夢渡る帆船〈一幕:常夜の海〉
■ あらすじ
不自然に記憶を失った少女・汐帆(しほ)は白い建物が水没し、一面を海が満たす場所──夜処(よど)に墜落する。
明らかに現実とは異なる幻想的な世界で、彼女を助けたのは双子の兄を名乗る少年・湊だった。しかし、汐帆の記憶には双子の兄など存在しない。
汐帆は彼から、自分自身が夜処の主であること、そして自ら命を絶とうとしていたことを知らされる中で、記憶と共に夜処を維持するための「鍵」を失っていることに気付く。
現実と夜処とを行き来しながら、欠けた記憶の輪郭を手掛かりに「鍵」を探す小さな旅の果て、選び取るものは。
沈んだ記憶と失われた痛みに向き合い、心に抱えた海を渡る、選択と決断の物語。全三幕。
堕ちている。
強風があたかも耳の中で渦巻いているかのように、いやに近くで轟いている。
頭はぼんやりと霞がかったようで、手癖で記憶を辿ろうしても知らない虚空が広がっている。
深い闇に手を伸ばしたように、何も思い出すことができない。
堕ちている。
腰に重りを括り付けたように、とうてい抵抗できないまま私の体は下へ下へと加速する。
不思議と苦しくはない。
恐怖も、驚きも、自分の中から出ていってしまったかのように静まり返っている。
亀裂の入った心臓が、空っぽになった私の中心で力無く項垂れている。
堕ちている。
加速する景色をただ眺める。
辺りは他人事のように煌めく夜闇が満たしていた。
私はきっと、星空の海を堕ちている。
星とは地上にて死を迎えた後の魂である──なんて、誰から聞いた言葉だったか。
哀れにも宙を墜落し続ける私は、ともすれば、星のなり損ないなのかもしれない。
瞳を濡らす涙すら、瞬きの間もなく私を見捨てて、宙を舞い、掻き消える。
遠くさざめく無数の星々が、どうしようもなく欠けた心を凍てつかせていく。
■
榎本汐帆(えのもと しほ)は落下していた。
いったいどこから、どうして、このような状況となっているのか、相変わらず何も思い出せない。
……何も思い出せない? そんなことって、あるのかな。
自問自答に思考を巡らせながら、曖昧だった意識がゆっくりと覚醒するのを感じる。
汐帆は改めて自分自身を覗き込むように、あるいは途切れた現実を繋ぎ合わせるように、見当たらない記憶を手繰り寄せようと手を伸ばす。
しかし、現在に至るまでの記憶はどれだけ隈なく確かめても空っぽで、そこでようやく動揺を覚えた。
物心ついた頃から、汐帆にとって「記憶」とは目鼻や手足に近しい、身体の一部のようなものだった。
というのも、目で見たもの、耳で聞いたもの、鼻で嗅いだもの、手で触れたもの、あるいはこれらに類する己が体験したことのすべては、そのまま己の中にしまいこまれて、いつでも取り出すことが出来たからだ。
「覚える」「思い出す」というのは、息を吸って吐くような感覚に等しく、はじめから何も特別なことではなかった。
それが周囲からすれば異様なのだと、違和感を感じたのは4歳のとき。
その日、母は朝から機嫌が悪く、チラシや請求書が差し込み口から飛び出して、見るも無惨になっているポストのダイヤルを乱暴に回していた。
しかし、いくら回しても開かず、そのうちにダイヤルを回していたはずの手が怒りに任せてガンガンと殴りつけるのに変わったのを見て、母が困っている、と判断した当時の汐帆は、そっと背伸びをした。
ぎりぎり触れるダイヤルをなんとか「母が以前、ポストを開けていたときの順番」に動かす。
そうしてツマミを少し引っ張ると、ビクともしなかった扉は詰まりに詰まった郵便物に押し出されながら、半ば弾かれるように開いた。
おかあさん、あいたよ。
弾みそうになる声を押さえつけて、けれども喜んでもらえるかも、もしかしたら褒めてもらえるかもしれないと高揚した気分を隠しきれないまま、母を見上げる。
母は、奇妙な顔をして黙り込んでいた。
当時の汐帆を見下ろす冷えきった瞳の中に少しの恐怖が滲んでいるのを、今ならば読み取ることができる。
気味が悪い。
やがて、一言だけそう吐き捨てた。
そうして目的の郵便物だけを摘み上げるなり、今度は閉まらなくなったポストを放置して、さっさとエレベーターに乗り込んでしまう。
汐帆は慌ててその背を追いながら、何がいけなかったのかと一生懸命考えていた。
小学校に上がる頃になると違和感はより顕著になった。
この頃、常に薄汚れた、とうにサイズのあっていない服を着ている汐帆にとって、己の数少ない持ち物が無くなったり、あるいはゴミ箱の中からボロボロになって見つかることは日常茶飯事であった。
それでも特に痛い思いをするわけでもなく、昼の時間になれば必ずご飯にありつけたので、たとえランドセル(祖父が買ってくれたものだ)の中身が空っぽであっても、仕方のないことだと割り切って通っていた。
教科書はいちばん最初に無くなったのだが、汐帆は受け取ったその日の晩に自分の物が手に入った嬉しさから、全てのページに目を通していたので、授業中に困ることはなかった。
というのも、机の上に教科書がなくとも指定されたページの一文を読むことが出来たし、問題を解くことができたからだ。
ノートは買ってもらえなかったので、解けた人から先生の所へ、と言われたときは仕方なく手ぶらで向かった。
一問目から順番に解答を述べると、教師は一瞬間、奇妙な顔で汐帆を見つめた。
4歳のあの日以来、時折母が向けるのとよく似た表情である。
母と違うのは、その後、特に何も言われることはなく、たとえ癇に障ってしまったかのような気配があってもわざわざ手をあげるというようなことは無かったことぐらいか。
どの教員も関わり合いになりたくないというのがありありと透ける態度を隠そうともせず、せいぜい手で払う動作で席に追い返されるのが関の山だった。
このように、汐帆にとっての記憶とは、手指を動かすのと同じ感覚で、ある種無意識に、それゆえある程度自由に扱うことができるものであったわけだ。
忘却とは物心つくころからさっぱり無縁であり、日々とは常に、今、この瞬間の現在に対してどこまでも地続きの過去が紡ぐ、不断の連続なのである。
だからこそ、〝思い出せない〟という相対したことのない感覚は凄まじい違和感をもって汐帆の思考を殴りつけた。
自分自身とこれまでの日々とが繋がっていない。何ひとつ思い出すことのできない虚ろな空白が、まるで首から下を切り取られたような所在なさをもって汐帆の胸をざわつかせる。
ふと、疑念が過ぎった。
切り離されたのは記憶ではなく、私の方なのではなかろうか。
中身はとうに零れ落ちて、私という器にこびりついた残滓が〝私〟という自我をかろうじてなぞっているだけだとしたら?
総毛立つ感覚が背骨を貫くと同時、ただ真っ直ぐに墜落を続けていた汐帆の身体は、前触れなく水中へ投げ出された。
あまりにも衝撃がなく、勢いよく着水したというよりも始めから周囲が水で満たされていたのではないかと錯覚すら覚える違和感の中、揺らめく水面越しに高く上がった水飛沫がコマ送りのように見え、先ほどまでとは比べものにならない重さが全身を襲った。
悲鳴か、驚愕か、無意識に開いた口から空気が漏れる。
途端に襲いかかる獰猛な苦しさに意識を手放しかけたとき、汐帆の身体は唐突に引き揚げられた。
「大丈夫か!」
それは妙に聞き覚えのある声だった。
だが、もどかしい。誰だろう、思い当たる顔がない。
何度か咳き込み、むせ返しながらも考える。
辺りは暗く、いよいよ夜の底まで墜落しきったのかもしれない、と汐帆は頭の片隅で自嘲した。
しかし、星明かりのみが光源にしては異様なまでに視界良好なことには疑問を覚えた。
腰を下ろした地面は僅かに水が張っており、髪からとめどなく滴り落ちる雫が幾重にも波紋を作っているようで、撫ぜれば卵の殻に似た手触りがする、まではいい。
しかし、そのざらりとした地面が暗い中でも漆喰を塗ったような白色をしているのが、汐帆には何故だかはっきりとわかった。
それは白に見えるというより、白であることを知っているような感覚に近い。
解こうとした計算問題が既に暗記している九九と同様であると気付いたかのように、考えるより先に理解してしまう瞬間とよく似た、奇妙な見え方をしているのだ。
加えて、視界の端には広大な海原を捉えていた。ここから引き揚げられたのだろうことは想像に難くない。
実際に海であるのかは怪しいが、そうでなければありえないほどに果てしなく見える。こちらもまた夜闇のなかにあって、透き通るほどに青かった。
暗闇の中では色の判別など出来るはずがないのに、と汐帆はただでさえ混乱する状況に思考が追いつかず、呆然とする。
ここは、一体。
何もかもが非現実的な光景だった。
もしかしたら夢を見ているのかもしれない。
汐帆は頬に触れながら逡巡する。頬をつねったぐらいで目覚めるのならば、先ほど水面に叩きつけられた際にとっくに目が覚めているだろう。
しかし、これが現実なのであれば、あの長すぎる墜落から現在に至るまで無傷であることもまた、理解の範疇を超えている。
汐帆を海から引き揚げた人物はこちらの混乱を受け止めるように、辛抱強く落ち着くのを待っているようだった。
それにようやく意識が向くと、どうにか整いつつある呼吸を確かめて、一言絞り出す。
「ごめんなさい、私、あの」
「いいから。水、飲んでないか? つらいところは、どこか痛んだりは?」
「あ……ええと、うん、大丈夫」
「そうか」
心底安心したように言われて面食らう。
不意に気が付いたのだ。聞き覚えるのあるその声が、一体誰に似ているのか。
汐帆が顔を上げると、己とそっくり同じ顔をした人間がこちらを見上げるようにしゃがみこみ、穏やかに微笑んでいた。
よく見れば髪型や、着ている服に差異はあるものの、あまりに鏡写しの容貌に絶句する。
「はは。そら、そうなるわな」
がっくりとわざとらしく肩を落とし、気まずそうに返す。
その声は汐帆よりもやや低く響くけれども、やはり、紛れもなく自分自身のそれに似ている。
汐帆が作ったことのない前髪を眉下に整えて横に流し、後ろ髪は長いまま首の後ろでひとつに束ねたその人物は、汐帆がセーラー服を着ているのとは対照に、同じ高校の学ラン姿で、さらに言えば汐帆が出したこともないような優しい声で、「落ち着いて聞いて欲しい」と語りかける。
「俺、榎本湊(みなと)。お前の兄貴だよ」
何故か気まずそうに目を逸らしながら、彼はどこか自分自身にも言い聞かせるような調子で兄を名乗った。
どこから吹きつけるのか、冷たい風が足元の水面にさざなみを立てる。
まさか。そんなはずはない。
汐帆は、ほとんど反射的に疑念を込めた視線を返す。
いくら記憶がないといっても、それはあくまで墜落に伴う記憶が見当たらないということで、己が半生そのものを忘れているわけではない……はずだ。
疑念の行き先はすぐに自分自身に向けられた。
汐帆は生まれつき一人っ子であり、兄弟姉妹はいない。幼少期の記憶から高校生に至るまでの期間を思い返して確信する。
少なくとも、兄の存在だけを忘れている、というような違和感は存在しない。
否定も肯定もせず、黙りこくったままの汐帆に痺れを切らしたのか、やがて湊は大袈裟に宙を仰ぐと、たはーっと息を吐き出した。
「あんまジッと見るなって。照れるだろ」
「そんなこと言われても……ビックリするぐらい、似てるから……不思議で。髪型とか、服とか、わざと変えてるように見えるぐらい」
汐帆がまじまじとそう返すと、湊はほんの一瞬言葉に詰まったように目を見開いた。
けれども、すぐに前髪をくしゃっと掴むと大雑把に整え直し、手をどけたときには既に眉を下げた困り顔で笑っていた。
そのあまりの自然さに、刹那に捉えたはずの表情がまるで見間違いだったかのように思え、汐帆は思わず目を擦る。
気のせい? いや、でも。
汐帆が首を傾げても、何がそんなに可笑しいのか湊はニコニコと目を細めるばかりで埒が明かない。
「勘弁してくれ。俺のことは、まあ、隠すようなもんじゃないけどさあ。……聞きたいか?」
汐帆がこくりと頷くのに、いよいよ湊は吹き出すと「わかったよ」とまるっこく言った。
ごく自然に隣に腰を下ろす彼に、汐帆は言いようもなくくすぐったい気持ちを覚えながら、手持ち無沙汰なのをゆるく握った拳で口を覆うようにして、無意識に誤魔化した。
余計なことを言わないようにと、幼いころからの癖だった。口元を隠している方がどうしても落ち着くのだ。
二人の声だけが響く夜の底は、頭まですっぽり布団を被ったときのような心地がした。
湊は、見たまんまではあるんだけど、と前置きして朗らかに言う。
「俺たち、双子だよ。腹の中で会ったことがあるだろ」
「……覚えてない」
「そらな。まだ脳ミソ完成してないもんな」
覚えてない、なんて、まさか口にする機会があるとは思わなかった。
汐帆は慣れない言葉に思わず唇を触る。
「生まれてないんだ。勿論、俺だけ。母さんも、俺のことなんて忘れちまってると思う」
「生まれていない……?」
「そうさ。俺たち兄妹の魂は二人仲良く母さんの腹まで降りてきた。けど、まあ、生まれる運命それ自体は一人分だったんだよ」
湊は胡散臭い言い方しかできないけど、と頬をかきながら続ける。
「んで俺、お兄ちゃんだろ? イッコしかない椅子を可愛い妹に譲ってやったのさ。それで、中途半端な俺の身体は腹ン中で汐帆に吸収させたってわけ。そしたら空に帰るはずだった俺の魂も、うっかり汐帆の中に残っちまった」
見上げながら、高くを指さす。汐帆もつられて宙を見上げる。
星が煌々と歌う夜空だ。
どこにも月がないのに、不思議と明るい。
「んで、それが俺です。……どう?」
「信じがたい……かも」
「わざわざ言わんでも、ハッキリ顔に書いてあるよ」
一人でくつくつと堪えるように笑う湊に、汐帆は追求する気も失せて、ポカンと口を開けるばかり。
こういうのって、確か、バニシングツインって呼ぶんだったかな。
はたとそう思い当たると、汐帆はジッと考え込んだ。
そうして、改めて記憶をさらいながら思考の輪郭を掴むようにひとつひとつ言葉を吟味する。
「やっぱり、双子の兄だなんて、お母さんからは一度だって聞いたことないよ。でも、母子手帳も持っていないような人だし」
「ああ」
「だから、忘れていたんじゃなくて知らなかった、ということなら、ありえるかもしれない」
「知らなかった? 俺の存在をまるごと忘れているわけじゃなく?」
「うん。湊の話が本当なら、私は、そうだと思う」
「優しいんだなぁ」
「えっ?」
独り言、と人差し指を立てる姿に汐帆は何だか気の抜けた気分になって、そっか、と呟いた。
こんなにも自分と似ているのに、湊はあまりにも別人だ。
ころころと変わる表情と茶目っ気たっぷりの仕草は、近くにいるだけで明るい気分にしてくれる。
もし彼が双子として生まれていたなら、きっと、飽きない日々を送れていただろう。
詮無いことだな、と口には出さずに胸に留める。
「よかった。少し潮が引いたな」
「潮?」
「そう。さっきまで、そこら一面まるまる水面だったろ。今は……少しだけど、水位が落ち着いてる」
言われて足元を見れば、つい先ほどまで地面に張っていたはずの水が跡形もなく引いている。
汐帆が動こうとすると、サッと立ち上がった湊が手を差し伸べた。
素直にその手を掴むと、服も靴も、さらりと腰に流れる髪までもがすっかり乾いている。
まるで水の中に堕ちたこと自体が夢だったかのように、すべての痕跡が消えていた。
汐帆は改めて辺りを見渡す。
とっぷりと夜闇に沈んだ水面には、ギリシャの街並みを想起させる白い建物がきらきらと映り込んでいた。
水際に近付きよく目をこらせば、深く深く底の見えないほどの水面下にも同様に白い街が沈んでいるのが確認できる。
汐帆が足をつけている地面もまた建造物のてっぺんであるように、水面から顔を出している場所はあくまでも何か建造物の一部のようだった。
非現実的な水没都市の様相は、退廃よりも神秘的な印象を強く受ける。
しかし、星明かりが照らしているとはいえ、やはり闇に目が慣れているというだけでは説明がつかないほどよく見えた。それこそ、輪郭がぼんやりと発光しているような錯覚を覚えるほどに。
静かで、素敵な場所だ。
けれど、どうしようもなく寂しいような気がする。
胸の奥がジンと痛んだ気がして、汐帆は胸元を撫でる。
「ここは、どこなの?」
「夜処(よど)だよ。夜に処(ところ)と書いて、ヨド。常夜の世界さ。やさしくて、良いところだろ」
「夜処……」
「ああ、いや、今のじゃ説明不足だな。ごめん、手を貸して」
「え?」
湊は汐帆の手を取るなり、「今から言うことをよく聞いて」と耳打ちしながら、空いている片手で汐帆の目元を覆った。
うーん、そうだな、と一言二言独りごちると、わざとらしく寒い、寒いと言い始める。
「さっき濡れたからかな。なんだか肌寒い気がする。そうだなあ、タオルケットが必要だ」
「タオルケット……?」
「ウン。そこに置いてある。真っ直ぐ手を伸ばして、そう。掴んで、引っ張ってみて」
汐帆は疑問に思いながらも、言われた通り手を伸ばす。
タオルケットなんて、あったかな。けれど、湊が必要だと言うのだし、とりあえず言われた通りに……。
汐帆は手品でも見ているような心地で(実際は目を覆われて何も見えていないのだが)言われた通り、掴んで、引き寄せる動作をする。
すると、確かに何も無い場所を掴んだような、虚空に手を伸ばしたそのままの感覚であったのに、身体に引き寄せるほど柔らな感触が実感を伴ってゆく。
「やるじゃん!」
パッと視界が開ける。湊が手をどけたのだ。
見れば、汐帆の腕の中には、薄手の大きなタオルケットがあった。
「ど、どういうこと?」
「汐帆が取り出したんだ。その柄、見覚えないか?」
言われて広げてみると、湊の言う通り、見覚えがある。
まだ言葉も話せないほど幼いころ、自分の上に掛けられていたタオルケットだった。
緑と赤のギンガムチェックに、茶色の大きなクマがプリントされている。どこかクリスマスチックなデザインは、よく見ると少しよれて、使いふるされたような気配がある。
「これ、おじいちゃんの家にあった……」
「母さんのお下がりなんだろ」
「そう、だけど、どうしてあなたが知っているの?」
「言ったろ? 魂になって一緒にいたって。汐帆が見てきたものは、俺も全部知ってるのさ」
湊は広げたタオルケットを受け取り、けれども自分では使わずに、汐帆の肩に掛けてやりながら得意げに言った。
使い古されてペラペラになったそれは、懐かしい匂いがする。
「夜処はな、持ち主の心そのものなんだよ。誰もが持っている、自分だけのスペース。なあ、今、タオルを出したみたいに、今度は椅子を出してみよう。地面に手を付けて」
「こう?」
「そう。そのまま、上に引き出して。学校の椅子でいい。綺麗なやつな」
汐帆は半信半疑で床に手をつけると、確かにそこに取っ掛りがあるような気がして、掴み、引っ張り出す。
スルスルと出てきたのは学校、汐帆が通っている高校の椅子だった。
「さすが。もうコツを掴んだみたいだ」
「……ねえ、夜処の、持ち主って」
「ご想像の通り。この夜処の主は、汐帆、お前なんだ」
湊は汐帆を椅子に座らせると肩にかけてやったタオルケットを首元で軽く結び、まるで物語の中の王様がするように、ばさりとマントに見立てて広げてみせた。
「そして俺は、夜処の居候。いつもお世話になっております、なんてね」
うやうやしく片膝を付くと、冗談交じりにそう言う。
「夜処の主は私……そして、夜処は、持ち主の心でもある」
汐帆は呆然と呟く。
「この場所は、私の心の中……?」
湊はチラッと汐帆を見上げて、頷く代わりに目を軽く伏せて見せた。
水面には相変わらず一体どこから風が吹くのか、さざ波が拡がっては霧散していく。
「少し歩こう。本題がある」
椅子にタオルケットをかけると、湊は汐帆の手を引いた。
真っ白な道を当てどなく歩く。
どこに繋がっているのかよくわからない階段や、所々が完全に水没した遊歩道を横目に見ては、どこか巨大な生物の骨格標本を連想する。
湊は歩ける場所だけを素早く吟味しているようで、足運びには迷いがなく、慣れているのが見て取れた。
途中、薄く水の張った箇所もあったが、湊は気にせず歩き続けた。汐帆もそれに倣う。
そういう道は一歩踏み出すたび、しゃんと鳴る水音が心地好かった。
何度か上がり、それ以上に下り、いくつかの建物の中を通過した頃、湊はそっと口を開いた。
「なあ、夜処は何のためにあると思う?」
「うーん……心そのもの、なんだよね? それはつまり、どうして心という概念があるのかってお話かな」
「ああ、悪い。今のは聞き方がよくなかった」
そう言うと立ち止まって、壁に背中を預ける。
少しだけ考え込むように俯くと、湊は目に前髪のかかったまま視線だけを汐帆に向けた。
「要は、夜処の役割の話だ。心ってのも曖昧な表現だけどさ、どうしてこんな場所があるのか考えてみて欲しいんだ」
「この場所の、役割……」
汐帆は口元に手を当てて考える。
水没した都市。常夜の景色。心の中。歩き慣れた湊、無自覚に主である私。
……そういえば、結局、どうして私はこの場所にいるのだろう。
心の中とは、つまり、自分の内側であるはずだ。その内側に私がいるのであれば、あべこべではないか。
私は夜処に墜落した。しかし、その前後の記憶がない。
夜処の役割を考えるにあたり、鍵となるのはここではないだろうか。
「……逆、なのかも」
「へえ?」
「私、ここへ堕ちてきたときの記憶がないの。でも、もしかしたら、記憶を失うためにここへ堕ちてきたのかもしれない」
「ああ、それで〝逆〟ね」
「うん。だから、夜処の役割は、記憶の整理……なのかな」
汐帆は口元に当てた手に語りかけるようにぽつぽつと話しながら、やがて結論に辿り着くと、ようやく湊の方へ顔を向けた。
「汐帆は本当に賢いなあ」
「ええと、合ってた?」
「半分ぐらいね」
「褒めたわりに、微妙」
「えーっ! そんな、拗ねんなって」
「……」
汐帆がそっぽを向いてみせると、湊は慌てて駆け寄ってソワソワと周囲で忙しなく屈んだり、座り込んだりしながら、上目遣いで「ごめんって……!」と謝罪を繰り返した。
その様子がなにだか濡れた犬のようで、汐帆がついにおかしくなって吹き出すと、今度はしてやったりとでも言いたげにペカーッと歯を見せる。
汐帆がそれにつられてまた笑うと、湊はようやく安心したように膝に手をついて深く息を吐き出した。
そんな些細なやり取りに、頭の隅で不意に懐かしさが込み上げる。
まるで有り得たはずの過去を追体験しているような、温かくも切ない感情が喉元を過ぎるのを、汐帆はそっと呑み込んだ。
湊はあえて汐帆の表情には触れずに、視線を少し外したまま話し始める。
「夜処はさ、誰もが持っている心の……自浄作用のようなものなんだ。だから安直に心の中とするよりは、心が持つ機能のうちの一つと考えた方がより正確かもしれない」
「自浄作用……」
「夜処の主が眠りに就くと、ここではその日の感情……処理しきれなかった澱みや、それこそ感情が良い方にも悪い方にも大きく振れすぎて、荒れてしまった魂を浄化する。癒すって表現の方がわかりやすいかな。眠って起きたら心なしかスッキリしてるってことはないか?」
「ええと、どうだろう」
「そうだなあ、濁流のような感情が一瞬でも忘れられた経験は? 汐帆は記憶力が昔っから良いから、むしろピンとくるところあると思うな。傷付いた場面を覚えているのに、翌日以降思い出すぶんには、その瞬間のブン殴られたような感情にはならないだろ」
「あっ」
そう言われると、確かに思い当たる節はあった。
辛い記憶を思い返すとき、汐帆は当事者ではなく観察者になるような意識の転換があるのだ。
「とはいえ、そういったストレスを完全にゼロに出来るわけじゃない。澱みは水を濁らせるから、取り除ききれないぶんは水位を増して奥底に沈めることもあるし、荒れた心を鎮めるなんてのも……嵐の間、必死にこの都市が崩れないよう耐えるだけだ。一通り暴れ散らかしたら、誰だって少しは落ち着くもんさ」
湊は一瞬、物凄く悲しげな目をすると、汐帆がそれに触れる前に前髪をくしゃっとして、ぶんぶんと頭を横に振った。
きっと誤魔化すときの手癖なのだろう。
「夜処の主が眠って、起きる。その眠りの間にだけ、魂の休む瞬間にだけ、夜処は目覚める。朝寝ることも、昼間にウトウトすることもあるだろうけど、汐帆が眠るという概念を〝夜〟と捉えているから、汐帆の夜処はいつだって常夜の世界なんだ」
「……待って。あなたの話が本当なら、今の状況ってやっぱり、少し、おかしい気がする」
そうだね、と湊は肩を落としながら前髪から手を離す。崩れた髪はどこか痛々しく、汐帆は躊躇いながらも手を伸ばした。
軽く指先で梳いてやると、湊はきょとんとしながらも目を閉じ、されるがままに大人しくしている。
汐帆の手が離れるのを待って、口を開いた。
「おかしいというのはさ、汐帆、お前自身がこの場所にいることだろ?」
湊は寄りかかった壁に沿って水没する景色に視線を投げていた。
その横顔は彫刻のように鋭利で、どこか品がある。
服や髪型が男性的だからか、顔のつくりこそ汐帆と同様にも関わらず、中性的なうつくしさがふとした瞬間に強調されるのかもしれない。
汐帆は湊の言葉にこくりと頷いた。
夜処は、夜処の主が眠りに落ちると開かれる。しかし、主である汐帆がこうして自由に闊歩しているのでは辻褄が合わない。
「夜処の役割は今言った通り。だから……改めて考えてみて欲しい。ここにいるお前は、一体何者なのか」
「……私、は」
「お前はどこから堕ちてきた? いいや、よく分かっていないみたいだからハッキリ言おう。お前はどうして──夜処(ここ)へ来てしまったんだ?」
湊の悲痛な物言いに戸惑う。
それでも汐帆は、何も思い出せることがなかった。
幼少期のことも、学校のことも思い出せるのに、どうしてここに堕ちてきたのか、何があってこうなったのか、それだけがすっぽりと抜け落ちている。
改めて考えるなら、汐帆の中の暗闇は明確な意図を持って一部の記憶だけを奪い去っているように思える。
「湊、私……」
言いかける汐帆に、湊は静かに首を振る。
湊もきっと理解しているのだ。汐帆が、何もわかっていないことを。
「汐帆、お前はな、魂が剥き出しになって……この夜処に堕ちてきたんだ」
湊の声が強ばる。
「お前、自分で命を絶とうとしただろ」
その確信めいた言葉には、やはり、心当たりがない。
だからこそ、決して否定が出来なかった。
それはつまり、忘れてしまうほどの何かが起きたということかもしれないのだ。
「そう、なのかな」
「俺が夜処の海から引き揚げなかったら、そのままどこまでも沈んで、しまいにゃ溶けていたろうさ。夜処の水は重たかったろ?」
「……」
「それから、本体と言うべきか、汐帆の身体はどこかで眠っているだろうけど、俺が魂の方……お前を引き揚げなかったら、二度と目を覚まさないところだったと思うぜ」
鉛のような沈黙が二人の間に下りる。
いつの間にか薄暗い波が足首の高さまで押し寄せていた。
隙あらば水底まで連れ去ろうとするかのように、輪郭のない手をこまねいている。
「気付いているか? ここの水位は、汐帆、お前の精神状態とリンクしてるんだ」
「えっ」
湊はしゃがみこみ、水面の下を懐かしげに眺める。
「今はもうほとんどが水没したけど、元々はもっと自由で、豊かな場所だったんだ」
「ここまで、水位が増したのは」
「それだけお前の心が限界だったってことだよ。こっちはさ……心当たり、あるだろ?」
黙り込む。
今の生活も、母との関係も、汐帆にとってはとうに慣れたもので当たり前だと信じていたからだ。
……そう信じないと、いつ崩れ落ちてもおかしくないほどに限界だったのかと、汐帆は自分自身に問いかける。
今となってはもう、きっとそうだったのだろう、と真っ暗な答え合わせだけがされてしまって、塗り潰された解答欄を前に立ち尽くすことしかできない。
湊は水をすくい上げると汐帆の目の前に持ってくる。
「夜処はな、主が管理してる。もちろん無意識でだ。持ち主である人間の魂が眠っている間、無意識に……そうだな、心の洗濯をしているんだ。自分の心のコントロールを自分でやる。だから、自浄作用」
手の隙間からぽたぽたと水が垂れて、両手の器の水位が下がっていく。
「でも、汐帆の夜処には俺がいる。ここは無意識の汐帆と、居候の俺とで二人馬力なんだよ」
そう言って手を開く。
残った水がぱしゃんと落ちきって、足元に波紋を作った。
「それでも、力不足だったんだ」
「湊……」
「汐帆、お前の夜処はきっともう、限界なんだろう。お前がここに堕ちてきてしまったことが、何よりもの証拠でさ」
「……うん」
「なあ」
湊の声がシンと響く。
「ここは……お前の夜処は、すごくいいところだ。ずっと、ずーっとここにいた俺が言うんだから間違いない」
顔つきが変わったのを見て、引き寄せられるような心地になる。
湊の声には、優しさとやるせなさとがないまぜになったような、行き詰まった葛藤の色が滲んでいた。
「汐帆。お前は自ら、命を捨ててこの場所にきた。夜処が崩れ去っていないのは、ひとえに俺が無理やりお前の魂を引き揚げたからだ。……俺の、わがままなんだ」
「……うん」
「何も覚えていない奴にこんなこと言うのもどうかと思う。けど、俺は、やっぱり……」
真正面に立ち、まっすぐに汐帆を見つめる。
身長もぴったり同じ。ともすれば、鏡を見つめているような錯覚すら覚えるほどに、同じ顔。
「汐帆。俺と、変わろう」
目を逸らさずにそう言う。
愛おしげに頬に触れる手がほんの少しだけ震えているのに気付くと、汐帆は安心させるように上から手を重ねた。
「湊が、そうしたいなら」
「……どうなるのかとか聞かないんだな」
「うん」
湊は一瞬だけ、泣きそうな顔をした。
不自然に顔を背けて前髪をくしゃっと握ると、パッと歯を見せて明るく振り向く。
「今後は俺が汐帆として生きるよ」
「湊って名乗ったらいいのに」
「カッコつけてるんだから水差さないでったら」
不思議な気分だった。
この静謐な世界から二度と出られないかもしれないことよりも、あの日々の中に戻らなくて済むという安心感の方が勝っている。
そうであるというのに、湊が望むからといって平気で送り出そうとする自分の薄情さにも呆れている。
しかし、それでも湊ならば、彼ならば上手くやれるのではないだろうか。
生まれる前に譲ってもらった生きる権利を、奇跡的に彼へと返す機会を得られたのであれば、それはきっと私にとってこの上ない僥倖なのだろう。
「手を借して」
言われた通り、手を差し出した。
湊はその手をそっと握る。
「夜処の主は〝鍵〟を持ってる。それを俺に譲渡するんだ」
「鍵?」
「そう。汐帆の中にある。夜処からタオルケットや椅子を引き出したように、今度は自分の中から鍵を取り出すんだ。できるか?」
「やって、みる」
汐帆は自然と目を瞑り、自分の中に潜り込むようなイメージで〝鍵〟を探す。
それはどこか記憶を浚う作業に似ていた。
意識が一歩、自分の中に引き込まれるような感覚。
歩いてきた夜処の景色を遡り、沈んだ海から浮上して、墜落した夜空を遡行すると、手を伸ばす。
鍵は私の中にある。……本当に?
いくら手を伸ばしても、掴めるものはどこにもない。
虚空を切って、やがて私は墜落を始める。
堕ちている。堕ちていく。──私の中から、何かがこぼれ落ちる。
汐帆はハッとして身体をひねった。何か、何かが今、確かに。
まだ遠く下方に広がる水面は夜闇に紛れて、ぽっかりと昏いばかりの大穴がこちらを見つめ返すのみ。
「……ない」
「え?」
「鍵。私の中に、ないの」
ゆっくりと手を開く。開いた手の中には、何も握られていない。
汐帆の顔が青ざめる。
「私、落としたんだ」
足元を見つめる。
白の都市をも呑み込んだ深い、深い青の闇。
不安げに揺れる瞳が、水面から汐帆を見返している。
「なるほどね」
湊に自分が見たものを話す。
昏い穴。虚空を切る手。あれはイメージというよりも、自分自身の内側で溺れているような光景だった。
零れ落ちたのはきっと鍵だけではないだろう。私の中にない記憶も、きっと、あの時に。
ゾッとした肌感まで覚えているのを汐帆は静かに、けれどもはっきりとした確信をもって湊に伝える。
「どうしよう、私、どうしたら」
「そんな不安そうな顔するなって。失くしものなんて探せばいい、見つかるまで探したらそりゃもう失くしものじゃないだろ?」
無茶苦茶だ。こんなにも広い夜処で、手掛かりになるような記憶もないのに。
湊は問題なんて何一つないとでも言わんばかりに、優しく微笑んでみせる。
「それに俺、ここでの探し物は結構得意なんだ。ちょっとしたコツがある」
「コツ?」
「ん。一緒にイメージしてくれ」
湊は再び、汐帆の手を包み込むように優しく握る。
「失くしたのは鍵。それは大事なものか?」
「……うん。きっと、大事なもの」
「夜処は心の世界だ。大事なものは、大事な場所にあるもんだ。汐帆にとって大事な場所はどこだろう」
「私にとって、大事な場所……」
また、あの感覚。
意識が一歩内側に引き込まれるような、ストンと膜を抜けるような、知らない場所で瞼を開く刹那の暗がりが、永遠に引き伸ばされているような──。
ひたり、と足裏が床に触れる。
素足だ。あたりは真っ暗で、何も見えない。どこまでも自分の感覚だけが頼りの、空間とするにもまだ確証の持てない状況に、自然と息をひそめる。
よくよく注意すると、足の裏を撫ぜるのが木目であるとわかった。
板張りの廊下だ。
ならばここは、母と暮らすマンションではない。
汐帆は忍び足で歩を進める。何故かそうしなければならないと思った。バレないように、静かに、こっそりと。
そうだ。この廊下の先には──。
「汐帆!」
「わっ」
驚いて目を開く汐帆の肩越しに、湊が真っ直ぐに指をさしている。
興奮気味に汐帆の肩を揺らす片手を窘めながら、その指先を追って振り向く。
「扉……?」
そこには、壁も何も無い空間にポツンと扉だけが立っていた。
あたかも突然生えてきたかのようなありさまで、薄く水の張った地面に直立するそれは、まさしく夢にでも見そうな光景だ。
実際、湊の反応を見るにその扉は突然現れたのだろう。
「開けてみよう。落とした鍵も案外、すぐ見つかるかもしれないぜ」
「……ちょっと楽しんでる、よね」
バレた? と他に誰もいないのに、わざわざ小声で返す。
思えば湊はずっと楽しそうだった。時折見せる寂しそうな瞳の方が、どうしても見間違いのように思える。
彼に手を引かれるまま扉に近付くと、どこか懐かしく、使い古された気配があった。
何度も触れられたであろう丸いノブは一部メッキが剥がれて鈍い光沢を放っている。
遠目ではこっくりと色濃いブラウン一色に見えた扉も、よく見ればところどころ薄茶色に焼けており、確かな年季が感じられた。
汐帆はそっと表面を撫でる。
「私、知ってる」
「この扉を?」
「うん。どこに繋がっているかは、まだ、思い出せないけど……」
「なおさら期待できるね。もしかしたら、この扉自体が落とした記憶に繋がってるかもしれない」
汐帆はおずおずとノブに手を伸ばす。
鍵はかかっていないようで、何の引っ掛かりもなく押し開けられた。
向こうの景色はいやに眩しく、隙間から漏れ出した白い光が足元の水面を照らし出す。
そうして汐帆が目を凝らそうとした瞬間、掴んでいたはずのノブがフッと消えた。
一瞬の出来事だった。
「えっ」
何故か背中側でカチャン、と音がした。
直感でわかる。扉がしまったのだ。
一拍遅れて振り向くと、もうそこに扉はなく、湊の姿もない。
「そんな」
汐帆は弱音を吐きかけて、やめた。
唇の端に力がこもり、引き攣りそうになる顔をなんとか押しとどめている。
泣き言ばかり言っていられない。これは、きっと、私のすべきことなのだ。
あの扉の先には私しか入れなかった。この意味は?
確かめるためには、進まなければ。
汐帆は瞼を閉じると、深く呼吸をした。
大丈夫。この場所は、きちんと息ができる。
前を向き直し、そっと瞼を上げる。
そこは、ゆったりとあたたかい暖色の光が照らす、誰かの私室のようだった。
眩しいぐらいに視界を埋めつくしていた白いばかりの光は、跡形もなく姿を消している。
この部屋が……私にとって、大事な場所。
窓のない秘密基地のような部屋だ。
天井から吊り下げられたペンダントライトは凝った意匠のガラスシェードで装飾されている。これが部屋を穏やかな橙色に照らしているようだった。
四方の壁には大小様々な写真が飾られている。
どれも海外の景色を映したもののようで、馴染みのない街並みが多い。そこここに飾られたよく分からない土産物らしき小物を見るに、この部屋の主は海外旅行がライフワークだったのだろう。
それに、どの写真も現地に足を運んで撮影したものだと確信めいた予感があった。うまく表現できないが、息をしているような印象を受けるのだ。
これは。
汐帆はひとつの写真の前で足を止めた。
それは海を見下ろす石灰色の路地の写真だった。四角が無作為に連なったような建造物と、時折見える丸みを帯びた青屋根がアクセントになっている町並み。
どことなく、夜処に似ている。
釘付けになって目が離せない。私は、この写真を知っている。心臓がうるさく脈打つ。知っているはずなのに、自分のなかにその記憶がない。
はたと気付く。この部屋は今、私の外側にある、落とした記憶そのものなのではないか。確か、湊もそのようなことを言っていた。
彼が入ってこれなかったのは、ここが私の記憶の中だから?
汐帆はいったいどこからやってくるのか、耐えがたい緊張感を無理に抑え込みながら探索を始めた。
湊の言葉を信じるならば、この場所に鍵があるはずなのだ。
部屋の中央奥には使い古された机と椅子とが並んでいる。
引き出しに手をかけると、不意に冷や汗が滲んだ。
こんな悪戯をしてはだめだ。見つかろうものなら、間違いなく、こっぴどく叱られる。
誰に?
心臓がうるさく鳴る。まるで、今にも叫び出しそうなほどに。
項垂れていたのが嘘のように、夢のように、今にも私自身を呑み込まんと大口を開けて、膨らみ、萎み、また膨らんで、繰り返すごとにその存在感は大きくなっていく。
腰が引けて、視線が彷徨う。私はいったい、何に怯えているというのか。
カチリと汐帆の視線を射抜くものがあった。
ボトルシップ。
幾つもの帆が張られた立派な帆船が、透明なガラス越しに汐帆を見つめている。
いや、違う。
私が見つめている。釘付けになっている。私は、アレを知っている。
大好きだったのだ。忘れるべくもない。何せ、私はあの大好きなボトルシップを──。
がしゃん、と無慈悲な音が鳴った。
足元に散らばるのは見るも無惨な砕けたガラス片と、帆の折れた帆船。
たちまち扉が勢いよく開いて、顔を上げる間もなく駆け寄った彼に抱き上げられる。
怪我ないか?
陽だまりの薫る低い声。
空っぽの箱が満ちていく。記憶が、なだれ込んでくる。
ここは、祖父の私室だ。
幼いころに何度も、何度も遊びに来たはずの、大好きな場所。
砕けたガラス片も、折れた帆も、美しい写真も、使い古された椅子も、開けられなかった引き出しも、何もかもがしまい込まれていく。
「どうして、私、忘れていたんだろう」
再び気がつくと、あたりは凪いだ水面に囲まれていた。
シンと静かな夜の底。
朽ちた生き物の骨が横たわるような地面と、どこまでも続く最果ての水面。
戻ってきたのだ。私の夜処に。
「汐帆」
呼び掛けに振り向くと、地べたにあぐらをかいた湊が見上げていた。
「着いて行けなくてごめん。あの扉の向こう、俺じゃ入れなくてさ」
「うん。私の、記憶だった。忘れていることも、忘れていた記憶……」
「収穫だな! それで、本命の方は?」
「鍵は、だめ。見つけられなかった」
首を振ってみせる。
汐帆はでも、と続けた。
「私、思うの。他にも覚えていないことがきっとある。少なくとも、ここに来るまでの記憶もないから……引き続き、こうして探したら見つかると思う」
そう言いながら、目を瞑り、扉を見つけたのと同じような要領で伸ばしかけた手を湊がパシッと掴む。
それはあきらかに止める動作だった。
「まあ待てって。あんまり焦るな」
「でも……」
焦る、焦っているのだろうか。
汐帆は自問自答する。
ずっと価値などないと思っていた自分に、湊に身体を明け渡すという意味が生まれて、舞い上がっていたのかもしれない。
それでも、鍵を見つけるのは急務のように感じられた。
もしも見つけられないまま、折角得た価値を失ってしまったら。
汐帆は指先から冷えていくような仄暗い恐怖に、言いようもなく息苦しさを覚える。
……そのときはきっと、優しい湊にすら幻滅されてしまうだろうから。
「そろそろなんだ。遠く、見れるか?」
湊の声にハッとして指差す先に目を遣る。
どんなに遠くまでもよく見える、不思議な夜空だ。
しかし。
「もうすぐ夜が明ける」
湊がそう言った直後、たしかに見えていた遠景が霧に紛れた。見間違いでなければ、景色が透き通っていくように見える。
それはピントがおもむろに合わなくなっていくような、意識が遠のくような、視界のグラつく感覚だった。
「待って。夜が明けたらここはどうなるの?」
「夜明けは待ってくれない。朝が来たら汐帆は目を覚ます」
「それって現実に戻るってこと? そうなったらどうなるの。私、何も……覚えていないのに」
心臓が冷える。声が震える。
覚えていないのだ。ここが夜処──眠りの先で見た〝夢の中〟であるのならば、目が覚めたときにどこにいるのかわからない。
まさに死にゆくさなかかもしれないし、あるいは現実でも海に身を投げていたかもしれない。
怖い。
汐帆は震えの止まらない身体を押さえつけるように肩を抱く。
「おいで」
湊が微笑んで招き寄せるのに任せてふらふらと近付くと、もうすっかり慣れた手つきで目を塞がれた。
ああ、うん。いけそうだ。
何かを確かめるように独り言を零すと、やがて力強く言った。
「大丈夫。汐帆、お前は今から少しばかり眠るんだ。その間に上手くやっとく」
汐帆が意図を聞き返す間もなく、意識が深く深く、底まで引きずり込まれるような眠気にグンと引っ張られる。
いやだ。眠るのが怖い。いや、違う、正確にはきっと起きるのが怖い。
暗闇のなかで目を覚まして、指一本動かせないような重たい永遠が待っているような気がする。
微笑んだ湊のあの表情に、哀れみはなかったか? 無い、とすぐに断定できない、己の心の弱さが恨めしい。
少しばかりなんて言わず、もう二度と目が覚めることはないのだと、そう言ってくれた方が安心できたのに。
そこまで考えて、湊の言っていた言葉が思い出される。
──お前、自分で命を絶とうとしただろ。
記憶にないのだ。本当に覚えていない。けれども、私は確かに、死にたがっている。
汐帆は完全に意識の途切れる刹那に、ようやくそれを自覚した。
湊の指の隙間から最後に見えた夜処の景色は、ほとんど降り注ぐ光にかき消されて、透き通った飴細工のようだった。
次話:夢渡る帆船〈二幕:散在する暗礁〉
⇒https://note.com/ssnstar/n/n6aeb99fac2d3?from=notice
