【小説】セナ、走れ。 ―GRID:ONE―
この物語には「始まり」があります。 前作 はこちら↓
第一章 呼ばれた場所
電話が鳴ったのは、富士スピードウェイの裏手にある自販機の前だった。
缶コーヒーのプルタブに指をかけたまま、新谷瀬奈はスマートフォンの画面を見た。イギリスの国番号。心臓が跳ねた。
「Hello?セナ・シンガイ?」
低く、穏やかな男の声。英語だった。
「……Yes, スピーキング」
「Rodin Motorsportのチームマネージャー、アダム・ヒューズです。結論から言います。来シーズンのF1 Academyに、あなたを招きたい」
缶コーヒーが手から滑り落ちた。アスファルトの上でカランと転がって、白い湯気を立てた。
三月の富士はまだ冷える。瀬奈は唇を震わせた。泣くな、と自分に言い聞かせた。泣いたら声が揺れる。声が揺れたら、この人に「やっぱりまだ早いか」と思われる。
「光栄です」
声は、震えなかった。
F1 Academy。女性ドライバーのために創設された、FIA公認のフォーミュラ・シリーズ。F1グランプリのサポートレースとして世界を転戦し、上海、ジェッダ、マイアミ、モントリオール、ザントフォールト、シンガポール、ラスベガス——七つの都市で、十八台のマシンがグリッドに並ぶ。
Prema Racing、ART Grand Prix、MP Motorsport、Campos Racing、Hitech……名だたるチームが、Alpine、Mercedes、McLaren、Ferrari、Red BullといったF1チームの支援を受けてドライバーを走らせる。ここで結果を出した者だけが、F3、F2、そしてその先にあるF1への切符を手にできる。
日本人女性として、このグリッドに立つ者はまだ誰もいなかった。
瀬奈は二十歳。名前の由来はアイルトン・セナ。父親がつけた名前を、十代の頃はずっと重たく感じていた。
「お父さんのセンスが悪い」と母に愚痴ったのは中学二年のときだ。母は笑って、「あの人はね、走る理由を持ってほしかったのよ」と言った。
その父は瀬奈が十六のときに病気で死んだ。
だから瀬奈は走る。走る理由なら、ある。
契約の話が進む中で、現実が一つずつ顔を出した。
シートの持ち込み費用。渡航費。シーズンを通じた滞在費。F1 Academyはコスト軽減を掲げているとはいえ、年間で数千万円の予算が必要になる。母子家庭の貯金で賄える額ではなかった。
アダムがスポンサー候補のリストを送ってくれた。瀬奈は日本の企業を十五社回った。モータースポーツ関連企業、飲料メーカー、自動車部品メーカー。プレゼン資料を何度も作り直し、スーツを着て会議室に座った。
多くの企業の反応は丁寧で、そして同じだった。
「女性ドライバーへの支援は、まだ社内で前例がなくて」
「F1 Academyというシリーズ自体、日本での認知度が低いので、広告効果が見えにくい」
ある企業の担当者は、もっと率直だった。
「新谷さん、正直に言います。男性ドライバーなら、この成績で十分検討の土俵に乗ります。でも女性となると、上を説得する材料がもう一つ足りない。実績の問題じゃなく、社内の感覚の問題です。申し訳ない」
悔しかった。でも、その人が悪いわけじゃないこともわかっていた。壁は、個人ではなく空気の中にある。
最終的に、小さなレーシングギアメーカーと、父の元同僚が経営する町工場が名乗りを上げてくれた。足りない分は、クラウドファンディングで集めた。
目標金額の達成には三週間かかったが、最後の三日間で一気に支援が集まった。顔も知らない人たちが、「日本の女の子が世界で走るのを見たい」とメッセージを添えてくれた。
瀬奈はその一つひとつを読んで、画面の前で何度も頭を下げた。
第二章 上海——最初の壁
四月。上海インターナショナル・サーキット。
パドックに足を踏み入れた瞬間、空気が違った。富士で走っていたF4とは、何もかもが違う。ガレージに並ぶマシンのカウルに刻まれたF1チームのロゴ。メディアのカメラ。各国から集まったドライバーたちの、静かで鋭い目。
Rodin Motorsportのガレージは、パドックの中ほどにあった。チームメイトはイギリス人のエラ・ロイドとシンガポール出身のクロエ・チョン。二人とも昨シーズンからの参戦で、すでにこの世界のリズムを知っている。
「セナ、だよね?」
エラが手を差し出してきた。背が高く、肩幅が広い。握手の力が強かった。
「日本人、初めてでしょ? プレッシャーあるだろうけど、最初はみんな同じだから。私なんて去年のデビュー戦、第一コーナーでスピンしたよ」
笑いながらそう言ってくれるエラに、瀬奈は少しだけ肩の力を抜いた。
クロエは静かに微笑んで、「困ったことがあったら何でも聞いて」とだけ言った。アジア系の彼女がいることが、異国の地で小さな安心になった。
ドライバーズブリーフィングの前、パドックの通路でPrema Racingのドリアーネ・ピンとすれ違った。フランス人。昨シーズンのランキング二位で、今季の優勝候補筆頭と目されている。
ピンは瀬奈の顔を見て、一瞬だけ足を止めた。
「あなたがシンガイ?」
「はい」
「富士のF4のリザルト、見たわ。雨のレースが強いのね」
それだけ言って、ピンは歩き去った。社交辞令とも品定めともつかない、乾いたやり取りだった。でも、調べてくれていたという事実が、小さな棘のように刺さった。この人は、全員を見ている。
予選。
コースに出た瞬間、身体が硬くなった。
上海のターン1からターン3にかけての高速セクション。FP(フリープラクティス)で何度も走ったはずなのに、タイヤの感触が手のひらから逃げていく。ブレーキングポイントが定まらない。一周ごとにコンマ数秒を削るどころか、タイムが安定すらしない。
無線から、エンジニアのマルコの声が飛んだ。
「セナ、ターン6のブレーキング、十メートル遅い。もっと奥まで踏める。タイヤを信じろ」
わかっている。頭ではわかっている。でも身体が従わない。百八十キロからのフルブレーキ。ほんの数メートルの判断が、壁に突っ込むか、コンマ三秒を稼ぐかを分ける。
結果、予選十五番手。十八台中の十五番手。
ガレージに戻ると、エラが黙って水のボトルを渡してくれた。クロエは自分のデータシートを広げて、「ターン6、私のライン見てみる?」と言った。
悔しかった。悔しくて、唇の内側を噛んだ。
翌日のレース1。リバースグリッドの恩恵で四番手スタートだったが、オープニングラップで二つポジションを落とし、最終的に十一位。レース2は十五番グリッドからほとんど順位を上げられず十四位。
ポイント圏——トップ10には遠かった。
レース後、パドックを歩いていると、メディアエリアの脇で英語の会話が聞こえた。イギリスのモータースポーツ系ポッドキャストの収録らしい。
「——Rodinの新しい日本人ドライバー、どう思う?」
「正直、まだ判断できない。ただ、F1 Academyがアジア市場を意識して日本人枠を設けたっていう見方はあるよね。純粋に速さで選ばれたのか、マーケティングなのか」
「まあ、最初のラウンドだけじゃ何とも言えない。ジェッダ以降で本当の実力がわかるだろう」
聞くつもりはなかった。でも聞こえてしまった。足が止まった。
マーケティング枠。その言葉が、胸の奥で冷たく凝固した。
ホテルに戻り、シャワーを浴びて、ベッドに座った。スマートフォンを見ると、日本のSNSには「期待外れ」「やっぱり通用しない」という言葉が並んでいた。海外のフォーラムには「diversity hire」というコメントがついていた。
瀬奈はスマートフォンを伏せて、天井を見た。
泣くな、と自分に言った。
泣いた。
第三章 ジェッダ——砂漠の夜
五月。サウジアラビア、ジェッダ・コーニッシュ・サーキット。
紅海沿いの市街地コース。コンクリートウォールに囲まれた高速レイアウトは、ミスが即クラッシュにつながる。瀬奈がこれまで走ったどのサーキットよりも攻撃的で、容赦がなかった。
だが、瀬奈は上海のあと、変わろうとしていた。
チームの本拠地があるイギリスに飛び、シミュレーターに三日間こもった。マルコとデータを一周ずつ、一コーナーずつ照合した。ブレーキングの何が怖いのか。なぜタイヤを信じられないのか。速いドライバーと自分のテレメトリーを重ね、差が生まれるポイントを一つひとつ潰した。
「技術じゃない」とマルコは言った。「おまえの問題は、速さを許可していないことだ」
意味がわからなかった。
「おまえは速く走れる。データが証明している。シミュレーターのタイムは上位に入る。でも実車になると、自分にブレーキをかける。速くていいんだと、自分に許可を出していない」
その夜、宿舎の狭い部屋で、瀬奈は父のことを考えた。
父はアマチュアのカート愛好家だった。週末になると幼い瀬奈を助手席に——カートに助手席はないから、正確にはサーキットのフェンス越しに——連れていき、自分が走る姿を見せた。速くはなかった。でも、走っているときの父の顔が好きだった。怖がっていなかった。何も背負っていなかった。ただ走ることが嬉しくて、笑っていた。
速く走る理由を持ってほしかったの。
母の言葉が蘇った。
——お父さん。私、怖がってた。
ジェッダの予選。
ターン1。二百五十キロから一気にブレーキ。コンクリートウォールが視界の端を流れる。怖い。怖い。でも、踏む。タイヤのグリップがステアリングを通じて両手に伝わる。——いける。
ターン13の高速左コーナー。アクセルを戻したくなる。でも踏み続ける。マシンが吸いつくようにアペックスをなめる。
無線が弾けた。
「セナ! P9! ナインスだ!」
九番手。初めてトップ10に食い込んだ。
ガレージに戻ると、エラが両手を広げて待っていた。クロエが珍しく声を上げて「やった!」と叫んだ。マルコが、何も言わずに親指を立てた。
レース1。リバースグリッドで十番手スタート。オープニングラップの混戦を冷静にさばき、八位でフィニッシュ。初ポイント。
レース2。九番グリッドから粘りの走りで同じく八位。連続ポイント獲得。
ホテルに戻ったとき、母から一行だけメッセージが届いていた。
「見てたよ。」
その夜、瀬奈はジェッダの夜空を窓から眺めた。砂漠の空気は乾いていて、星がやけに近かった。
第四章 マイアミ——追い上げの季節
六月。マイアミ・インターナショナル・オートドローム。
フロリダの陽射しは暴力的だった。コース上の路面温度は五十度を超え、タイヤマネジメントが勝負を分ける。
瀬奈はこのラウンドに向けて、暑熱対策を徹底していた。日本にいた頃から高温環境でのフィジカルトレーニングを積んでいたことが、ここで効いた。レース終盤、他のドライバーのラップタイムが落ちる中、瀬奈のペースは安定していた。
予選七番手。自己ベスト。
レース後の記者会見に、初めて呼ばれた。上海の「マーケティング枠」という言葉がまだ頭の隅にあった。マイクを向けられたとき、言葉を選んだ。
「セナ、日本人女性として初めてこのシリーズに参戦していますが、ここまでのシーズンをどう感じていますか?」
英語で答えた。完璧な英語ではない。文法も発音も怪しい。でも、伝えたいことは明確だった。
「最初のレースで、自分に壁を作っていたことに気づきました。速く走っていいんだって、自分に許してあげるのに時間がかかった。でも今は、毎週少しずつ壁が低くなっています」
続けて、別の記者が質問した。
「女性だけのシリーズに参加していることについて、批判的な意見もあります。『本当に強いなら男性と同じカテゴリーで走るべきだ』という声に対して、どう思いますか?」
瀬奈は一瞬だけ詰まった。この質問は想定していた。でも、想定していたことと、実際にマイクの前で聞かれることは違う。
「このシリーズは、機会を作るための場所だと思っています。私がここにいるのは、男性と別に走りたいからじゃない。ここで力をつけて、同じグリッドに立つためです。入口が別でも、目指す場所は同じです」
記事になった。「Sena Shingai: The Wall Is Getting Lower」——イギリスのモータースポーツメディアの見出しだった。
レース2のスタートで、人生で最も美しいローンチを決めた。クラッチミートのタイミング、アンチストールの制御、一コーナーへの飛び込み——すべてが噛み合い、五番手までジャンプアップ。
終盤、前を走るCampos Racingのクロエ・チェンバーズを最終シケインで抜いた。アウトから並び、ブレーキング勝負。タイヤ半分だけ前に出て、インを閉じる。相手が引いた。
四位。
表彰台には届かなかった。でも四位は、三位のすぐ後ろだった。
第五章 モントリオール——折れた翼
七月。カナダ、ジル・ヴィルヌーヴ・サーキット。
セントローレンス川の中洲に作られたコースは、長いストレートと急減速のシケインが特徴的だった。抜きどころが多く、接近戦が避けられないレイアウト。瀬奈にとっては、マイアミの勢いをそのままぶつけられる舞台のはずだった。
予選は八番手。悪くない。流れは来ている、と思っていた。
レース1。オープニングラップ。
ターン3の進入で、前を走るHitechのマシンが急激にラインを変えた。避けようとしてステアリングを切った瞬間、右リアタイヤが縁石の段差を拾った。マシンが跳ねた。コントロールを失い、半回転してバリアに右フロントから突っ込んだ。
衝撃がシート越しに背骨を突き抜けた。
視界が白くなった。次に見えたのは、ひび割れたバイザー越しのコンクリートウォールだった。
エンジンが止まっていた。無線からマルコの声が聞こえた。
「セナ! セナ、応答しろ!」
「……大丈夫。動ける」
身体は無事だった。首が少し痛んだが、大きな怪我はない。メディカルチェックでも異常なし。
でも、マシンは大破していた。右フロントのサスペンションが折れ、モノコックにもダメージが入っていた。レース2に出走できるかどうか、ぎりぎりの判定になった。
ガレージでメカニックたちが懸命に修復作業を続ける中、瀬奈はパドックのベンチに座っていた。首に巻いたアイスパックが、じわじわと溶けていった。
エラが隣に座った。
「私も去年、ここでウォールに刺さった。モントリオールはそういうコース。気にすんな」
気にするなと言われて気にしないでいられるなら、レーサーはやっていない。
頭の中で、クラッシュの瞬間が何度もリプレイされた。バリアが迫ってくるあの一瞬。身体が縮こまる感覚。コントロールを失う恐怖。
マルコに「速さを許可しろ」と言われてから、少しずつ踏めるようになっていた。ジェッダで踏めた。マイアミで踏めた。壁が低くなっていると、自分でも思っていた。
でもクラッシュは、低くなった壁をもう一度積み直す。
レース2。メカニックたちが間に合わせてくれた。走れる状態にはなった。だが、マシンのバランスは完全ではなかった。そして——瀬奈自身のバランスも。
ターン3の進入で、無意識にブレーキを早く踏んだ。さっき刺さった場所。頭がわかっていても、身体が覚えている。
十三位。ノーポイント。
モントリオールの結果で、ランキングは十位に後退した。マイアミまでの上昇気流が、一気に失速した。
その夜、ホテルの部屋でビデオ通話を開いた。相手はマルコだった。
「ターン3、怖かったか」
「……怖かった」
「当たり前だ。壁にぶつかった翌日に同じコーナーを全開で行ける人間がいたら、そいつは壊れている。怖いのは正常だ。問題は、怖さにどう付き合うかだ」
「どう付き合えばいいの」
マルコは少し黙って、それから言った。
「怖さを消すんじゃない。怖いまま踏むんだ。おまえは上海のとき、怖くて踏めなかった。ジェッダで、怖いけど踏んだ。その『怖いけど踏む』を、もう一回やるだけだ。一回できたことは、二回できる」
簡単に言ってくれる、と思った。でも、この人がそう言うなら、と思える自分がいた。
それが、四ヶ月で積み上げた信頼だった。
第六章 ザントフォールト——雨の中の約束
九月。オランダ、ザントフォールト。
瀬奈が最も得意とするコンディションが、ここで訪れた。雨だった。
日本でカートを始めた頃から、雨のレースだけは負けなかった。富士スピードウェイのF4時代、ウェットコンディションでのレースでは三戦三勝。水の上を走る感覚が、なぜか昔から身体に馴染んでいた。
父の影響かもしれない。雨の日に限って、父はカートコースに行きたがった。「雨のほうが、マシンじゃなくて人間が試されるんだ」と嬉しそうに言っていた。
モントリオールのクラッシュから二ヶ月。身体の傷は完全に癒えていた。でも、ターン3の記憶はまだ身体のどこかに残っていた。それを抱えたまま、瀬奈はザントフォールトに来た。怖さを消すのではなく、怖いまま踏む。マルコの言葉を、呪文のように繰り返していた。
ザントフォールトの土曜日。朝から北海の湿った風が吹き、予選開始直前に雨が降り始めた。
路面が濡れていく中、多くのドライバーが慎重になった。ハイドロプレーニングを恐れ、ブレーキングを早め、コーナリングスピードを落とす。
瀬奈は落とさなかった。
ウェットタイヤの限界を、指先で感じ取る。ステアリングが伝える微かな振動の変化。グリップが抜ける瞬間の、ほんの一瞬の「浮き」。その境界線の上を、針の穴を通すように走る。
モニターの前でマルコが立ち上がった。
予選二番手。
ガレージが沸いた。ロディン・モータースポーツにとっても、シーズンベストのグリッドだった。
レース2。雨は止んでいたが、路面はまだ濡れていた。二番グリッドからスタートした瀬奈は、オープニングラップのターン3でトップに立った。
先頭を走る感覚を、瀬奈は初めて知った。
前にマシンがいない。巻き上げられる水しぶきもない。クリアな視界。自分のペースで、自分のラインで走れる。
三周目。後方からPrema Racingのドリアーネ・ピンが迫ってきた。チャンピオンシップリーダー。昨シーズンも上位を争った実力者。ミラーの中で、赤いカウルがどんどん大きくなる。
五周目のバンクドターン。ピンが仕掛けてきた。イン側に飛び込み、並走。コーナーの出口で瀬奈のラインが膨らんだ一瞬、ピンが前に出た。
抜かれた。悔しい。でも、崩れなかった。
ピンの背後にぴたりとつき、プレッシャーをかけ続けた。ファステストラップを更新しながら、一秒以内の間隔を保つ。最終ラップ、最終コーナーでもう一度並びかけた。しかし、わずかコンマ二秒及ばなかった。
二位。
表彰台の二番目の段に立ったとき、瀬奈の目に映ったのは観客席のオレンジ色の波だった。オランダGPの名物であるオレンジの応援団の中に、小さな日の丸が一つ揺れていた。
誰だろう。わからない。でも、胸が熱くなった。
シャンパンファイトで、ピンが瀬奈に向かって泡を吹きかけながら言った。
「次はもっと早く仕掛けてきなさい。最終ラップまで待ってたら、私は逃げるわよ」
瀬奈は笑った。シャンパンの泡が目に染みた。
表彰台を降りたあと、メディア対応のために並んで歩いているとき、ピンが不意に言った。
「あなたのウェットの走り、きれいだった。本当にきれいだった」
お世辞を言う人ではないことは、半シーズンを戦えばわかる。瀬奈は「ありがとう」とだけ答えた。
ピンは少し間を置いて、続けた。
「私が初めてフォーミュラカーに乗ったとき、フランスのカート関係者に言われたの。『女の子はここまでだよ。フォーミュラは男の場所だ』って。八歳のときよ。八歳」
瀬奈は黙って聞いていた。
「だから私は勝ちたいの。あのとき私を止めようとした人たちの前で。勝つこと以外に、証明の方法がないから」
ピンの横顔は、笑ってはいなかった。静かで、硬かった。
「あなたも同じでしょう。理由は違っても、証明しなきゃいけないものがある人間の走りをしてた」
瀬奈は、この人のことを初めて理解した気がした。レースではライバル。でも、走る理由の根っこのどこかで、同じ地面に立っている。
第七章 シンガポール——夜空の下で
十月。マリーナベイ・ストリート・サーキット。
シンガポールのナイトレースは、F1 Academyの中でも特別な一戦だった。ライトアップされたコースを、夜の熱気の中で走る。
このラウンドに、チームメイトのクロエ・チョンが特別な思いを持っていた。シンガポール出身の彼女にとって、ホームレースだ。
「お客さんに見せたいんだ。アジアの女の子でも、ここで走れるんだって」
パドックを歩きながら、クロエが珍しく饒舌に語った。瀬奈は黙って聞いていた。その気持ちが、痛いほどわかったから。
予選。瀬奈は五番手、クロエは七番手。
レース2、終盤。瀬奈は四番手を走っていた。ミラーの中にクロエのマシンが見えた。六番手から追い上げてきている。
前を走る三番手のART Grand Prixのコートニー・クローンとの差は一秒。仕掛けるなら、次のヘアピンしかない。
瀬奈はブレーキを奥まで残し、インに飛び込んだ。タイヤが悲鳴を上げる。クローンが驚いてラインを譲った。
三位。
残り二周。瀬奈の後ろから、クロエが怒涛の追い上げでやってきた。五番手の相手を抜き、四番手に上がった。
チームメイト同士で三位と四位。ロディン・モータースポーツのチーム内無線が、歓喜に包まれた。
フィニッシュ後、車を降りた瀬奈のもとにクロエが駆け寄ってきた。
ヘルメットを脱いだクロエの目が、赤かった。
「ありがとう。あなたが前を走ってくれてたから、自分も行けると思った」
瀬奈はクロエの肩を抱いた。
表彰台の三番目の段。見上げると、シンガポールの夜空にビルの光が滲んでいた。マリーナベイ・サンズの上に、月が出ていた。
ここに立っている。アジアから来た自分が、ここに立っている。
最終章 ラスベガス——グリッドの先に
十一月。ラスベガス・ストリップ・サーキット。最終戦。
シーズンを通して、瀬奈はランキング七位まで上がっていた。モントリオールのリタイアで失った点数が重い。あれがなければ、もう少し上にいたかもしれない。でも「たられば」はレーサーの敵だ。今ある順位から、最後の一戦で何を掴むか。
チャンピオンシップの行方はPrema Racingのピンがほぼ手中にしており、瀬奈のタイトル争いは現実的ではない。
でも、目標はあった。
シーズンを五位以内で終えること。トップ5は、翌シーズンへの交渉材料になる。F3への推薦にもつながる。ランキング六位との差は、わずか四ポイント。
金曜日の夜。ホテルの部屋で、瀬奈は母とビデオ通話をした。
「緊張してる?」
「してない、って言ったら嘘になる」
「嘘つきなさい。お父さんもいつもそうだった。『全然緊張してない』って言いながら、ヘルメットの中で手が震えてたって、あとから自分で笑ってた」
瀬奈は笑った。そういう父だった。強がって、でもそのおかげで本当に強くなれる人だった。
「お母さん」
「なに?」
「瀬奈って名前、好きだよ」
画面の向こうで、母が目を潤ませた。
土曜日。ラスベガスの予選。
ストリップの煌びやかなネオンの中を、フォーミュラカーが駆け抜ける。非現実的な光景。でも瀬奈の目には、コースだけが見えていた。
アタックラップ。ストレートでスリップストリームを使い、ターン1を完璧なライン取りで通過。セクター1で自己ベスト。セクター2のテクニカルセクションも繋げた。最終セクター、バックストレートから最終シケインへ。全身の感覚が研ぎ澄まされる。
タイムが表示された。
予選三番手。
キャリアハイ。
エラが無線で叫んだ。「セナ! スリー! スリー!」——エラは予選が終わると、いつも一番にチームメイトの結果を確認する人だった。
マルコの声は落ち着いていた。でも、少しだけ声が高かった。
「いいぞ、セナ。明日は、取りに行くぞ」
日曜日。レース2。決勝。
三番グリッド。隣にはピン。前にはMP Motorsportのマヤ・ウィーグ。
スタート前のグリッド上で、ピンが瀬奈のほうを見た。バイザーの奥の目が見えた。笑ってはいなかった。でも、敬意があった。
ピンが右の拳をコクピットの縁に軽く当てた。小さなジェスチャー。意味は明確だった。——いいレースをしよう。
瀬奈は同じジェスチャーを返した。
シグナルが消えた。
スタートは五分。クラッチがわずかに滑り、ピンに並ばれた。一コーナーを二台同時に進入。ピンがわずかにインを取り、瀬奈は四番手に落ちた。
焦るな。レースは長い。
五周目。タイヤに熱が入り、マシンのバランスが安定してきた。前を走るクローンとの差を少しずつ詰める。八周目、バックストレートの終わりでサイド・バイ・サイド。ブレーキング勝負。今度は瀬奈が勝った。
三番手奪還。
十二周目。二番手のウィーグのペースが落ち始めた。タイヤが厳しいのだろう。一秒、コンマ八秒、コンマ五秒——詰めていく。
十五周目。最終シケインの進入で、瀬奈が並んだ。ウィーグは抵抗したが、瀬奈はアウトからラインを被せ、立ち上がりで前に出た。
二番手。
前にはピンだけ。差は二秒三。
マルコが言った。「チャンピオンの背中が見えるぞ、セナ」
残り五周。瀬奈はすべてを振り絞った。毎周ファステストラップを塗り替える走り。二秒三が、一秒八に。一秒四に。一秒一に。
最終ラップ。差はコンマ八秒。
ターン1。ターン5。バックストレート。スリップストリームに入った。ピンのマシンの真後ろで、乱流にマシンが揺さぶられる。
最終シケイン。仕掛けるならここしかない。
瀬奈はインに飛び込んだ。ピンがブロックラインを取る。二台が並ぶ。接触寸前。タイヤとタイヤの間は十センチもない。
シケインの出口で、ピンのマシンが半車身だけ前にいた。
そのまま、チェッカーフラッグ。
二位。
ラスベガスのストレートに、歓声が響いた。
ピンがチャンピオンを決めた。当然の結果だった。彼女は今シーズン、誰よりも速く、誰よりも安定していた。
瀬奈はスローダウンラップを走りながら、不思議な充足感に包まれていた。
勝てなかった。でも、全力だった。出し切った。何も残さなかった。
ピットに戻ると、チームのスタッフ全員が通路に並んで待っていた。メカニック。エンジニア。チームマネージャーのアダム。エラ。クロエ。
マルコが、両手を広げて立っていた。
「よくやった」
その一言で、涙が溢れた。今度は我慢しなかった。
表彰台の二番目の段。
ピンがトロフィーを掲げたあと、瀬奈のほうを向いた。
「ザントフォールトで言ったでしょう、もっと早く仕掛けなさいって」
「仕掛けたよ。最終シケインで」
「最終ラップの最終シケインでしょう。遅いのよ、相変わらず」
ピンが笑った。初めて見る、力の抜けた笑顔だった。
「でも——追いつかれたのは今シーズンであなたが初めて。来年も走るなら、もっと速くなって来なさい。追いかけてくる相手が強いほど、私も速くなれるから」
見下ろすと、ネオンに照らされた観客の中に、日本から来たとおぼしき小さなグループがいた。日の丸を振っている。その中の一人が、段ボールに手書きで何かを書いたプラカードを掲げていた。
距離があって読めない。でも、なぜか文字が見えた気がした。
「セナ、走れ。」
父が言いそうな言葉だった。
シーズン最終結果。新谷瀬奈、ランキング五位。日本人女性として、F1 Academyで初のシーズン完走、初のポイント獲得、初の表彰台、そして初のトップ5フィニッシュ。すべてが「初めて」だった。
記者会見で、最後の質問が飛んだ。
「セナ、来シーズンの目標は?」
瀬奈はマイクの前で、一拍だけ間を置いた。
「壁はもうない。次は、自分がその壁になる番です」
会見室を出ると、廊下にピンが立っていた。壁に背を預けて、腕を組んでいた。待っていたのだと、すぐにわかった。
「いいコメントね、『壁になる』。私のことを言ってるの?」
「含まれてるかもね」
ピンは鼻で笑った。それから、右手を差し出した。
「ドリアーネ・ピン。改めて。シーズン最初にちゃんと自己紹介しなかった」
瀬奈はその手を握った。上海のパドックですれ違ったときとは、まるで違う握手だった。
「新谷瀬奈。来年もよろしく」
「よろしくなんて言わないわよ。来年は負けないから」
「それはこっちの台詞」
二人は同時に笑った。廊下に、その笑い声だけが響いた。
エピローグ ガレージの灯り
十二月。富士スピードウェイ。
シーズンオフの静かなサーキットを、瀬奈は一人で歩いていた。レースのない富士は、風の音しかしない。
パドック裏の自販機の前に立った。あの日、缶コーヒーを落としたのと同じ場所だ。
スマートフォンが鳴った。イギリスの国番号。
「セナ、アダムだ。いいニュースがある」
瀬奈は缶コーヒーを買って、プルタブを開けた。今度は落とさなかった。
「来シーズン、Sauberのジュニアプログラムがおまえに興味を持っている。F3へのステップアップの話だ。詳しく聞きたいか?」
富士の冷たい風が頬を撫でた。空を見上げた。冬の澄んだ空に、飛行機雲が一筋、まっすぐに伸びていた。
「オフコース」
瀬奈はコーヒーを一口飲んで、笑った。
父が好きだった味だ。微糖。
「了」

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