六波羅蜜寺で出会った空也上人、その先に見えたもの
六波羅蜜寺で出会った空也上人、その先へ
〜 六波羅蜜寺と月輪寺に伝わる二つの像から見えた、空也上人の“時間”〜
平安末の都市信仰と修行の断面をめぐって/空也信仰と都市京都の重層構造/念仏と都市空間のあいだで立ち上がる人物像/像の違いは、人物の矛盾ではなく時間の重なりだった/二つの顔のあいだに流れていたもの/同じ仏像のはずなのに、見え方が変わっていく
はじめに
数ヶ月前に、京都東山区の 六波羅蜜寺で 空也上人像 を拝観しました。
そのとき感じたのは「静けさ」ではなく、むしろ奇妙な“動き”です。
鉦を打ち、歩き、念仏を唱えながら、
今もどこかへ向かっているような気配。
それは仏像というより、「行為そのもの」がそのまま立ち上がったような存在に感じました。私はその時点で、この寺を理解したつもりになっていました。
しかし京都への旅から戻ってしばらくたった頃、その理解はあっさり崩れることになります。
SNSで見た“もう一人の空也上人”の顔が、あまりにも違っていたからです。

通行人によく見えるよう像の写真を掲示
。
空也(903?-972年)
別称/ 阿弥陀聖、市聖(いちのひじり)
寺院公式には、醍醐天皇のご落胤とあり、
生前からそのように言われていたようだが、
空也上人本人自ら語ることはなく真偽は不明
詳しい出自はどうもよくわからないらしい。
。
浄土教や念仏の先駆者とも言われている
。
「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えながら
民衆の中に入る修行者として諸国を廻り、
道路・橋・寺院なども造るなど
社会事業も各地で行った
【月輪寺/空也上人像(鎌倉)】(運慶作)
— 月輪寺【公式】 (@tukinowadera) June 17, 2026
(国の重要文化財)
口から2本【道定まらない迷いの姿】
(月輪寺)
(口から1本(悟りの姿)六波羅蜜寺様)
口から出ておりますのは
【六字名号】(南無阿弥陀仏)
小さい六体の像は
【阿弥陀如来様】(具現化)
身長は約2cm 月輪寺が高い… https://t.co/mLfjZXh1Jp pic.twitter.com/2EgWC2xvoa
① 六波羅蜜寺の空也上人 ― 市聖の顔
その像は、六波羅蜜寺で私が見た空也上人とは、明らかに異なる表情をしていました。
頬はやや痩せ、目元には強い緊張感があり、どこか一点を凝視しているような鋭さがあります。
六波羅蜜寺で拝観した空也上人像が、歩きながら人々に語りかけているような「動」の印象だったとすれば、そこに写っていたもう一つの像は、むしろ「静」に近いものでした。
しかしその静けさは、穏やかさではありません。
内側に張り詰めたような緊張を感じさせる静けさです。
この違いに触れたとき、私は初めて、同じ「空也上人」という存在が、一つの固定された像ではないのではないかと考え始めました。
六波羅蜜寺の空也上人立像は、鎌倉時代の仏師・康勝による作品とされています。
口から現れる六体の阿弥陀仏は、「南無阿弥陀仏」の六字を視覚化したものとされ、念仏を唱える瞬間そのものを造形化したものです。
つまりこの像は、空也上人の「行為」を切り取った像であるとも言えます。
歩くこと。
唱えること。
そして人々の中へ入っていくこと。
それらが一体となった姿が、あの立像には込められているように思われます。
拝観している間、私はこの像を「信仰を伝える像」として見ていました。
しかし今振り返ると、それだけではなかったのかもしれません。
この像は、単に仏教的な救済を象徴しているだけではなく、当時の京都における現実の風景と結びついていたのではないでしょうか。
疫病が流行し、人々が不安の中にあった都で、一人の僧が街へ出て念仏を唱え続ける。
その姿が、後世において像として結晶化したものが、六波羅蜜寺の空也上人立像だったのかもしれません。
そう考えると、この像の「動き」は単なる造形的な工夫ではなく、当時の社会状況そのものを内包しているようにも思えてきます。
そして、この理解は後に知るもう一つの空也上人像によって、大きく揺さぶられることになります。
② もう一人の空也上人 ― 月輪寺の厳しい顔
六波羅蜜寺の空也上人像を理解したつもりでいた時、私はある写真に出会いました。
それは、京都市右京区の山中にある月輪寺に伝わる空也上人像の画像でした。
最初にその写真を見たとき、私はしばらく意味をうまく飲み込めませんでした。
同じ「空也上人」であるはずなのに、そこに写っていた人物は、あまりにも印象が異なっていたからです。
顔は痩せ、頬の輪郭は鋭く削がれています。
目は前方をまっすぐに見据え、柔らかさよりも、むしろ緊張と集中が際立っています。
六波羅蜜寺で見た「市聖」の空也上人とは、まったく違う方向を向いた存在のように感じられました。
あちらが人々の中を歩き、念仏を広める僧であるとすれば、こちらは山中で自らを追い込み続ける修行者のようです。
実際、この像は京都の山中にある月輪寺に伝わるもので、六波羅蜜寺とは異なる信仰圏の中で語られてきた空也の姿だとされています。
その存在を意識したとき、私は過去の記憶を思い出しました。
『新TV見仏記 京都千年』という番組の中で、神護寺を訪ねる回があり、その中でこの像の写真が紹介されていたことがあったのです。
当時の私は、空也上人についてほとんど知識を持っていませんでした。
そのため正直に言えば、強い印象も残らず、ただ「少し変わった仏像だ」という程度の受け止め方をしていたように思います。
しかし今は違います。
六波羅蜜寺で空也上人像を見て、その背景にある歴史や伝承を少し知った今、この像はまったく別の意味を持って迫ってきます。
そこにあるのは、単なる表情の違いではありません。
同じ人物でありながら、まったく異なる生き方の断面が切り取られているように感じられるのです。
一方は市中に立ち、人々の中で念仏を唱える姿。
もう一方は山中にあって、自らの内面と向き合い続ける姿。
どちらが「本当の空也上人」なのか。
その問いは、次第に単純なものではなくなっていきました。
むしろ私は、この時点で気づき始めていました。
これは「どちらが正しいか」を選ぶ問題ではないのではないか、ということにです。
同じ人物でありながら、異なる場面、異なる時間、異なる意味の中で語られてきた像。
その重なりこそが、空也上人という存在を形づくっているのかもしれません。
そしてその考えは、さらにもう一段深い理解へとつながっていきます。
③ なぜ二つの像は矛盾ではなく「人生の連続」として見えるのか
六波羅蜜寺の空也上人像と、月輪寺に伝わるとされる空也上人像。
この二つを並べて考えたとき、最初に浮かぶのは「矛盾」という感覚でした。
一方は人々の中を歩き、念仏を広める市聖の姿。
もう一方は山中で厳しい表情を見せる修行者の姿。
同じ人物であるはずなのに、あまりにも方向性が異なって見えるためです。
しかし少し時間をおいて考えてみると、この「矛盾」は必ずしも不自然なものではないのではないかと思い始めました。
むしろそれは、一人の人物の中に当然含まれている複数の時間の断面なのではないでしょうか。
空也上人は、若い頃から諸国を巡り、山野で修行を重ねた人物であったと伝えられています。
経典を学び、厳しい修行生活を送りながら、自らの信仰の在り方を深めていった時期があったとされます。
もし月輪寺の像がそうした側面を映しているのだとすれば、それは空也の「出発点」に近い姿なのかもしれません。
一方で、後に都へ入り、人々の中で念仏を広めたとされる活動期の空也は、まったく異なる局面にあります。
疫病が流行する都で、観音像を車に乗せて巡り歩き、病に苦しむ人々に寄り添いながら念仏を唱えたと伝えられています。
この時の空也は、もはや山中の修行者ではなく、都市の現実のただ中に身を置く存在です。
つまり二つの像は、対立しているのではなく、時間の流れの中で位置を変えているだけなのではないかと考えられます。
山で自らと向き合う時間。
都で他者と向き合う時間。
この二つは切り離されたものではなく、むしろ連続した一つの人生の中に存在しているはずです。
そう考えると、あの月輪寺の厳しい表情も、単なる「別の空也」ではなく、後の市聖としての活動を支える内面的な蓄積として見えてきます。
逆に、六波羅蜜寺の穏やかに見える姿も、その背後には長い修行の時間を含んでいるのかもしれません。
表情の違いは、人物の分裂ではなく、むしろ重なり合う時間の違いに過ぎないのではないか。
そのように考え始めたとき、「どちらが本当の空也上人なのか」という問い自体の意味が少し変わっていきます。
本当の姿を一つに定めることよりも、その人物がどのような時間を生きたのかを追うことの方が重要なのではないか、と。
そしてその視点は、六波羅蜜寺そのものの見え方をも変えていくことになります。
④ 六波羅蜜寺を調べていたはずなのに
振り返ってみると、私はもともと六波羅蜜寺についての記事を書くつもりでした。
目的は空也上人像の感想を書き残すことでしたし、寺の由緒も少し調べてまとめる程度のつもりでした。
しかし実際に調べ始めると、この寺の背景は想像以上に層が厚いものでした。
まず六波羅蜜寺は、平安時代初期に空也上人によって創建されたと伝えられています。
疫病が流行する都において、人々の救済を目的とした活動の拠点でもありました。
観音像を車に乗せて市中を巡り、病に苦しむ人々に寄り添いながら念仏を広めたという伝承は、この寺の原点に深く結びついています。
さらに興味深いのは、この寺が単なる宗教施設にとどまらず、やがて京都の政治的中心の一角と重なっていく点です。
「六波羅」という地名そのものが示すように、この一帯は平安末期には平家一門の広大な拠点となっていました。
その規模は圧倒的で、周辺には清盛をはじめとする平家の邸宅が密集し、その数は五千を超えたとも伝えられています。
宗教と政治と生活が一体となった、極めて特異な都市空間だったと言えるでしょう。
そして寿永二年(1183年)、平家が都落ちする際、この一帯は兵火により大きな被害を受けました。
多くの堂宇が焼失する中で、本堂のみが焼失を免れたと伝えられています。
この出来事は、単なる寺院の被災というよりも、平家政権の終焉と重なり合う象徴的な出来事でもあります。
その後、鎌倉時代に入ると、源頼朝による再興が行われ、この地は新たな政治秩序の中に組み込まれていきます。
やがて鎌倉幕府は京都に「六波羅探題」を設置し、この地は再び政治の要所として機能することになります。
さらに時代が下ると、運慶一門との関わりも生まれます。
現在知られる空也上人立像は、運慶の四男・康勝による作品とされ、鎌倉彫刻の写実性を代表する存在となっています。
この像が生まれた背景には、単なる美術的関心だけではなく、当時の信仰と社会状況が深く関わっていたと考えられます。
さらに豊臣秀吉の時代には、方広寺大仏建立に関連して寺の修理が行われ、徳川幕府のもとでも保護が続きました。
明治維新後の廃仏毀釈によって寺勢は大きく変化しますが、それでも現在まで法灯は受け継がれています。
こうして振り返ると、六波羅蜜寺という一つの寺院は、単なる宗教施設ではなく、京都の歴史そのものの断面のような場所であったことが分かります。
平安、平家、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、そして近代へ。
そのすべての時代が、この限られた場所に折り重なっているのです。
そしてそれでもなお、私の印象に最も強く残っているのは、平家でも頼朝でも秀吉でもありません。
やはり空也上人でした。
六波羅蜜寺の歴史を追っていたはずなのに、気がつけば私は、一人の僧侶の人生を追いかけている自分に戻っていました。
そして、その流れの中で、もう一度あの「二つの空也上人像」が静かに結び直されていくことになります。
⑤ 六波羅蜜寺という場所から見える空也上人
六波羅蜜寺について調べれば調べるほど、この寺は単なる一宗派の寺院というより、京都という都市そのものの変遷に重ねられた場所であることが分かってきます。
その中で改めて思い返すと、空也上人という存在もまた、この場所の性格と深く結びついているように感じられます。
疫病が流行する都の中で、人々の不安と向き合いながら念仏を唱え続けた僧。
それは単なる宗教活動というより、当時の都市そのものに対する応答のようでもあります。
六波羅蜜寺の伝承にあるように、観音像を車に乗せて市中を巡り、病に苦しむ人々に寄り添ったという姿は、この寺の原点を象徴するものです。
そこには、山中での孤独な修行とは異なる、都市という空間の中での実践がありました。
一方で、月輪寺に伝わるとされる空也上人像は、その対極にあるようにも見えます。
鋭い眼差し、痩せた頬、外界と距離を取るような緊張感。
そこにあるのは、人々の中へ入っていく以前の、あるいはその前提となる内面的な時間のようにも感じられます。
しかし六波羅蜜寺の歴史を踏まえて考えると、この二つは単純に対立するものではないのかもしれません。
むしろ、都市と宗教が密接に結びついていたこの場所においては、修行と救済は別々のものではなく、一つの流れの中に存在していた可能性があります。
山で自らを鍛える時間と、都で人々と向き合う時間。
その両方があって初めて、「市聖」と呼ばれる存在が成立したのではないでしょうか。
そう考えると、六波羅蜜寺で見た空也上人像の姿も、月輪寺で想像される厳しい表情も、それぞれが異なる段階を切り取った断面に過ぎないように思えてきます。
どちらが本当か、という問いは、もはや意味を持たないのかもしれません。
むしろ重要なのは、その間にどのような時間が流れていたのかということです。
そしてその時間の重なりこそが、六波羅蜜寺という場所の歴史とも重なっているように感じられます。
平安の疫病、平家の興亡、鎌倉幕府の支配、そして近世以降の再興と衰退。
そのすべてが積み重なった場所に立つとき、一人の僧の生涯もまた、単独の物語ではなく、時代そのものの中に埋め込まれているように見えてきます。
そうして私は、ようやく理解し始めていました。
六波羅蜜寺を調べていたはずなのに、私が見ていたのは寺そのものではなく、その場所に重なった時間であり、そこを生きた人々の連なりだったのだということを。
⑥補章 空也上人と念仏
空也上人を理解するうえで、もう一つ欠かせない要素があります。
それが「念仏」です。
空也は、後の法然や親鸞のように体系化された浄土教の教義を展開した僧ではありません。
しかし彼の活動の中心には、常に「南無阿弥陀仏」という念仏がありました。
特に注目されるのは、その念仏が「座して唱えるもの」ではなく、「歩きながら唱えるもの」であったという点です。
都の中を歩き、人々に声をかけ、鉦を打ちながら念仏を唱える。
そこには、寺院の中に閉じた宗教ではなく、都市の生活そのものに入り込んでいく宗教の形が見えます。
疫病が流行し、人々が不安の中にあった平安中期の京都において、念仏は単なる祈りではなく、現実の苦しみの中に直接届く言葉として機能していたのかもしれません。
また「南無阿弥陀仏」の六字を、口から現れる六体の阿弥陀として表現する空也上人像は、その思想を視覚化したものと考えられます。
つまりあの像は、静止した仏像であると同時に、念仏そのものの動きでもあるのです。
歩くこと、唱えること、人々に届くこと。
そのすべてが一体となった実践として、空也の念仏は存在していたのだと思われます。
⑦おわりに ― 空也上人像を見たあとに残ったもの
六波羅蜜寺を訪れたのは、春のまだ穏やかな日でした。
目的は明確で、運慶の四男・康勝による空也上人立像を見ることでした。
そのときの私は、まさかここから六波羅蜜寺そのものの歴史へと関心が広がり、さらに平家や鎌倉幕府、運慶一門、そして豊臣秀吉の時代にまで視点が伸びていくとは思っていませんでした。
そして何より、もう一つの空也上人像に出会うことになるとは、まったく想像していませんでした。
月輪寺に伝わるとされる厳しい表情の空也上人。
六波羅蜜寺で見た市聖としての空也上人。
同じ人物でありながら、あまりにも異なる印象を持つ二つの像は、最初は矛盾のように見えました。
しかし今は、その違いすらも含めて一人の空也上人なのだと思えるようになっています。
山で自らと向き合う時間と、都で人々と向き合う時間。
その両方を生きたからこそ、「市聖」と呼ばれる存在が成立したのかもしれません。
そして気がつけば、私自身の見え方も変わっていました。
以前なら何気なく通り過ぎていたであろう像や言葉が、今はまったく違う重さを持って迫ってきます。
仏像そのものは変わっていません。
変わったのは、見る側の時間の積み重ねなのだと思います。
六波羅蜜寺は、単なる一つの寺院ではありませんでした。
そこには空也上人の活動があり、平家の興亡があり、鎌倉幕府の政治があり、そして数えきれない人々の時間が折り重なっていました。
その層の厚さを少しでも感じてしまった以上、この場所はもう「一つの寺」としては見られなくなってしまったように思います。
そしてそれは、きっと月輪寺の空也上人像を見に行ったときにも、また違った形で確かめられることなのかもしれません。
そのとき私は、どんな表情の空也上人に出会うのでしょうか。
今はまだ分かりませんが、少なくとも以前のようには見られないだろうということだけは、はっきりしています。
そうして私は、六波羅蜜寺を調べていたはずの時間の中で、いつの間にか京都という場所そのものの奥行きを少しだけ覗いてしまっていたのだと思います。
⑧現地写真と、六波羅蜜寺公式YouTube、公式Instagramなど




観音さまにお出迎えいただく


平安中期の三筆 藤原佐理の揮毫
と言われているらしい
もし本物なら重要文化財や国宝レベルなので
以下略
今後なにか新しいことが判明する可能性も
ゼロではない

という印象です
細い道路を挟んですぐ向かいに一般住宅


昭和44年、開創1000年を機に
解体大修理で 丹を塗り直したそう
またその際に、創建当時の瓦や、
今昔物語記載の多数の泥塔が出土したそう

多くの人が奥まで行かずに
本堂と銭洗弁天までしか
拝観していなかった模様
当然ながら
空也上人と運慶に会いに
躊躇うことなく奥へ進む
以下は 六波羅蜜寺
公式YouTube、公式Instagram、公式X
12月の限られた日程,朝8時半からどなたも参加可能
こちらも12月限定
