自由に生きていくこと(後半)
(→前半から続く)
雇用されていようが、フリーランスであろうが、ほとんどの人は需要に対し成果物を納品することによって報酬をもらっているはずだ。よって、多くの人は、その業務をこなすためのスキルを身に着けようと努力する。
それは、紛れもなく「学び」だろう。
だけどそれは誰かから与えられた学びだ。
例えば、そうではなくて「そのビジネスの歴史についてもっと知りたい」と内発的に考えるならどうだろう。もちろん、自分の業務をこなすためのスキルはすでに十分身に着いていることが前提だ。
それが現在の自分の業務に直接的に関係ないとしても、将来的に武器となってくれそうな新しいスキルを習得すること、あるいはビジネスから離れて、何かリベラルアーツ的な知見を拡げることなど、そういった行動は自分で選んだ学びだと言えるだろう。あるいは趣味に没頭して、ピアノが上手く弾けるようになったり、マラソンで自己新記録を更新したり、映画の出演者やディテールに詳しくなったりするのも同様だ。
福沢諭吉の「学問のすすめ」の冒頭部分に以下のような記述がある。
されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。
その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
(中略)人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
経済学や統計学においても、しばしば「学び続ける人は生涯所得が高くなる」という表現を見かける。
何かと何かを掛け合わせた幅広の知見、もしくは徹底的に掘り下げた専門的な知識を持っていると、それがいつの間にかコミュニティを横断して広く知られるようになり、意外なところから引き合いが来る。そんな経験をたくさん持っていると、自分が納得いかないときに躊躇なくNOと言えるようになるのだ。
それこそが「自由に生きる」ということではないだろうか。
