【ちび創作大賞】『風』|小説「風の目/ Eye of the Storm」
📙カワムラさんの【ちび創作大賞】に参加しています。
📗選択テーマは天野 雫さんの『風』
▼本編
📖【短編小説】風の目/ Eye of the Storm

第一章 縁の村
母がいなくなったのは、ぼくのせいだ。
十三年間、ハルはそう信じてきた。だから十九になっても、風の音が嫌いだった。
縁の村は、大陸の果てにある。西の空には千年止まぬ竜巻が立ち、地平を灰色の壁で塞いでいた。人々はそれを「終わらぬ嵐」と呼び、決して近づかない。
村はその裾野で、風車を回して細々と生きている。麦を挽き、水を汲み上げ、風の恵みだけで暮らしを回してきた。
ハルの仕事は、風車の番だった。朝いちばんに羽根へ手を当て、その日の風を読む。西から吹けば嵐が荒れる兆し。東から吹けば、しばらくは穏やかだ。
指先に伝わる震えで、遠い嵐の機嫌までわかった。母から受け継いだ、ただひとつの才だった。
母が笛を吹く人だったことを、ハルはよく覚えている。畑仕事の合間に、風に合わせて短い旋律を奏でた。
祖父が母のために彫った、渦の紋のある一本きりの笛。あの音が聞こえると、村の子どもたちが駆けてきて、母のまわりに輪を作った。
けれど、母のことで覚えているのは、それだけではない。
夜中にふと目を覚ますと、台所に母がいた。灯りもつけず、膝を抱えて、肩を震わせていた。声をかけようとして、できなかった。
翌朝、母はいつものえくぼで笑っていた。まるで昨夜のことなど、なかったみたいに。どちらが本当の母さんなのか、幼いハルにはわからなかった。
笛を吹いている最中に、ふいに指が止まることもあった。母は西の空を、長いこと見つめた。ハルが呼んでも、返事がない。まるで魂だけが、どこか遠くへ吸い出されてしまったように。
「嵐が、呼んでる気がするの」
一度だけ、そう独り言のようにつぶやいたのを、ハルは今も覚えている。
そして——一度だけではなかったが、母に打たれたことがある。
いちばん覚えているのは、母が消える、前の晩だ。
何をして母を怒らせたのか、それはもう覚えていない。ただ、母の手が上がり、頬が鳴った感触だけが残っている。
そのあと、母は自分の手を、化け物でも見るように見つめて、声を上げて泣いた。ハルではなく、母のほうが泣いていた。
「ごめんね、ごめんね」と繰り返し、ハルよりも小さく縮こまって。その夜、母はハルを、腕が痛いほど強く抱きしめた。
翌朝、母は西へ消えた。
だからハルは、ずっと信じてきた。母は「嵐に呼ばれた」んじゃない。あの晩、自分が母を怒らせた。自分が、いい子じゃなかった。
だから母は、こんな息子のそばにいられなくなって、出て行った。——ぼくが、母さんを追い出したのだと。
「呼ばれたんだよ、あの子は」と村長は言った。憐れむような声で。だがハルには、それが慰めにしか聞こえなかった。
本当の理由を、自分だけが知っている気がした。その罪が、十三年、胸の底に沈み、澱のように濁り続けていた。
その夜のことだった。風車の見張り小屋で、ハルは奇妙な音を聞いた。羽根の軋みでも、風の唸りでもない。人の、うめき声のような。
ランプを手に外へ出ると、嵐の裾に近い斜面に、何かが倒れていた。
少女だった。びしょ濡れの髪を頬に貼りつかせ、うつ伏せに。まるで嵐が、口から吐き出したように。
「おい、大丈夫か」
肩に触れると、少女はうっすらと目を開けた。灰色の、雲のような瞳だった。
その手が、何かを握りしめている。ハルはランプをかざした。そして、動けなくなった。
笛だった。渦の紋のある、母のあの笛だった。
第二章 笛を持つ少女
少女は、名をレイニーといった。
小屋のベッドで目を覚ました彼女は、村の何を見ても不思議そうにした。暖炉の火。壁にかかった暦。窓の外で色づき始めた木の葉。
「これは、なに」
紅葉した葉に指を伸ばし、レイニーは尋ねた。
「葉っぱだよ。秋になると、こうなる」
「あき」言葉を、初めて聞いたように繰り返す。「わたしのいたところには、季節がなかった。ずっと、おなじ。葉っぱも、ずっと緑のまま」
ハルは、テーブルに置いた笛を見た。
「これ、どこで手に入れた」
「ある人が、くれた。外へ出るなら、これを持っていってって」レイニーは灰色の瞳をハルに向けた。「わたしを、送り出してくれた人。笑うと、右の頬にえくぼができた」
胸の奥で、何かが跳ねた。
「母さんは、嵐に消えた。十三年前だ。この笛を持ったまま」
「あの人は、消えてない。生きてる。あの、静かな国で」
小屋の中の空気が、止まった気がした。暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。
母は、生きている。あの嵐の、向こうで。
だが、ハルの胸に湧いたのは、喜びだけではなかった。もっと冷たいものが、同時にせり上がってきた。——もし生きているなら。母は、ぼくをどう思っているだろう。自分を追い出した息子を。恨んでいるだろうか。会いに行けば、あの晩の顔で、こう言われるかもしれない。おまえのせいだ、と。
その恐れは、しかし、会いたいという気持ちと分かちがたく絡み合っていた。恨まれていてもいい。確かめなければならない。あの晩、母が消えたのは、本当に自分のせいだったのか。それを知らないままでは、ハルはこの先、一歩も前に進めなかった。
「連れてってくれ」気づけば、そう口にしていた。「その国へ。おれを、母さんのところへ」
レイニーの表情が、初めて曇った。
「あそこへ行くには、嵐を越えなきゃいけない。簡単じゃない。それに——出るときには、代償がある。長くいた人ほど、大きな」
「代償って、なんだ」
彼女は答えず、窓の外の灰色の壁を見つめた。それから、ぽつりと言った。
「わたし、覚えてないの。どこで生まれたのか、親がどんな顔だったのか。気づいたら、あの国にいた。名前だけ、なぜか覚えてた」灰色の瞳が、ハルを見た。「帰る場所は、ない。だから、探すの。わたしが、いてもいい場所を」
「あの国は、誰も歳をとらない。誰も死なない。子どもは、わたしだけだった。遊ぶ相手もいない。大きくなることもない。ずっと、ひとり」レイニーの声が細くなった。「だから、出てきたの。わたしには続きがあるのか、知りたくて」
ハルは、彼女の握る笛を見つめた。母の形見が、今、この少女の手にある。
越え方を、知る者はいないか。ハルは、記憶をたどった。そして、ひとりだけ、心当たりがあった。
「村外れの崖の上に、変わり者の爺さんがいる」ハルは、灰色の壁を見た。「名は、ゼフ。若い頃に嵐へ挑んで、片目を失って還ってきたって、聞いたことがある。村のみんなは『嵐に呑まれ損なった男』って呼んで、近づかない」
レイニーが、顔を上げた。
「還ってきた、人?」
「ああ。本当かどうかは、知らない。ただの噂かもしれない」ハルは、拳を握った。「でも——もし本当に嵐を越えたことがあるなら、この村で、あの爺さんだけだ」
母が、生きている。会って、確かめなければならない。あの晩、母が消えたのは、本当に自分のせいだったのか。
ハルは、立ち上がった。恐れは、まだ胸にある。それでも、もう止まれなかった。
第三章 還ってきた男
嵐を越えて生きて還った者が、村にひとりだけいるという。
村はずれの崖の上に、その男は住んでいた。名をゼフ。どこの生まれかも知れぬ流れ者で、若い頃に嵐へ挑み、片目を失って戻ったきり、口を閉ざしたと聞く。村人は陰で「嵐に呑まれ損なった男」と呼び、決して近づかない。
朽ちかけた小屋の前で、老人は薪を割っていた。斧を振るう腕は太いのに、顔には歳月が刻まれすぎていた。実際の年より、ずっと。片目に古い傷が縦に走り、そこだけ時が凍りついたようだった。
「嵐を越えたいのか」
こちらが名乗る前に、ゼフは言った。振り返りもせずに。
「やめておけ。あそこは、人を喰う」斧が、丸太に食い込んだ。
「母が、生きているんだ」ハルは前へ出た。「この子が、会ったと」
ゼフは鼻で笑い、取り合う気配もない。ハルは焦って、傍らのレイニーを振り返った。
その瞬間だった。ゼフの手が、止まった。老人は、ひとつきりの目でレイニーを見た。長い、長い沈黙。斧が、指から滑り落ちた。
「……お前は、あの国の者か」
レイニーは、静かにうなずいた。
ハルは、堰を切ったように話した。レイニーが嵐の中から流れ着いたこと。母の笛を握っていたこと。あの国で、えくぼのある女に会ったと言ったこと。そして、この少女が、自分の記憶を何ひとつ持たないことを。
ゼフは大きく息を吐き、小屋の戸を開けた。「はいれ。話がある」
暖炉の火のそばで、ゼフは語り始めた。壁は三重であること。第一は暴力の風と飛来する石。頭を低くしろ、決して顔を上げるな、と自らの潰れた目を指した。
第二は幻。会いたい者、聞きたい声で、心の隙間につけ込む。第三は無風——時のない国、風の目。
「なぜ行く」ゼフが、ハルに問うた。「連れ帰れんとわかっても、なぜ命を賭ける」
ハルは、しばらく黙った。それから、初めて誰かに、それを口にした。
「母がいなくなったのは、おれのせいだと思ってきた」声が、震えた。
「消える前の晩、おれは母さんを怒らせた。手を上げさせた。だから母さんは、おれのそばにいられなくなって、出て行った。……もし生きてるなら、確かめなきゃならない。本当に、おれのせいだったのか。それを知らなきゃ、おれは、この先どこにも行けない」
ゼフは、長いことハルを見つめた。ひとつきりの目に、何かが宿った。憐れみとも、共感ともつかないものが。
「そうか。……お前も、荷を背負っているのか」
老人は、傍らのレイニーを見た。
「この子なら、あの壁を抜けられる。背が低く、石は上を飛ぶ。それに——記憶がなければ、幻は効かん。会いたい者がいなければ、嵐は見せるものがない。この娘が無事に出てこられたのも、それゆえだ」
ゼフは、ハルをまっすぐ見た。
「だが、お前は違う。背は高く、会いたい者もいる。二番目の壁で、必ず幻に呑まれかける。母親の顔を見せられて、足が止まる」老人の声が、低くなった。「そのとき、お前を正気に引き戻せるのは、幻に囚われぬ者だけだ。……この娘の手を、決して離すな。それが、生きて還る唯一の道だ」
ゼフの目が伏せられた。
「おれが国にいた頃、あの人に頼まれた。息子には、死んだと伝えてくれと。君に言えば、無理に連れ帰ると言うだろう。それがわかっていて、何も言えなかった。この十年あまり、その言葉が、喉に刺さり続けている」
老人は、壁から古い風見の羽根を外し、ハルの手に握らせた。錆びた金具に、灰色の羽根が一枚。
「これは、風のある方角を指す。だが無風の中では、ぴくりとも動かん。動かなくなったときが、着いた証だ。そして帰りは、こいつだけが頼りになる」
ゼフは、ハルの手を強く握った。
「手放すな。何があっても……還ってこい。この娘を連れて」
第四章 嵐の壁
夜明け前、ふたりは嵐へ向かって歩き出した。
灰色の壁は、近づくほどに巨大だった。空の果てまでそびえる、風の断崖。轟音が、腹の底を揺さぶる。
「頭を低く!」レイニーが叫んだ。「わたしの手を、離さないで!」
最初の壁に踏み込んだ瞬間、風が全身を叩いた。ハルは膝をつき、地に爪を立て、這うように進んだ。飛んできた小石が肩を、腕を打つ。もう片方の手は、羽根を結わえた帯に固く結んであった。
隣で、レイニーは驚くほど楽に進んでいた。石は、彼女の頭上を越えていく。ハルは奥歯を噛んだ。これを、この子は一人で越えたのか。
ふいに、風がやんだ。そして——声が聞こえた。
「ハル」
母の、声だった。
顔を上げそうになって、堪えた。だが視界の端に、女の姿が見えた。灰色の霧の中、右の頬にえくぼを浮かべ、こちらへ手を伸ばしている。
「こっちよ、ハル。会いたかった」
その声が、次の瞬間、変わった。あの晩の、泣きながらの声に。
「——嘘。会いたくなんて、ない」
ハルの指が、地面を掻いた。
「あなたのせいよ、ハル。あなたが、母さんを怒らせた。あなたが、いい子じゃなかったから。だから母さん、こんなところまで逃げてきたの。あなたの顔なんて、二度と見たくなかった」
膝が、崩れた。それは、十三年ハルが恐れ続けた言葉。夜ごと、自分で自分に囁いてきた声。嵐は、ハルの心の底から、いちばん醜い澱をすくい上げて、母の口に乗せていた。
「あなたさえ、いなければ」
ハルは、地に伏せた。立ち上がる力が、抜けていく。そうだ。ぼくのせいだ。ずっと、そう思ってきた。この声こそが、本当の——。
「違う」
ハルは、爪が割れるほど地を掴んだ。
「母さんは……打ったあと、いつも泣いた。おれより、小さくなって、泣いてた。おれを憎むどころか、自分を責めて、縮こまってた」声が、震えた。「おまえは、憎むだけだ。泣かない。だから、偽物だ。母さんじゃ、ない」
霧の中の母が、笛を持っていないことに、ハルは気づいていた。母は、いつも笛を持っていた。
「消えろ」ハルは、幻に背を向けた。「本物の母さんに、会いに行く」
霧が、悲鳴のように渦を巻き、母の顔が崩れて散った。
そのとき、隣のレイニーが立ち止まっていた。視線の先には、何もない。ただ灰色の霧が渦を巻いている。
「レイニー?」
「……なにも、見えない」少女は、遠い目をした。
「でも、昔は……見えた気がする。誰かが、いた気がする。呼ばれた気がする。思い出せない。なにを、置いてきたのか」
その横顔が、一瞬、迷子の子どものように頼りなく見えた。ハルは、聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
「進もう」ハルは、レイニーの手を握り直した。
一歩進むごとに、風が細っていく。ふと気づくと、帯の羽根が、ぴたりと動かなくなっていた。あれほど震え続けた羽根が、死んだように垂れている。
——動かなくなったときが、着いた証だ。
やがて音が消えた。嵐の唸りも、自分の息さえも。耳の奥が痛むほどの、完全な静寂。
顔を上げると、青い空があった。嵐の壁に、ぐるりと囲まれた、まん丸の空。その真下に、白い家々が、絵のように並んでいた。
風の、目だった。
第五章 静穏の国
風の目には、時がなかった。
木々は緑のまま、一枚も葉を落とさない。花は咲いたきり、しおれない。井戸端の水面は、鏡のように動かなかった。
人々は、いた。畑を耕し、水を汲み、道を歩いていた。だが、その畑に芽は出ず、汲んだ水は、誰の喉も潤さない。
ここでは、何も育たず、何も減らない。彼らはただ、外の世界にいた頃の手つきを、意味もなく繰り返しているだけだった。
誰もが若く、穏やかで——そして、誰ひとり、笑い声を立てていない。
鍬を振るう手も、桶を運ぶ足も、どこか夢の中のようにゆっくりで、その目は、遠くを見て、何も見ていなかった。
「ここでは、誰も生まれないの」レイニーが小さく言った。「みんな、外から迷い込んだ人ばかり。子どもは、わたしみたいに紛れ込む以外、増えることも、減ることもない」
広場の隅に、ひとり、様子の違う男がいた。壁の際にうずくまり、じっと外を見つめている。その男だけが、他の住人と違った。頬に深い皺が刻まれ、髪には白いものが幾筋も混じっている。均質な若さの中で、その老いは、傷のように目立った。
「あの人は一度、外へ出ようとしたの」レイニーが言った。
「壁のすぐ手前まで行って。でも、指の先が、みるみる皺になっていくのを見て、こわくなって、戻ってきた。ほんの一歩、外へ出しただけの手が、あんなに」
男は、しなびた右手を、膝の上で握ったり開いたりしていた。出る勇気も、留まる諦めも、どちらもつかないまま。ハルは、背筋が冷えた。十三年いた母は——。
そして、井戸のそばに、その人はいた。
洗い物をする手を止め、こちらを見ている。右の頬に、えくぼ。十三年前の、あのままの姿で。歳ひとつ、とっていない。
「ハル……なの?」
母の声が、震えた。桶が落ち、水が静かに広がった。「こんなに、大きくなって。ああ……ハルだ」
駆け寄って、抱きついた。記憶のままの、母の匂いがした。膝が、崩れそうになった。だが、ハルは母の腕の中で、震えていた。喜びではない。十三年、聞くのが怖かった問いが、喉までせり上がっていた。
ハルは、母から体を離した。そして、絞り出した。
「母さん。……あの朝、消えたのは。おれが、前の晩、母さんを怒らせたからか。おれが、いい子じゃなかったから。おれのせいで、母さんは、ここへ来たのか」
母の顔が、凍りついた。
「ハル……あなた、まさか」母の唇が震えた。「ずっと、そう思ってたの? ずっと?」
「だって」ハルの声が、掠れた。
「あの晩、母さんに手を上げさせて。翌朝、母さんは消えた。おれが、追い出したんだ。ずっと——」
「違う!」
母が、ハルの肩を掴んだ。その目から、堰を切ったように涙が溢れた。若いままの顔が、初めて、くしゃくしゃに歪んだ。
「違うの。ああ、ハル。逆よ。逆なの」
母は、崩れるようにハルを抱きしめた。
「あなたのせいじゃない。わたしの心が、壊れていたの。あなたを愛してるのに、その手で、あなたを打ってしまう。この手は、いつかこの子を、取り返しのつかないほど傷つける。そう思ったの」
母の指が、ハルの頬に触れた。かつて打った、その手で。
「だから、消えるしかなかった。あなたのそばにいることが、あなたを傷つけることだったから。ここへ来れば、もう何も壊さずにいられる。痛みも、こないから」
母は、涙を拭おうともしなかった。
「なのに、あなたに……そんな十字架を、背負わせていたなんて。母さんは、なんてことを」
ハルの視界が、滲んだ。十三年、胸の底に沈んでいた澱が、ゆっくりと溶けていく。
呼ばれたのではない。追い出したのでもない。母は、逃げたのだ。壊れた心から。そして、その心から、ハルを守るために。
第六章 風は外へ吹く
「なら、帰ろう」ハルは、母の手を握った。「もう、誰も傷つけなくていい。おれは、傷ついてない。だから——」
母は、静かに首を振った。壁際の、老いた男に目をやった。
「わたしは、もう出られない。あなたも、見たでしょう。あの人の手を」
ほんの一歩で、あの皺。十三年の母が出れば、ただではすまない。
「あなたの目の前で、皺だらけになって、崩れて、塵になる。それを見せることだけは、できない」母は微笑んだ。「それに、わたしの心は、もう外の風には耐えられないの。人と関わって、傷ついて、また誰かを傷つけて。……風は、痛いのよ、ハル。ここは、痛くない。なにも、感じないから」
ハルは、悟った。無理に連れ出せば、母は本当に、二度と戻らないものになる。体だけでなく、心も。
隣で、レイニーが口を開いた。
「わたしは、外へ行く」灰色の瞳が、強く光った。
「あきのつぎを、ふゆを、はるを、見たいの。ここには、つづきがない。ずっとおなじで、ずっとひとり。わたしは、つづきを、生きたい」
母が、ふたりを見て、静かに笑った。今度は、確かに。えくぼが、記憶のままに深くなった。
「行きなさい、ハル。この子と一緒に。外の風を、生きなさい」
母は、ハルの手を両手で包んだ。かつて打った手で、今度は、優しく。
「呼ばれたんじゃないの。逃げただけ。それだけは、覚えていて」
母の声が掠れた。
「そして——あなたは、なにひとつ、悪くなかった。いい子だった。母さんの、自慢の子だったのよ。それを言うために、あなたが来てくれた。それだけで、母さんは、ここにいた甲斐があった」
ハルは、うなずくのが精一杯だった。
別れ際、レイニーが、笛を差し出した。ハルは、それを口に当てた。母の吹いていた、あの短い旋律を。拙い音が、風のない空へ、まっすぐ昇っていった。
母が、その音に、涙をこぼして笑った。ハルは、その顔を、目に焼きつけた。
ふたりは、静かな国に背を向けて、歩き出した。
帰りの嵐は、行きとは違った。第一の壁に入った途端、方角がわからなくなった。壁はぐるりと囲み、どこもかしこも同じ灰色で、出口が見えない。風は四方から吹き、どれが外への風か、判じようがない。
「どっちだ!」ハルは叫んだ。声が、渦に呑まれる。
そのとき、帯の羽根が、かすかに震えた。ひとつの方角へ、たよりなく傾く。だが、弱い。風が強すぎて、指す先が、あちらへこちらへ揺れる。
——手放すな。何があっても。
ハルは、羽根を握りしめ、母の言葉を思い出した。「風が吹いたら、思い出して。母さんの笛の音だと」
ハルは、笛を口に当てた。荒れ狂う風の中で、あの旋律を、力の限り吹いた。
すると——羽根が、応えた。笛の音に呼ばれるように、ぶるりと大きく震え、迷いなく一方向を指した。母のいる国を背に、風の吹くほう、外の世界へ。ゼフの羽根と母の笛が、ハルの手の中で、ひとつになった。
「こっちだ!」ハルは、レイニーの手を強く引いた。
吹いては進み、また吹いては進む。母の旋律が、灰色の迷路に、まっすぐな道を刻んでいった。
やがて、風が優しくなった。壁を抜けると、朝だった。
縁の村が、朝日に染まっている。風車が、東からの風で、ゆっくりと回っていた。今日は、穏やかな一日になる。指先が、そう告げていた。
崖の上に、ゼフの姿があった。老いた男は、ひとつきりの目で、ふたりを見ていた。何も言わず、ただ、小さくうなずいた。ようやく、喉に刺さっていたものが、少しだけ抜けたような顔で。ハルも、うなずき返した。
レイニーが、立ち止まった。色づいた木の葉が一枚、風に舞って、彼女の肩に落ちた。彼女は、それをそっと手のひらにのせ、しげしげと見つめた。生まれて初めて、それを見るように。
「これが、あき」
その瞳から、つう、と涙がこぼれた。彼女自身、驚いたように、指でそれに触れた。
「なんでか……泣きたく、なった」
なにを思い出したのか、なにを置いてきたのか。彼女にもわからない。ハルも、聞かなかった。ただ、その涙が乾くまで、隣に立っていた。
「これから、いくらでも見られる」ハルは言った。「冬も、春も。何度でも。帰る場所がないなら、ここにいればいい。おれの村に。……一緒に、続きを生きよう」
レイニーは、手のひらの葉を、そっと胸に当てた。灰色だった瞳に、朝日が差して、金色に光った。
風が、吹いた。西からでも、東からでもない。ただ、優しく、ふたりの間を通り抜けていった。
ぼくはもう、風の音を、嫌いではなかった。母がくれた、あの旋律を思い出しながら、彼は東の空を見た。
ぼくのせいじゃなかった。母さんは、ぼくを愛していた。
その事実だけを、風がやわらかく、どこまでも運んでいった。
〈了〉
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