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夢渡る帆船〈二幕:散在する暗礁〉

#創作大賞2026 #ミステリー小説部門 応募作品。
 全三幕。

 前話:夢渡る帆船〈一幕:常夜の海〉
 ⇒https://note.com/ssnstar/n/nb2bf1813b7c5



 沈む。
 冷たい海に。
 沈む。
 深い深い水底に。
 沈む。
 凍える記憶の内側に。

 微睡みのなか、ゆらゆらと意識が沈みゆく。
 
 汐帆は底へ底へと潜航する意識を、自分自身の輪郭の一回り分内側から、漠然と感じていた。
 目を凝らしてもなお瞼を閉じていると錯覚するような暗闇の中で、夢うつつを揺らめいているようだった。
 普段は思い返すことのない、奥深くにしまい込まれた記憶が辺りを奔流となって渦巻いており、その中心でされるがままになる己をどこか他人事に観察する。
 これは、きっと夢だ。
 私は夢を見ている。記憶を浚う夢を。
 汐帆は気付いていた。周囲の暗闇は、きっと濃縮された記憶の群れである、と。
 あまりにも沢山の情報が詰め込まれているために、すべてが混ざりあって、闇のように見えるのだと。
 本当に?
 インク染みのような疑念が滲む。過去──すなわち、今日までの日々から目を逸らしたい気持ちがないと言えば、嘘になる。
 きっと、そうやって私が見ようとしないから。だから、この夢は昏いのだ。
 視点が低い情景は恐らく幼少期のものだった。ざあざあと砂のようなノイズを抱えたまま、ピントを合わせる間もなく流れ去ってゆく。 
 夢に見る記憶のうねりは、日常の中で記憶を思い返すのとは似て非なるもので、足の着かない不安定さがあった。半紙一枚分隔てたかのように、目の前にあるのに触れられない、わずかな違和感がある。
 思考の糸が縒り集まるにつれて、視界が徐々に仄明るく、記憶の解像度が上がってゆく。
 目の前を流れ去る暗がりの情景。
 その多くを占める、判で押したように変わり映えのない学校生活を、何の感慨もなく見送る。 
 こうして眺めても中学、高校と上がってなお、小学生の頃と状況はあまり変わらなかったように思う。
 誰と話すこともなく、それでいて絶えず物が無くなり、あるいはボロボロになって、当てつけのようにわかりやすい場所に戻されるだけの繰り返し。
 それでいて、誰も直接的には私に関わろうとしなかった。
 席替えのたび、隣席の机がわざとらしく離す5センチの隙間には、目に見えないだけの途方もない溝があった。
 私は常に透明だった。
 透明なのに、そこに存在してしまうから、その奇妙な矛盾を周囲は受け入れられなかったのだと思う。
 高校に上がって母に言われるがままアルバイトをするようになると、職場の人達ははじめ驚くほど優しくしてくれた。
 挨拶をすれば返してくれることが、向こうから何気なく声をかけられることが、こんなにも安心することだとは知らなかった。
 けれどそれも、長くは続かない。
 大抵は金に困った母が、私の給料日を待てずに電話を入れるのだ。怒りと焦燥とに任せた金切り声で、早く振り込め、と。
 どうにもならないところもあれば、対応してもらえるところもあった。
 というのも、そういうことが一度でもあると私は瞬く間に腫れ物になり、そのたびバイト先を転々とすることになったからだ。
 そんなことを繰り返すうち、雇ってもらえても以前のように優しくしてもらえることはなくなった。
 母は所謂、地域で〝有名な人〟であり、その子供である私もまた、さもありなんというわけだ。
 私に向けられる目は、部屋の中に出た虫から目を背けたいのに逸らせない、あの視線によく似ていた。
 自分では手を出したくない。けれど、早く出て行って欲しい。そんな思いがありありと滲んだ、あの視線。
 その温度のない関心は、少しづつ、少しづつ、私を冷やしていったように思う。
 時折、自分の内側から聞こえるパキンと鳴る音は、肌の下、密かに数を増やす霜柱が割れた音だったのかもしれない。
 汐帆は意識が完全に覚醒した後も、とろとろと記憶を見返していた。
 薄皮一枚が隔てている夢と現実の刹那を、いつまでも引き伸ばしているような、曖昧な永遠。
 私は自分の記憶力を、特別あって良かったと感じたことはないように思う。
 忘れてしまいたいことの方がずっと、ずっと多い日々だった。
 それはなにも辛いことだけではない。むしろ、嬉しいことを思い返せば思い返すほど、今現在との落差に耐えきれずに心が砕けてしまいそうな気がして、怖かったのだ。
 辺りはいつの間にか眩むほどに白く、鮮烈に明るくなっている。
 目覚めが近い。
 直感的にそう思うと、汐帆はグッと歯を食いしばって振り向いた。 
 消えかけの暗がり。
 その中に、夜処では意図的にしまい込んでいた記憶がある。
 
 墜落前後。記憶が途切れる、直前まで。
 
 汐帆は夜明け頃、劈くような母の絶叫で目が覚めた。
 最初に思ったのは、ああ寝坊してしまったなあとか、朝ご飯の支度を急がなければとか、そういうことだったと思う。
 普段は夜の仕事を終えて早朝に帰る母のため、朝食を用意して待っているのだ。
 起き上がろうとすると、全身が変に痛んだ。
 なんだろう、寝違えたのかな。それにしては──。
 ベッドを出るなり、浮かんだ疑問が霧散する。あまりの惨状に束の間母のことも思考から外れて、汐帆はただただ絶句した。
 部屋中のものが床に散乱し、割れ物は砕けて、所々壁にまで及ぶ汚れは何が飛び散っているのかもよく分からない。
 壁紙は一部破れて、何ヶ所かは穴が空いているほどで、室内で竜巻でも起こったかのような有り様だった。
 慌ててリビングに急ぐと、こめかみに何かが飛んできて思わず目をつむる。鋭い痛みが走り、汐帆は堪らずしゃがみこんだ。
 足元にはボールペンが転がり落ちた。
 母は相変わらず何事か叫んでいる。物まで投げてくるとなると、流石に様子がおかしい。
 痛みで反射的に潤む目をこじ開け、見渡す。
 やはりと言うべきか、リビングもまた惨憺たる有り様だった。
 テーブルはひっくり返され、上に乗っていたものはすべて床にぶちまけられている。椅子は明らかに投げられた様子で、背もたれが割れた状態であらぬところに転がっていた。
 リビングだけではない。キッチンやダイニングまで怨嗟すら感じるほど徹底的に滅茶苦茶にされている。中身を掻き出されたであろう食器棚は、割れた食器の破片が遠くまで散らばっており、近寄れないほどだった。
 警察を呼ばなければ。
 血の気が引くのを感じながらも、そう判断する。
 家の惨状は、疑う余地もなく誰かが暴れ回った形跡だった。
 汐帆は動揺の只中で、努めて冷静に思考を巡らせていた。
 無くなっているものはないか?
 空き巣の仕業にしては激しいけれど、これだけ暴れ回っているならば、むしろ家探しの形跡を隠したかったのでは?
 記憶と照らし合わせる。変わっている箇所。無くなっているもの。一体何が目的だったのか──しかし。
 冷や汗が背中を伝う。
 どこを見ても、何かを探したような形跡や、持っていかれたような様子がない。強いていうならば、ただ、悪意がここで爆発したように見えるばかり。
 考えれば考えるほど、汐帆は呼吸が浅くなるのを他人事のように感じていた。
 一つ、決定的な違和感があった。
 こんなになるまで誰かが暴れたというのに、私は何故、眠っていられたのだろう。
 被害は自室にまで及んでいる。
 犯人は、眠りこける私を放置して、ただ部屋を滅茶苦茶にして去っていった?
 果たしてそんなことが有り得るのだろうか。
 
「あんたはさあ、どれだけアタシに迷惑をかけたら気が済むの?」
 
 ひやりと嫌な予感がして、汐帆は静かに母の方を見た。
 その目は爛々と奇妙に丸く、歯が割れそうなほど噛み締められて、ひと目で興奮しているのがわかった。
 その手に包丁が握られているのを見て、驚くよりも先に納得感がストンと腹に落ちる。
 ジリジリと母は汐帆に近付く。
 切っ先は震えながらも、まっすぐにこちらへ向けられていた。
 汐帆は母がそう望むのが分かったので、ジワジワと後退した。摺り足で、足元に投げ出された母の服を踏みながら、シワになっちゃうな、なんてどうでもいいことを考えている。
 洗面所まで下がると、母は汐帆を浴室に突き飛ばした。
 水の張ったままの浴槽を見て鼻で笑う。
 
「反省して」
 
 薄ら笑う口元。母のお気に入りの赤い口紅が取れかけた端から、たらりと一筋線を引く。乾燥して唇が割れているのだ。
 汐帆は無抵抗に浴槽へ身体を沈める。
 ごめんなさい。
 膝を抱えて、水面を見つめながら呟く。できるだけ惨めに言わなきゃいけなかったのに、何の感情も込められなかった。
 ガシャンと音が響いて、母が包丁を思い切り床に投げつけたのが分かる。
 何事か叫んでいたけれど、私は何故か酷く疲れていて、うまく聞き取ることができない。
 向こうへ去っていくのを気配だけで感じている。 
 冷たい。全身が重たくて、動ける気がしない。
 それに物音を立てるのもよくない。
 母はきっとまだ耳をそばだてている。
 あともう少しだけここにいよう。
 あともう少ししたら、あの人は、眠りに就くはずだから。
 膝に頬をつけると、長い髪が雨雲のように広がった。
 私の記憶は、ここでぷっつりと途切れている。

 ■

 目を覚ますと、汐帆は電車に揺られていた。
 見たことの無い座席の色だ。少なくとも普段乗る電車とは違うことがわかる。
 人はまばらで、車内は少し肌寒い。いったい今は何時なのだろう。周囲を見渡そうとして、鳩尾がずきんと鈍く痛んだ。
 どうやらアザになっているようで、服の上から撫でるとシクシクと響く。
 しかしサッと思い返しても、いつぶつけたのか全く記憶にない。……途切れている記憶の中で、私はいったい何をしていたのか、にわかに疑問に思う。
 それに、と汐帆は自分の着ている服が夜処で身に付けていた制服ではなくなっていることに気付く。
 これは、母の。
 
『そ、母さんのワンピースだよ。一番似合うやつを選んだつもり。どうかな?』
「……っ」

 汐帆は飛び上がりそうになるのを抑えて、キョロキョロと首を動かす。
 不意に反射する窓に湊の顔を見たような気がして目を擦った。
 なんのことはない、不自然に戸惑う自分の姿が映っているだけだ。

「湊……?」
『うん。おはよう、汐帆』

 湊の声は、自分の内側から聴こえた。
 思考するときに頭の中だけでつぶやく独り言が話しかけてきたような、不思議な感覚。

『驚かせてごめんな。でも、俺の声は汐帆にしか聴こえていないから、気を付けて』
 
 汐帆は返事の代わりにそっと深呼吸をすると、改めて自分の姿を確認する。
 湊の言う通り、確かに母のワンピースを着ていた。
 いつも仕事で着ているようなドレス寄りの派手目ではなく、オフホワイトのシックなデザインだ。袖がレースの刺繍になっている、ミモレ丈の上品な服。
 母は何着か、こういう服を持っていた。
 クローゼットを片付ける時に目に付くのだ。捨てることも、着ることもなく、新しい服を買うたび奥へ奥へと押しやっている、母の趣味とは思えない上等な服。
 どれも埃っぽく、長く持っている割に一切着ていないものばかり。
 その内の一着を着ていると思うと、汐帆はなにとなく胸が痛んだ。

『制服じゃ通報されるだろ。汐帆は自分のものをほとんど持っていないからさ、母さんのクローゼットからちょっとばかりくすねてきた。この服と、少しの軍資金。あの人、そこら中にへそくり隠してるだろ? 自分でも忘れてそうなやつ』
 
 斜めに掛けたポシェットに触れる。 
 これは見覚えがある。小学生の頃、ランドセルと合わせて祖父から贈ってもらったものだ。汚したり失くしたりがいやで、ほとんど使わずにタンスの肥やしとなっていたおかげか年季のわりに綺麗だ。
 中には財布と、小さな化粧ポーチ、そして角張った何かが入っていた。
 インスタントカメラ?
 取り出して、しげしげと見つめる。明らかに新品だったが、軽く引っ掛かるような安っぽい触り心地がむしろ手に馴染む。

『こういうの、レンズ付きフィルムって呼ぶらしいぜ。撮ってもその場で印刷されないから、お店に持ち込んで現像を依頼するやつ』
「たまに、おじいちゃんが触ってたよね」 
『おっ覚えてるみたいだな。ほら、チビのとき、それのもーっと良いやつ首にかけたじいちゃんと、沢山出掛けてただろ』

 小さく頷く。
 汐帆は三歳頃まで祖父の家で暮らしていた。
 正確には母と暮らす家は別にあったのだが、母が祖父に押し付けるように汐帆を預けて、そのまま何日もどこかへ行ってしまうというようなことが多かったため、祖父の家で暮らしていると時折母が会いに来る、というような日々だったのだ。
 今思えば、母は金が尽きるまで遊び回り、尽きては無心に祖父宅へ顔を出す、を繰り返していただけで、私の様子を伺いに帰ってきているというわけではなかった。
 当時の私はそんなことにはまったく思い至らず、ふっと前触れなく現れる母が心の底から恋しく、寂しく、常日頃から泣いてばかりだった。
 それに、と汐帆は思う。 
 夜処で鍵を探そうとして現れた扉。その先は、確かに祖父の私室だった。
 それを、私は、忘れていた。 
 墜落前後の記憶だけがないのかと思っていたが、どうやら汐帆の中には、それとはまた別に陥穽じみた暗闇が黒点のごとく散在しているようだった。
 そうと気付くと違和感はくっきりと存在を主張する。
 向かいの網棚の上で持ち主不在の荷物が孤独に揺られているのを、汐帆はどこか他人事に思えず、誤魔化すように片手で脇腹を抱きしめる。 
 いったい自分はどうしてしまったというのだろう。
 相変わらず、命を絶とうとした実感だけが重く鉛のように腹の底にあり、そこへ辿り着こうとする記憶が──私自身が伴わない。
 宙ぶらりんだった。
 窓の外、どんよりと雲の広がる空を眺めても、妙に嘘っぽく感じられる。
 とにかく全てに現実味がないのだ。

『カメラはさ、さっき買ってきたんだ。ちょっと遠出になるからね。折角だから、寄り道していこう』
「遠出?」
『そうさ。汐帆には一旦、行方不明になってもらう。折角身体をもらっても、あんな家じゃ生きていけないからな』
「……うん」
『俺は汐帆みたいに強くないんだ。でも、汐帆だって別に強くあり続ける必要はないと思うぜ』

 軽い言葉とは裏腹に、湊の声はどこか痛切に響いた。
 ふと、汐帆は思う。
 彼の話を信じるならば、湊はきっと私が見てきたものを一緒に見てきている。そうであるなら、私が何でもないと受け流してきた日々を、彼もまた共に見て、過ごしてきたのではないか。
 それは例えば、冷たい浴槽で膝を抱えた朝を。
 もし、もしも、あの時間を私ではなく、湊がひとりで過ごしていたなら?
 汐帆は、考えるだけで胸が張り裂けそうな気持ちになるのを必死に堪えた。そういえば、もう随分と長く泣いていないな、と鼻の奥がツンと熱くなるのを感じながらぼんやりと思う。

『汐帆、ここで降りよう。改札を出たら、右手のターミナルまで向かって』
 
 湊の指示にハッとして誤魔化すように目元を擦る。電車を降りると、今度はバスに乗り換えた。
 今日は平日なのだろうか。最後に時計を見たのがいつだったのか曖昧で、日付も曜日もよく分からないのが景色の嘘っぽさを増しているような気がする。
 学校かバイトか、どちらにしろ無断で欠席、欠勤だ。
 母はどうしているだろう。気付かず、そのまま仕事に行っているだろうか。それとも、ようやくいなくなってくれたと安心しているだろうか。
 汐帆はゆっくりと首を振り、砂を噛むような思考に蓋をする。
 バスはしばらく停車したあと緩やかに動き出した。
 少しだけ開いた窓から、かすかに潮風の匂いがする。それに、流れてゆく空気が透き通るように冷たい。
 見えないけれど、海が近いのだろう。

『聞かれないから言っておくけど、汐帆が眠ってる間、俺が入れ替わって身支度を整えたからな。いつもやってる編み込みはできてないぞ』
「そうなんだ」

 下ろしたままになっている後ろ髪に触れる。
 量が多いので、汐帆はいつも上の方だけ軽く束ねて編み込んでいた。

「上手いことやってくれたんだね」
『……どういう意味だよ、おい』
「ふふふ」
『あーっ! ばかにしてる、髪なんて下手に触れないだろ、しょうがないじゃんか』

 ゆるく握った手を口元に当てて、うふうふ笑う。
 触れた髪は下ろされたまま。けれど、丁寧に櫛を通した形跡があった。
 それがなにだか、堪らなく嬉しかったのだ。
 
『後で自分でやってくれよ』
「別に、湊がやってるみたいにひとつに結んじゃえばいいのに」
『……』
「湊?」
『あ、いや』

 湊が言い淀むのを素直に待つ。
 不思議と、前髪をくしゃっと掴んでいる姿が目に浮かぶようだった。

『今、俺たちは特に不安定な状態で同居してるわけだからさ』

 だから、ええと、と言葉を選びながら続ける。

『やっぱり、汐帆の身体は汐帆の身体として扱わないと、と思って。……正直、何をきっかけに何が起きるかも分からない。情けないけど、俺自身も手探りなんだ。こうして会話ができるのも、今の中途半端な状態が影響してのことだと思うし』
「ふうん」

 捲し立てるように言われて、そういうものか、と頷く。
 汐帆はそっと髪に触れると、バスに揺られながらもいつも通りに編み込みをした。慣れたもので、窓を鏡代わりに手早く済ませる。
 ポシェットに化粧ポーチが入っていて助かった。いつも使っている櫛と、髪ゴムがあったからだ。湊なりに気を利かせてくれたのだろう。
 途中、心底感心したように『器用だなあ』と言うのが聞こえて、笑いそうになった。

『ほら、着いた』

 それからしばらくして、湊に促されるまま降車した。アナウンスは海浜公園の名を読み上げていた。
 曇り空の下、広い道路の向こうには灰色の海が視界いっぱいに広がっている。
 バス停向かいには駐車場があったけれど、海開きのシーズンを終えてかすっかり閑散としていた。

「寝ても、覚めても、海ばかりね」
『汐帆、海好きだろ?』
「えっ?」

 言われて考える。
 自分の好きなもの、あるいは嫌いなものについて、考える機会などというものはもうずっと無いままだった。

「そうだったかな」
『まあ、なんでもいいさ。今日はここで鍵探しの下準備をするからな、頼むぜ』
「鍵探しを? ……どうやって?」
『汐帆はさ、昨日夜処で見た扉を覚えていなかったろ?』
「うん。中に入ってしばらくするまで気付かなかった。でも、あの部屋は、おじいちゃんの部屋だった」
『だろうと思った。どうやら、俺は覚えていても汐帆が覚えていない、そういう記憶があるらしい。鍵があるなら、きっとその中だ』
「湊は、覚えているの」
『まあね。俺は恐らく、すべてを覚えてる。でも期待するなよ。俺がいくら話したって汐帆からすれば、それはただ聞いただけの話。思い出すのとは違うと思うぜ』
「そっか」
『とはいえ手伝いぐらいは出来る。道案内、とかね』
「それは……湊は、この辺りを知ってるってこと?」
『そうだな。少なくとも、俺は覚えてる。だから、今からこの場所で記憶の手がかりを探して欲しいんだ』
「手がかりを……」
『きっと汐帆は今夜も夜処に来られる、と思う』

 立ち止まる。
 重要な話だ、と直感した。
 
『あれは、汐帆の魂がバラバラになっているからこそできることで、あんまり良いことじゃないんだけど……逆に言えば、その砕けた魂の側に鍵が持っていかれている可能性が高い。今夜は、ここで見つけた記憶を手がかりに、その砕けた魂自体を探しに行ってもらおうと考えてる』
「待って。湊は、どうして私が夜処に行けるのか、理由を知っているの?」
『知っているとは違うさ。でもある程度の憶測はある。要はさ、バラバラになることで自分自身をある意味、外側から観測出来るようになるから、じゃないか?』
「……自分自身を、観測できるように」
『そ。今の汐帆は〝自分自身〟という海の中で漂流してる状態なんだと思う』

 ざあっと強い風が吹き、はためく裾を慌てて抑えた。
 巻き上げられた落ち葉が戸惑うように散り散りになる。
 
『本来はその海まるごと汐帆だから、海がとんでもなく荒れることはあっても、たとえそれが海がひっくり返るほどのことだったとしても、汐帆が海──夜処を認識することはないんだ』
「自分自身だから、わからない……」
『そうさ。でも、大きな衝撃があって、それは海と汐帆とがバラバラに分かたれてしまうような、世界まるごとに亀裂が入ってしまうようなことで』
「その、大きな衝撃っていうのは」
『……うん。そう何度も言いたいことじゃないけど、汐帆の場合は、自分で自分の命を絶つことがきっかけになったんだと思う』
「そう、なんだ」

 汐帆は鳩尾に触れる。
 もしかしたら、こういうアザや、怪我が、私の身体中にあるのかもしれない。
 それはきっと私が……自分で。
 汐帆は喉の奥が苦くなるのを感じる。
 鳩尾から広がる鈍い痛みが、心臓まで根を張っているかのようだった。

『この辺りはさ、実は汐帆が幼いころ何度か遊びに来たことがあるんだ』 

 湊と話しながら、海岸線沿いをぶらぶらと歩く。
 こうしてすぐ近くまで来てもなお、海と陸とは断絶した境界があるようだった。
 歩道から少し降りたところに砂浜があり、白い砂を食むように黒々とした波が寄せては引くのを遠目に眺める。

『思い出せない?』
「……だめみたい。全然、心当たりがない」
『なら、むしろ期待出来るな。今日はこの辺りを散策して、記憶の手掛かりを探そう』
「わかった」
『ひとつ、お願いがあるんだけどさ。いい?』
「なあに。私に、できることかな」
『そんな大層なことじゃないんだ。カメラあるだろ? いくつか写真を撮って欲しくて』
「なんの写真を撮ればいいの?」
『何でもいいさ。汐帆が、ちょっといいなと思ったものを撮って欲しい。フィルムいっぱい撮っても大した枚数撮れないから、そこまで大変じゃないと思うんだけど、どうかな』
「任せて」
『ははっ二つ返事! ありがとう、嬉しいよ』

 汐帆はポシェットからカメラを取り出すと、改めて一通り触ってみる。シンプルな構造だ。確かにこれなら、子どもでも扱えると思う。
 試しに空を撮る。
 カシャン、と子気味良い音が鳴った。

『今、何を撮ったんだ?』
「空を。試し撮りだけど……雲の切れ目が、綺麗だったから」

 見上げた先をそのまま指し示した。
 厚い雲が割れて、そこだけ光が射し込んでいる。

『へえ。いいじゃん、ヤコブの梯子だな』
「……湊って、ちょっぴりロマンチストだよね」
『そうかな? いや、なんだよ、面と向かって言われると恥ずかしいな』
「恥ずかしいことじゃないよ」
『そうかなあ』

 その声から、はにかむように笑う湊を想像すると、汐帆まで口角が上がるようだった。
 見えなくとも、つられて笑うことがあるんだな、と頭の隅で思う。
 
「でも、写真なんて。どうして急に?」
『憧れだよ。写真、いいだろ。現像したら手元に残しておけるし、じいちゃんの部屋に飾ってあるのを見て、ずっと良いなあって思ってたんだ。扉向こうの部屋、見たろ?』
「うん。夜処みたいな写真があって驚いた」
『あったなあ。実際、汐帆の夜処はあれに影響を受けてると思うぜ。相当好きだったんだろうな』
「でも、ボトルシップを割っちゃった方が強烈だったかな」
『そんなこともあったな。まだよちよち歩きなのに、勝手にじいちゃんの部屋入って、挙句の果てに割っちゃうんだもんな。届かないのに手を伸ばして、棚グラグラ揺らして。とんだおてんば娘だぜ』
「ねえ。からかってるでしょ」
『バレた? さっきのお返しな』

 くすくすと聴こえる笑い声に、自分が笑っているのか、湊が笑っているのか、汐帆は一瞬わからなくなる。
 それは心地よい混同だった。
 とくとく鳴る心臓すら何となく愛おしいのは、自分の中に湊の存在を感じるからだろう。

「でも、割っちゃったのは本当に悲しかったんだよ。あんなに衝撃だったのに、私、忘れてたんだね。忘れるって、こういう感覚なんだね」
『寂しい?』
「どうかな。でも、そうなのかもしれない。本当に忘れてしまうと、忘れたこともわからない……その呆気なさが、寂しいのかもしれない」
『そうかあ』

 たまにすれ違う人はバックパックを背負ったり、大仰なスタンドを提げていたりと、何か目的を持って訪れているように見受けられた。
 目的。私にも、目的がある。
 汐帆は胸元でギュッと手を握る。
 この身体を湊に譲ること。そのために、夜処に落とした鍵を見つけること。
 そして今、出来ることならば、全てを思い出した上で彼に託したいと感じていた。
 ……今のままでは、ただ、現実から逃げているだけに他ならない。
 この身体を、産まれる前に譲って貰った生きる権利をこそ、彼に返す。そう言ってしまえば聞こえはいいが、湊はあくまでも「代わろう」と言った。
 その意味を汐帆は考えていた。
 痛む鳩尾をさする。
 私の身体は、私を取り巻く環境は、とうてい恵まれたものとは言えない。
 このままでは、抱えきれなくなった苦しさを丸ごと湊に押し付けるだけに過ぎないのではないか。
 そんな疑念が少しずつ、少しずつ膨らんでいる。

『あ、鳥! 汐帆、あれ、あれ撮って!』

 不意に、決意と暗雲とが同時にくすぶる胸中を晴らすように湊の声が弾けた。 
 
「え? ど、どこ」
『目の前だって! 二羽いる、枝で寄り添ってる。海側の木だよ、ほら、葉が揺れてる……』
「──見つけた」

 カメラを構えて、シャッターを押す。
 大きく広がった枝の先、ふわふわと揺れながら小鳥が羽繕いをしあっていた。
 海を背景に木漏れ日に照らされた二羽は、汐帆に気付くと、あっという間に飛びたってしまう。

『可愛かったなあ』
「驚かせちゃったかな」
『良い写真が撮れたんじゃないか?』
「そうかもね。現像するのが、楽しみだね」
『ふ、あはは! うん、本っ当に楽しみ』
「湊、嬉しそう」
『そうだなあ。きっと、いつまでも思い出すだろうな。写真を見るたび、今日のこと』
「……忘れないね」
『うん、忘れない』

 断言する湊の声は、温かさのなかに寂しさをしまい込んだような朝焼け色をしていた。
 忘れないこと、覚えていること。
 私にとっては過去と共にのしかかるその鎖も、湊にとっては祈りの言葉なのだ。
 そう思うと、汐帆は少しだけ視界の開けたような心地がした。
 しばらく歩くと、海辺は砂浜の代わりに岩の露出した磯の様相に切り替わる。
 波が打ち付けて、白い泡が花のように咲いては散るを繰り返している。
 磯に降りると、波の寄せるぎりぎりまで海に近付いた。
 遠目で見るよりずっと透明で、水底の岩がきらきらと光って見える。時折、足元ですれ違うフナムシの群れに湊が悲鳴を上げているのがおかしかった。
 
「私、おじいちゃんのことをね、忘れてたの」

 汐帆は浅瀬から水平線までが収まるようにカメラを向けると、息を深く吸い込む。
 思い切ってシャッターを切った。
 今日、こうして訪れた海をまるごと閉じ込めておくように。
 
「顔とかじゃなくて、もっと根本的な……存在自体、というか。いることはわかってるの、わかってるんだけど、過去の情報としてしか見えてなくて。どんなふうに話すのか、笑うのか、手の温度や感触を思い出せない……ううん、思い出さなくなってたんだと思う」
『今は、もう思い出せる?』
「どうかな。試してみる」

 そう言うと、汐帆は波の届かない乾いた岩場に腰掛けた。隙間から生え伸びる草花が逞しい。
 そっと目を閉じる。
 祖父との記憶。
 小さな頃、たくさん、たくさん構ってくれた、大好きだった人。 
 母が何日も帰ってこなくて泣きじゃくった夜、秘密の部屋だといって見せてくれた私室。
 飴色の暖灯と部屋中に飾られた景色の写真。
 幼い私には、視界いっぱいに広がる大きな写真一枚一枚が、ひとつの世界のように見えた。 
 白い街の写真は特にお気に入りだった。
 ボトルシップを壊してしまう前は、よく、あれに乗って海を征くのを夢想したものだ。
 それも中の船ではなく、ボトルそのものに跨る自分をイメージしていた。今思えば滑稽だけれど、当時は真剣だったのだ。
 ……ボトルシップを割ってしまった日。 
 あの日も例に漏れず、数日ぶりに母が顔を出した日だった。
 私は幼心に、お気に入りの船を母へ見せたかったのだと思う。
 板張りの廊下を抜け、普段は祖父と一緒にしか入らない部屋にこっそりと忍び込む。つい先程まで祖父がいたのか、明かりがついたままの部屋。
 きらきらと光を反射する船を抱えた瓶が大層な宝物のように見え、なんとか下ろそうと棚を揺らす。
 グラッと傾くと、あっという間だった。
 けたたましい音が鳴り響き、すぐに駆けつけた祖父は何よりも先に私を抱きあげた。
 それでもまだ何が起きたかわからず、砕けたガラスや折れた帆から目を離せずに呆然としている私を、叱るでも怒鳴りつけるでもなく、ただ抱きしめて、怪我がないか心配してくれたのだ。
 反対に、居間にいるはずの母は来なかった。
 だんだんと感情が追いついてきて、たっぷりの涙を浮かべる私を見て、祖父は母を呼んだ。きっと安心させようと思ったのだろう。
 しばらく待つと、母はのろのろと面倒くさそうに現れた。
 祖父に、片付けるから汐帆を見ていてくれ、と声を掛けられると、ようやく床を一瞥する。 

「子どものやったことよ。あたし、弁償なんてしないからね」

 母はそれだけ返すと、私の様子を確認するでもなく踵を返した。
 その瞬間、祖父は激昂したのだ。

「お前は自分の娘の心配ひとつできないのか!」

 母は黙って振り返ると祖父を思い切りねめつけた。
 そして幼い私を奪い取るように抱き上げると、乱暴に荷物をまとめてそのまま家に帰ったのだ。
 それ以来、二度と私を祖父に会わせることはなかった。
 私は覚えている。母が私を抱き去るときに、微かに震えていた祖父の手を。強く掴むことをせず、そっと手放した哀しいぐらいの優しさを。
 不安げに祖父を見つめる私の顔を、安心させるように無理に微笑むシワの刻まれた目元を。 
 表情とは裏腹に、立ち去る母の名を叱責と共に呼び掛ける鋭い声を。
 一歩踏み出した足が、スリッパの下でガラスを踏む音を。
 覚えている。祖父の家まで続く細い路地を。
 覚えている。母が、乗り換えのたびに面倒くさいと腹を立てていたエスカレーターの無い駅を。
 覚えている。何日も帰ってこない母に痺れを切らして泣きじゃくる私を、散歩へ連れ出してくれた祖父の柔らかい手を。 
 ──思い出した。私がまた、忘れていた記憶を。
 汐帆はそっと目元を拭う。 

「ねえ、湊」
『うん?』
「私、船着場が見たい。近くにあるかな」
『あるよ、ここから歩けるところに。何か思い当たることがあったかい?』
「この辺を歩いた記憶は、まだ。でも、船を見たら……思い出せそうな気がするの」

 吹き付ける潮風が汐帆の髪を揺らす。日は傾きかけていた。
 湊の案内に従って少し歩くと、そのうちにコンクリートで舗装された遊歩道に出た。
 浜の代わりに堤防が並び、歩道側は濃淡様々の青いタイルで飾られている。
 汐帆は薄らと思い出していた。
 この道は、知っている。祖父と手を繋いで歩いたことがある。
 汐帆はカメラを向けると、海を背景に道を彩るタイルを写真に収めた。

『良いね』 
「うん。私、ここのタイル好きだったな、と思って」
『わかるよ、俺も好きだった。というか汐帆の好きなものは特にキラキラして見えて、俺も好きになっちゃうんだよね』
「そうなの?」
『ああ。小さい頃は特にね』
「小さい頃……」

 汐帆はふと、考える。
 小さい頃の記憶。
 思えば、欠落している記憶は祖父と会わなくなる以前のものばかりだ。
 それらは果たして、いつから欠落していたのだろう。
 夜処に落ちたのを、私が〝砕けた〟タイミングだとするならば、それは本当にいきなり起きたことだったのだろうか。
 飾りタイルの一部が剥がれているのが目に付く。そこを中心に、欠けが広がっている。
 無意識のうちに思い出さないようにと奥深くにしまい込み続けることで、少しずつ、少しずつ脆くなっていたとは考えられないだろうか。
 私はずっと透明だった。……本当に?
 何もないのに、思わず後退る。

『どうした?』
「あ、ううん、ちょっとね。……私の世界には、いつの間にか、お母さんしかいなかったんだなあと思って」
『汐帆、それは』

 言いかける湊に首を振る。事実云々ではなく、私自身の問題だからだ。
 母しかいない。
 言葉の通り、まず、私には父がいない。物心つく頃には母と二人暮らしで、母自身もまた私が誰との子供かわかっていないようだった。
 それ自体は別にいい。なにせ、父がいないことを理由に不便をした記憶はあまりなかったからだ。
 汐帆は自分に降りかかる苦労は初めからそこに存在するもので、父が共に生活していたからといって綺麗さっぱり無くなるものだとは到底思えなかった。
 いつからだろう。
 楽しいことも、悲しいことも、話す相手がいないからとしまい込むようになったのは。何をされても、言われても、そこに傷つく自分がいないのと同じように、何も感じなくなってしまったのは。
 私にも輪郭がある。
 汐帆は堤防の向こう、泰然と凪いでいる海を見遣る。
 私を気にかけすぎるぐらいに気にかけている湊の存在は、私自身も見えなくなっていた私の輪郭を思い出させてくれた。
 汐帆はそっと自分の頬に触れる。そこには当然、温度がある。
 グッと揉むように頬を持ち上げて、笑顔を作る。ちょうど湊が破顔するのと同じように。
 
「私、湊を行方不明にはさせない。……透明に、したくない」

 私はずっと透明だった。
 紛れもない、私自身がそうしたのだ。

「湊にそんな苦労をさせるぐらいなら、一度、助けを求めてみても良いと思うの。まずは、おじいちゃんに」

 湊が息を呑むのを感じる。
 見えなくとも、聞こえなくとも、汐帆にはそれがわかった。
 
「もう、すぐ近くまで来ているよね」
『……ああ』
「道案内してほしいな、湊」

 少し間があって、ピンと張った糸が緩むような気配と共に返事が返ってくる。 
 
『まったく、汐帆には敵わないよ』
「そうなの?」
『そうだろうとも。さあさあ、折角ここまで来たんだ。船を見てから向かおうか』

 汐帆はにっこりと笑って湊に応える。
 汽笛の音が響いていた。船着場はもう、すぐそこだ。
 遊歩道が終わると、道はゆるやかに市街地へ続いた。海沿いよりもさすがに人通りがある。 
 買い物帰りの人や、学校帰りの中高生とすれ違いながら、汐帆は何度もカメラを構えた。暮れなずむ海を撮り、曲がり角の古びた看板を撮り、コンクリート塀を割って伸びる蔦を撮った。
 湊は汐帆が何にカメラを向けても嬉しそうにして、『今のは?』と何度も問いかける。
 その度、汐帆はじっくりと言葉を選びながら、どこが気に入ったのか丁寧に伝えた。
 それはまるで景色の宝探しをしているようで、このまま昂揚する心を野放しに、いつまでも続けていたいほどだった。

『汐帆、カメラ、カメラ!』
「うん──」

 湊の声に慌ててカメラを構える。
 束の間、ふわりと肩に腕をかけられたような気がした。
 汐帆は肩越しに幻を見る。
 興奮して崩れる前髪と、今まさに船着場を出港しようとする船を真っ直ぐに指さす、湊のキラキラとした瞳を、確かに。

「撮れた!」
『やるじゃん』

 思わずカメラを両手に掲げる。
 外側から眺めたつややかなレンズに映り込む、弾けたような自分の笑顔は、まるで湊の顔がそのまま映り込んだかのように眩しかった。

「湊。あのね、今のが最後の1枚みたい」
『そうかあ。あっという間だったな』
「私、人生でいちばん楽しかった気がする」
『そりゃ僥倖』

 水面をかき分け、幾重にも波を起こし、白い泡をひこうき雲のように立てながら、小さくなっていく船を眺める。
 西陽は限りなく水平線に近づき、海は一際輝いていた。
 その光景が遠い記憶と重なっていくのを、汐帆はぼうっと見つめる。

「ねえ、湊。私、この場所を知ってるよ」
『……ふうん。いつ来たんだ?』
「いつかなあ。三歳になる前ぐらいかな。もう何日もお母さんが帰ってこなくて、おじいちゃんの家に預けられっぱなしで、それで私、一晩中泣きじゃくったことがあるんだけど」
『あっはは! あったなあそんなこと』
「おじいちゃん、ほとんど眠れてなかったと思う。それでも全然不機嫌にならずに、お散歩に連れて行ってくれて。抱っこと、手を繋ぐのと、電車にもバスにも乗ったなあ。電車は寝不足なのもあって、私ばっかり寝ちゃっていて、その時は汽笛の音で目が覚めたんだよね」
『じいちゃんが汐帆のことを高く掲げて、船が見えなくなるまでずーっと見せてくれてさ』
「そう、そうなの! すっごく懐かしい。今考えたら、本当に大変だったろうなあ」
『……なあ。良い思い出に水を差すようで悪いけど、じいちゃんさ、あん時酒飲んでたよな』
「ふ、ふふ。そうだねえ。鞄にお気に入りを入れてたよね、小さい瓶でさ」
『汐帆を抱えて、そこのコンクリートんとこに座ってさ、一口だけキュッと飲んでたよなあ』
「私、おじいちゃんばっかりずるいーってまた騒いで、ジュースを買ってもらってさ。あのときはわかんなかったけど、あの匂いは絶対お酒だったよね」
『俺、あの瓶の中の液体が蜂蜜色の海みたいに見えて、それはもういいなあって、本当に羨ましかったんだ』
「そうなの?」
『うん。忘れた日ないよ。汐帆と交代したら、絶対酒飲んでやるって決めてる』
「ええっ。私、まだ飲める年齢じゃないよ」
『ばぁか、ハタチまで生きてやるってんだよ』

 湊は何でもなくそう言って、汐帆は胸を衝かれるような思いがした。
 この優しい兄を、きっと助けてくれる祖父のところへ送り届けなくては、と強く思う。
 そして、自分は上手に送れなかった生を、湊ならばきっと、きっと謳歌してくれるだろうと信じて、鍵を託さなければと改めて決意する。
 自分という命は、きっとこのために。
 湊へバトンを繋ぐために今日まで繋がれてきたのだろう、と汐帆は感じていた。
 それを、私は。
 鳩尾が一番酷いけれど、意識してみると身体中にアザがあった。手首や、足のすね、肩のあたりにもぶつけたような跡がある。
 どこか高いところから落ちたのか、そうでなければめちゃめちゃに暴れたような有様だ。
 私は、私を、大事に出来ない。
 絶えず節々が痛む身体は、まるで自分自身にそう言い聞かせるかのようだった。

『それじゃあ行こう。日が沈み切る前にさ』

 湊が名残惜しげにそう言うと、汐帆はちらっと見返した日暮れの海から目が離せなくなった。
 西陽の眩いばかりの黄金色から、夜闇の紫がグラデーションになっている水面は、まるで異世界にでも繋がっているような様相で、息が詰まるほど美しかった。

「写真が撮れないの、惜しいなあ」
『海、綺麗だもんな』
「うん。私、ずっと忘れたくないよ」 
『それこそ汐帆の得意分野だろ』
「そうだね。うん……そうかもしれない。ここを出る前に、もう少しだけ海に近づいてもいい?」
『もちろん』

 そう言って立ち上がった瞬間だった。
 カツーン、カン、カンと何かが足元ではねて、転がる。
 酒缶だ。
 残った中身が地面にこぼれて、砂と混じった茶色い泡を立てる。
 コンクリートにツンとした染みが広がっていく。
 汐帆は、ああ、と思う。
 嘔吐した母の服を洗うとき、同じ臭いがするのだ。

『汐帆、無視して』
「……うん」 

 ゲラゲラと唾の混じった笑い声が近付いてくる。
 その声は、母が時折家に連れ込む〝彼氏たち〟に似ていた。
 別人だ。けれど、固く握った手に嫌な汗が滲む。
 先は行き止まりで、道は一本道だ。このままでは。
 ──このままでは?
 汐帆はあれっと思う。似ている。一体、何に。
 この状況に、覚えがある。
 袋小路と迫り来る脅威に、覚えが。

『汐帆?』

 湊の声にハッとする。
 そうだ、今は呆然としている場合ではない。

「ごめんね、ちょっと」

 歩き出そうとしたとき、カンッと頭に衝撃が走った。

『はあ!?』

 汐帆に当たった潰れた空き缶が地面に落ちる。
 転がって甲高い音が鳴ると同時、ちょうどすれ違うほど間近にいた男たちが弾けたように笑い始めた。
 三人組だ。着崩した服に、似たり寄ったりのパサついた髪。ヤニで汚れた黄色い歯が、いやに目に付く。
 おい、当ててんじゃねぇよ。
 わざとじゃないわ。
 あれ、女子高生? ひとりっきり?
 不良だ、不良。声掛けてみようぜ。
 ほら、聞こえてんだろ。おいガキ。睨んでんじゃねえよ。

『……』
「……」

 湊の燃え上がるような怒りが伝わってくる。
 手足がわなわなと震えて、自分のものじゃないような心地がする。
 それでも無視をして通り過ぎようとしたとき、ひとりが汐帆の肩を掴んだ。
 骨ばった指が肩のアザに食い込んでズキンと鋭く痛む。

「痛っ」
『汐帆に触んな!』

 湊が叫ぶと同時、汐帆は勢いよく肩を掴む男の手を振り払った。
 今のは。
 思わず呆然とする。自分ではない。私は、そんな反射的には動けない。
 視界がチカチカと明滅する。
 いよいよ体全体がまるで自分のものではなくなるかのように、カッと体温が上がるのを、どこか遠くに感じている。
 目の前の男たちが何やら怒鳴っているが、何一つ耳に入らない。

『汐帆、走って! 俺手伝うから』

 湊の声だけがはっきりと聞こえる。
 汐帆が頷くより先にふっと足が軽くなり、同時に、引き摺られるほどの眠気が汐帆の意識を殴り付けた。

「だめ。みなと、わたし」 
『汐帆? 汐帆! 汐──』
 
 湊の声が遠のいていく。高く、高く宙へと引き離されていく。
 浮き上がっているのではない、私が堕ちているのだ。
 汐帆はアッと思う。
 この感覚を知っている。ああ、そうだ。
 
 あの時も、私はこうして意識を手放した。
 
 割れたガラス片のような記憶が次々と浮かび上がっては、掴むことも出来ずに遠ざかっていく。
 覚えていることは少ない。
 深夜。ガチャン、と鍵の開く音で目が覚めた。
 光の差し込まない自室。
 押し殺すような息遣いと、消しきれない重たい気配が、一歩ずつ部屋に近付いてくる。
 母はこの時間、まだ仕事だ。
 では、誰が。
 背筋が凍りついたように固くなり、汐帆はベッドの上で布団をどけると壁を背にしてへたり込む。ほとんど腰が抜けていた。
 この部屋は袋小路で、窓はあってもベランダはない。……逃げ場所が無いのだ。
 ここから抜け出すならば、今近づいてくる者と、どうしてもすれ違わねばならない。
 明かりの消した部屋で普段は何とも思わない暗闇がいやに粘ついて感じられる。
 息苦しい。
 動けないままの時間がきりきりと胃の腑を締め付ける。
 いっそ明かりを付けて物音を立てた方がいいのでは、と考えたときノブが引き下げられた。
 汐帆が声も出せないまま、鍵のない自室の扉は呆気なく開かれる。
 
「なんだ、起きてんのかよ。つまんねえ」
 
 汐帆より一回り大きいその男は、母の彼氏だった。
 片手に原型が分からないほど塗装の剥げたキーホルダーが揺れている。それは明らかに母のものだった。数日前無くしたと探し回っていた鍵に付けているものだ。 
 汐帆は息を呑むと、グッと足に力を込めた。
 逃げなければ。
 それは冷たい確信だった。
 この部屋には何も無い。金もなければ、母もいない。
 ……私しか、いないのだ。
 けれど、汐帆が動き出すより早く男の舌打ちが聞こえた。
 一瞬、何が起きたかわからなかった。
 バチン!と火花が弾けて、それが痛みだと気付く刹那の間、汐帆は衝撃で息が詰まるのを妙にゆっくりと感じていた。
 男に殴られたのだ。躊躇なく、腹を。
 閃光が走るように、ボトルシップが落ちて割れる光景が自分の体に重なった。
 バラバラに砕け散る未来が頭から指先まで突き抜けてゆく。
 それは予感だった。私が、私を失う予感。
 凍てついた昏い海が脳裏をよぎる。
 ごとりと傾いて落下するのは、私を閉じ込めた硝子瓶──。

『あぁああぁあああぁぁああああ!!』

 重たい帳を切り裂くように烈火の叫び声が喉を焼いた。
 それは自分のもので、自分自身ではない。
 私の声で、私じゃない誰かが、私の身体で怒りに任せて暴れている。

『ふざけるな! こんな、こんなこと……あってたまるかっ許されてたまるかよ!!』

 男に掴みかかり、まさか反撃されると思っていなかったのだろう、怯んだところへめちゃめちゃに腕や足を振り回して殴り掛かる。
 何度も『出ていけ』と叫び、物を投げて窓を割り、肘をぶつけた壁には穴が開いていた。 
 もう痛みは感じない。
 自分の姿を下から見上げているような、おかしな感覚だけが曖昧に残っている。水面に映る影になったような心地だった。
 身体の感覚が薄くなるほど視界はグラグラと揺れて、意識が暗闇に引きずり込まれる。
 ハッキリと思い出せる記憶は、ここまで。
 私は恐らく、ここで、眠りに落ちた。  
 記憶の泡沫が次々と目の前を通りすぎるのを、汐帆はぼんやりと手を伸ばして見つめていた。
 見えている光景も、その感覚も、私自身の記憶とするには曖昧で、現実味が薄い。
 湊と意識が混ざりあっていたからだろうか。
 記憶の主導権のようなものが私ではなく、湊の方にあったのかもしれない。あるいは、湊自身があえてそうしたのかもしれなかった。
 それはつまり、欠落した記憶の正体。
 私は忘れているのではない。そもそもが、私の記憶ではないのだ。
 あの瞬間、湊に完全に切り替わった瞬間から、私は意識を失って記憶自体をしていない。
 鳩尾に始まる身体中のアザは、男に殴られた箇所も含めて、めちゃめちゃに湊が暴れた形跡だったのだ。
 ふと、朝目覚めた瞬間のことを思う。
 家は私の部屋ばかりか、リビングも、キッチンも、空き巣が入ったというよりは、暴漢が滅茶苦茶をした有様だった。
 事実、その通りだったのかもしれない。
 こればかりは、湊に聞かなければ顛末はわからないけれど。
 汐帆は気づくと海底に横になっていた。
 あたりは水が満たしているけれど、不思議と苦しくはない。
 立ち上がり、歩き出す。
 貝殻を限りなく細かくすり潰したような白い砂が、さらさらと足に心地が良い。
 見上げた水面はあまりにも遠すぎて、星一つない夜空を思わせた。
 汐帆は、あちらへ向かわなければと思う。
 飴色の明かりが見えていた。

「あれえ」

 ぽつんと小さな女の子が立っている。
 年端もいかない幼子らしいまるっこい声で、指を口にあてながら心底不思議そうに汐帆を見つめている。
 白い砂を踏みしめながらゆっくりと近付くと、汐帆はかがみ込んで目線を合わせた。
 丁寧に手入れされた髪と、上品な服。
 汐帆はそのどちらにも見覚えがあった。
 
「あなたは、私?」

 幼子は汐帆の瞳をジッと見つめ返すと、やがてこくりと頷くのだった。
 

 

 



最終話:夢渡る帆船〈三幕:満ちた盃〉
https://note.com/ssnstar/n/na0afee862a7f

#創作大賞2026 #ミステリー小説部門


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