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【プロレスの殺気とは】中邑真輔vs飯伏幸太――殺意なき殺気という特異点

※はじめに|特異点という言葉について(炎上予防接種)

最初に断っておきます。

今回、この文章では「特異点」という言葉を使います。

ブラックホールの中心でもありませんし、
AIが人類を超える日でもありません。
微分不可能な点の話もしません。

物理学的に正しいかと言われたら、たぶん怒られます。
数学科の友人が読んだら、そっと距離を置かれるかもしれません。

でも、使います。

なぜなら便利だからです。

ここで言う特異点とは、

「それまで有効だったルールが、一瞬だけ効かなくなる点」

くらいの意味です。

プロレスは物語だ、という前提。
怪獣映画は寓話だ、という前提。

その前提が、ほんの一瞬だけ溶ける場所。

物理学者の皆さんには申し訳ない。
これは学会発表ではありません。

炎上対策として先に言っておきますが、
定義の厳密さより、体感の正確さを優先しています。

言葉は多少ズレています。
でも、震えのほうはズレていません。

もし「それは特異点ではない」と言いたくなったら、
それはそれで正しいです。

ただし。

あの夜、
中邑真輔 と
飯伏幸太 を見て、
あるいは シン・ゴジラ を観て、

「これは何かがズレている」と感じたなら、
そのズレを私は、あえて特異点と呼びます。

正確さより、殺気を優先します。

さて。

言葉の安全装置は、ここで外しました。

本編に入ります。

序章|その夜、ジャンルが壊れた

プロレスは物語です。
怪獣映画も物語です。

因縁があって、伏線があって、感情の積み重ねがあって、最後に「なるほど」が来る。
観客はそれを期待してチケットを買います。

安心したいのです。
世界は設計されている、と。

しかし、ときどき。
ジャンルそのものが歪む夜があります。

物語が主役であるはずの場所で、
物語が機能しなくなる瞬間。

代わりに前面に出てくるのは、説明でも整合性でもありません。

今回出てきたものは、
殺意なき殺気です。


第一章|笑いながら壊しにいくという異常

中邑真輔 と
飯伏幸太。

あの試合を、物語として語ろうとする人は多いです。
確かに前史はあります。関係性もあります。

ですが、あの夜に起きていたことの核心は、そこではありません。

異様だったのは空気です。

中邑は笑っています。
飯伏も笑っています。

ですが、蹴りやエルボー、掌底は本気です。
受け身は危険です。
踏み込みは容赦がありません。

これは因縁の爆発ではありません。
復讐でもありません。

「こいつなら、壊れないだろ?」という信頼と、
「でも、壊れても面白かも」という狂気が、同時に存在していました。

それが殺意なき殺気です。

殺すつもりはない。
だが、壊れるかもしれないという緊張はある。

プロレスは本来、ここに物語を被せます。
「あの一言があったから」「あの裏切りがあったから」と。

しかし、あの試合は違いました。

物語より先に、殺気が立っていたのです。

観客は展開を追っていませんでした。
ただ、目を離せなかった。

「これ、どこまで行きますか?」

その問いは試合のアングルに向けられていません。
リング上の二人に向けられていました。

ここが特異点です。


第二章|感情の読めないゴジラ

『シン・ゴジラ』

あのゴジラの顔の造形を、冷静に思い出してみてください。

怒っているのか。
苦しんでいるのか。
何を考えているのか。

まったく読めません。

1954年の ゴジラ は、
核への怒りという明確な物語を背負っていました。

しかし『シン・ゴジラ』は違います。

進化します。
ただ進化します。

ゴジラの進化の過程で東京が壊れます。
ただ壊れます。

そして放射熱線。

何の前触れもなく、
総理大臣をはじめとした多くの閣僚が
一瞬で蒸発します。

おそらく、ゴジラ史上で総理大臣を殺したのは、
本作が初めてではないでしょうか?

死亡フラグはありません。
覚悟の台詞もありません。
遺族のカットもありません。

一瞬で死んでしまいました。

ですが、悲しみは描かれません。

そして、ゴジラ対策は、何事もなかったかのように進捗します。

ここにも殺意は描かれていません。
ですが、殺気はあります。

無表情という形で。

怪獣映画というジャンルが、
「悲劇をドラマにする」という安全装置を外した瞬間です。

これが特異点です。


第三章|安全装置が外れたとき、人は震える

ジャンルには安全装置があります。

プロレスなら因縁。
怪獣映画なら寓意と悲劇。

それらは観客を守るクッションです。

「これは物語です」
「ちゃんと意味があります」
「最後に整理されます」

ですが、特異点ではそれが外れます。

中邑と飯伏は、笑いながらアクセルを踏みました。
ゴジラは、感情を説明しないまま都市を焼きました。

そこにあるのは、制御不能に近いエネルギーです。

物語ではありません。

現象です。

現象は説明を待ちません。
観客の納得も待ちません。

ただ、起きます。


第四章|伏線回収という安心

ここで伏線回収の話です。

伏線が回収されると、人は快感を覚えます。

「ああ、やっぱり設計されていた」
「無駄はなかった」

それは安心です。
秩序の確認です。

ですが、あの試合に、どんな伏線が必要でしたか。
あの放射熱線に、どんな前振りが必要でしたか。

「実はあの台詞が…」
「実はあのカットが…」

そう言い始めた瞬間、
あの異様さは少しずつ削がれていきます。

説明は、エネルギーを整えます。
整えるということは、角を丸めるということです。

殺意なき殺気は、丸まった瞬間に消えます。


第五章|ジャンルの特異点とは何か

中邑真輔対飯伏幸太。
『シン・ゴジラ』。

この二つの共通点は、物語の巧みさではありません。

ジャンルの中に現れた特異点です。

プロレスが「物語の競技」であることを一瞬忘れさせた試合。
怪獣映画が「悲劇の寓話」であることを一瞬停止させた映画。

そこに立ち上がったのは、殺意なき殺気。

壊すつもりはない。
だが、壊れても止めない。

説明しない。
悲しまない。
回収しない。

それでも観客は震えました。

いや、だから震えたのです。


あとがき|それでも回収するのか

伏線回収は否定しません。
設計の美しさは確かにあります。

ですが、特異点の前では無力です。

中邑の笑い。
飯伏のキレ方。
ゴジラの無表情。
焼け落ちる官邸。

あの瞬間、あなたは考察していましたか。

おそらく、口を半開きにしていただけです。

震えは理屈より先に来ます。
理屈はあとから、自分の体験を安全圏に戻すためにやってきます。

「ちゃんと意味があった」と。

本当にそうでしょうか。

もしかすると、意味などなかったのかもしれません。
ただ、特異点に触れただけかもしれません。

それでも、あなたは回収しますか。

回収して、安心しますか。

それとも。

少しだけ、整理されないままの震えを抱えて帰りますか。

ジャンルが壊れた夜の記憶は、
きれいに回収されないほうが、たぶん長持ちします。

それが不親切でも。
それが不安でも。

殺意なき殺気は、
あなたの納得を必要としていません。


追伸|その殺気、会社で使えますか

ここまで読んで、「で、仕事に何の関係があるのか」と思った方。
ご安心ください。ちゃんと関係があります。嫌でもあります。

会社は物語で動いています。

中期経営計画。
キャリアパス。
評価制度。
「この経験が次につながる」という美しい伏線。

伏線回収型企業社会です。

もちろん、それは必要です。
全部が現象では会社は潰れます。
ゴジラに経理を任せるわけにはいきません。

ですが。

ときどき、特異点が開きます。

想定外の案件。
前例のないトラブル。
空気を読まない提案。
なぜか通ってしまう無茶な企画。

そのとき、多くの人はこう言います。

「前例は?」
「リスクは?」
「ちゃんと回収できますか?」

正しい反応です。
正しすぎます。

ですが、震えを生むのはいつも、
ほんの少しだけ安全装置を外した人です。

中邑真輔のように、笑いながら踏み込む。
飯伏幸太のように、壊れかけても受ける。
『シン・ゴジラ』のように、説明せずに進む。

もちろん、本当に壊してはいけません。
会社を焼き尽くしたら懲戒です。

ですが、殺意なき殺気は持てます。

「この企画、たぶん怒られます。でも、やりますか?」
と笑って言えるかどうか。

伏線がきれいに回収される未来だけを選ぶのか。
それとも、一度くらい特異点に触れてみるのか。

サラリーマンにできるのは、
世界を壊すことではありません。

予定調和を、ほんの数ミリずらすことです。

その数ミリが、ときどき震えを生みます。

評価シートには書かれません。
人事は基本、物語派です。

ですが、あなたの記憶には残ります。

あのとき、少しだけ安全装置を外した。
少しだけ殺気を出した。

回収できなかったかもしれません。
減点されたかもしれません。

それでも。

伏線がきれいに閉じる人生と、
一度でも特異点に触れた人生。

どちらが面白いかは、
もう分かっているはずです。

さて。

あなたは明日、回収しますか。

それとも、
少しだけ壊しにかかりますか。

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