜しさより、彼と繋がってる感を優先してしまった。そんな自分がつくづく愚かで、そっけない問題文にすら冷たく突き放されていた。今日はもう終わりにしよう。ため息を栞にして問題集を閉じる。
静寂が王者であるこの自習室で、ため息の連発は迷惑行為だ。ノートと筆記用具をまとめていたら、人影に気が付いた。相席希望だろうか。すぐに退くから広く使ってほしい、と思考は紺色のブレザーに奪われる。椅子の背もたれに乗せられた手、袖口のボタンに刻まれた校章。どちらも記憶に焼き付けてあるものだ。
『ここ、いい?』
控えめに見せられた液晶に、シンプルなひと言。頷いた。深く頷きすぎた。もしかしたら二重あごになってしまったかも。
そんな心配をよそに、彼はリュックからノートを取り出すとボールペンを走らせた。
『あさ、いつもきいてくれてるよね?』
視認されていた衝撃。悲鳴を上げなかったのは奇跡かもしれない。
演奏中は伏せられている目が笑った。
『インスタやってる? よかったら、DMして。待ってる』
アカウント名を書き残す横顔を見つめる。手が止まって、視線があった。はじめて正面から見た彼の顔は、冬の日差しみたいに微笑んでいた。
彼の好みのチョコレートがお腹に収まる姿を隣で見届けたのは、この一年後の夜の話。
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