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自由に生きていくこと(前半)

自由に生きていきたい。

そう考える人は多い。
だが、自由に生きるってどういうことだろう…

誰もがいくつかのコミュニティに属して生きている。
どんなコミュニティであっても、それぞれ何らかの目的を持って活動している。それらは営利を目的としているかもしれないし、思想の探求や広報を目的としているかもしれないが、いずれにせよ一定の方向を目指して進んでいる。

そして、人為的であるか自然発生的であるかの差はあれど、役員、理事、管理職、お世話係、まとめ役などという肩書の人が、そのコミュニティの方向性を指し示す。あるいはそのコミュニティの活動の拠り所となる信条や規範のようなものを書き出して掲示するかもしれない。

さて、そういった信条や規範からはみ出すこと・・・・・・、一定の肩書を有する人の指示や指摘に盾突くこと・・・・・が自由に生きることだと錯覚する人がいる。まあ、若い時はありがちだ。

だけど、どんな人であっても一切のコミュニティに関わらずに生きていくことはできない。言い換えれば、それは「生きていくためには、いくつかのコミュニティの信条や規範を受け入れなければならない」ということを意味する。

そういった枷を踏まえた上で、改めて「自由に生きていく」とはどういうことかを問いたい。そして、ボクはそれを「自分で学びたいことを自分で選ぶこと」と定義したい。

学校もひとつのコミュニティだ。
学校制度においては、あらかじめ定められたプログラムに沿って学習が進んでいき、そのプログラムを順序良く理解し、他人より多く長期記憶に留めた者が褒められる。そして、そのプログラムを履修した彼らは、新しいコミュニティである大企業などに所属し、再び(その企業が定めた)ラーニングプログラムの履修を目指す…

ボクは、それは自由ではないと言いたい。
(→後半へ続く)

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