THE ALFEEデビュー物語・その1 ~それぞれの向かう道~
8月25日…THE ALFEEの誕生日が近づいてきました。デビュー記念日です。
今年は当日に、SPOOXでの有料配信「Come on! ALFEE!! 夏だ! 祭りだ! ALFEEだ! Season9!!」第2回放送があります。
楽しみですね~
以前、結成までのエピソードを載せました。
出演番組等でTHE ALFEEの説明があっても、やっぱり簡潔になりがちなデビュー前後の話。
ご本人たちがよく話しているのは、高見沢さんが加入したら、メインのヴォーカルが変わってしまったということぐらいでしょうか…
これもせっかくなので、歴史をつないでいって欲しいという願いをこめて、私の知っている範囲で綴ってみたいと思います。
1973年5月19日にお三方が同じステージに立った、その後のお話です。
坂崎さんが高見沢さんをアパートに連れ込んだその当時、音楽に対するモチベーションは3人違いました。
まずは高見沢さん。
自分としては遊びで音楽やっていただけだし、もう高校3年間めいっぱいやって遊んだから、大学ではまた違ったものを探そうと考えていた。それに一緒にロックバンドをやっていたクラスの仲間は、みんな明学大には進学しなかった。それで必然的にバラバラになってしまい、バンドも自然消滅に近くなっていたんでね、ちょうどいいや、これを機会にやめようと思っていたんです。
p.61-62, 1982年
両親が教師だったので、自分も先生の道に進もうとしていた高見沢さんは、そもそも音楽で食べていこうなんて、これっぽっちも考えていませんでした。
桜井さんも同じような感じ。
大学へ入ったあとも、アマチュア時代はよく「おまえはみんなで練習しようといっても、すぐ田舎に帰っちゃうんだもんな」って、他のメンバーから非難がましく言われていたんですよ。
そう文句言われても仕方ないところが確かにあったんで、別に弁解もしなかったんだけど、当時は、ただの学生が楽しいから音楽やっているんだっていうぐらいの意識しかありませんでしたからね。普段離れて生活していただけに余計、休みの日くらい親元に帰って、ぬくぬくと暮らしたいって気分の方が強かったんですよ。
p.41, 1982年
高校入学とともに地元の埼玉・秩父を離れ、東京の親戚の家で下宿していた桜井さん。
“コンフィデンス”は遊びの範囲でした。
ただ一人、坂崎さんだけ意識が違いました。
ぼく個人としては、みんなと一緒にずっと、できればプロになって音楽をやっていきたいって気になっていたんですよ。
だから大学へ入ってすぐ、ぼくが親の猛反対を押し切って人形町にアパートを借りて引っ越したのも、思い切って音楽がやりたかったからでもあったんです。
人形町に部屋を借りてから、当然のごとく大学にもだんだん行かなくなって、2年になる頃には出席日数もほとんどゼロといった状態。別にプロになることを決意したとか、自信があったというんじゃないんだけど、いつのまにかぼくはずっと音楽だけでやっていくつもりになっていた。といっても、大学に行かない分、特別努力したわけでもなく、ただウダウダ遊び半分でやっていたにすぎなかったんですけどね。
p.72, 1982年
坂崎さんは既に、音楽を生業にしたいと考え始めていたんです。
ご実家は墨田区ですから、人形町(中央区。浜町公園の近くのアパートだったとか…)は隅田川を渡った向こう側、と大した距離でなく、一人暮らしするほどでは無かったわけで。
それだけ音楽に溢れた、自由な生活をしたかったってことの表れだと思われます。
そんな中、その人形町のアパートに転がり込んだ高見沢さん。
坂崎と一時期すごく気が合ってね。その頃あいつが下宿していた人形町のアパートにしょっちゅう泊まりがけで遊びに行ってた。彼と音楽的な好みが似ていたり、お互いのギターの知識がまったく違っていたり、そういうことにすごく興味を覚えたんです。一時は、汚い6畳ひと間で愛を語らいながら、ずるずる同棲していたような感じでしたよ。
p.65, 1982年
人見知りな高見沢さんが、人懐っこい坂崎さんに引っ張られ始めました。
さて、その前後の“コンフィデンス”の動きなんですが、ある1つの仕事が舞い込んできます。
坂崎さんの話です。
ぼくらは小室(等)さんと一緒にレコード作りをしたことがキッカケになって、その後、小室さんの事務所(六文銭ファクトリー=当時)で預かってくれるみたいな話になったわけですよ。別に給料をもらうとか、金銭的な関係はなかったんだけど、一応仕事の窓口になってくれるということになったんで、ぼく個人としては、それでもう半分プロの世界に足をつっ込んでいるような気分になってしまっていたわけ。
~途中略~
その後はしばらく受験のブランクもあって、大学に入学した頃にはもう小室さんとの事務所のつながりも、はっきりしないものになってしまっていたんです。
その間も、ぼくはしょっちゅうメンバーの家に遊びに行っちゃ、どうしよう、こうしようって音楽の話ばかりしていたら、大学入学が決まった頃、また東宝から『二十歳の原点』っていう映画の音楽をやらないかって話があったわけですよ。
p.71-72, 1982年
坂崎さんは、この話を高見沢さんにもしました。
坂崎に「『二十歳の原点』っていう映画音楽のレコード製作の話が来てるんだけど、おまえもオレたちと一緒にやんないか」って誘われたんですよ。
~途中略~
みんなで見よう見真似で歌を作って東宝にもっていったら、曲は採用されなかったんだけど、ぼくの書いた詞だけが採用になったわけ。曲の方は四人囃子の作ったものになったんだけど、それでもそのレコードが出来上がってきてクレジットを見た時は「オッ、やったな」という感じ、やっぱりうれしかったな。
とにかく自分の書いたものが、ひとつの形になったことがうれしくてね。それが自分にも音楽で何かが出来そうだなって思った最初でしたね。
p.62, 1982年
二十歳の原点 - Wikipedia
[ウィキペディア]
1973年10月27日に公開されたこの映画。
サントラ(サウンドトラック)を担当したバンド・四人囃子の『夜』というタイトルの楽曲で、コンフィデンス名義ながら、高見沢さんの詞が使われました。
坂崎さんや桜井さんは“コンフィデンス”でレコードを出していましたから、高見沢さんにとっては音楽業界に関わった初めての経験でした。
しかしながら、グループとしての活動はほぼ無いに等しく。
グループ自体も、キドアイラック・ホール(キッド・アイラック・ホール)というライブに一、二度出演したのと、文化祭でちょっとやったくらいで、どこかのコンサートに出たり、人前で演奏することもほとんどなくてね。アルフィーとしてデビューが決まる頃には、グループとしてはほとんど死んでいるような状態でしたから。
p.64, 1982年
休眠中ともいえるグループが何故、デビューへとつながったのか?
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