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溢れるAI生成物に溺れるな


私がAIに飛び込んだ理由

日々AIと遊び、対話し、その中での学びや発見を発信しているが、私はAIを礼賛している訳ではない。ただ、インターネット産業以来の新産業であり、これからの世界はAI抜きには成立しなくなってくるのは確実。

遅かれ早かれAIと向き合わざるを得ないのならば、後から高い絶壁を登るより、AI格差が広がる前に、今次元上昇の波に乗ろうと思って、私は飛び込んだのだった。

AIの魅力と感じた違和感

AIの魅力は感じているし、もっと発見したいとも思っている一方で、光とともに生まれる闇にも注目し続けている。 たとえばネットも化学調味料や添加物も、それまでの常識を覆すほどの革新性や利便性だけでは語ることができないのは、誰でも容易に想像できるだろう。
だから案外ニュートラルな立場にいるつもりで、その上で、AI時代にこそ問われる“人間らしさ”や”AIとの共創”に関心があるのが、私である。

しかし今、あまりに多くの“AI生成物”が当然のように流れ込んでくる。その多くが、味気ないばかりか、時に嫌悪感すら感じさせる——

この嫌悪感は、いったいどこから来るのだろうか。
誰かの作品に触れるということは、おそらく「その人の内面の発露に触れたい」という欲求だ。 その欲求を満たしたかったのに、AI生成物だと分かった瞬間に、それが裏切られたと感じるから興醒めするのではないか。

それは何故か。
制作に驚くほど時間が掛かっていないから?
確かに、目の前にある一見見事な画像なり、文章なりが、ものの数秒やごく短時間で出来ていたのだとしたら、やはり虚しさを感じる。
だって、プロセスにも思いを馳せたいじゃないか。

でも、これは本質ではないと思う。何故なら、芸術作品は、それにかけた時間では価値は決まらないから。

AIとの共創時代がはじまった

では、AIを使うことはチートなのか?
これも否だと言いたい。これまでの時代だって、完全にソロで作り上げる創造物ばかりではないのは、言わずもがなだからである。
それに知能があったかなかったかはさておき、機械の力を借りることもあっただろうし、少なくとも私は、”チームメンバーの一人”という位置付けは納得できる。

では、何なのか。
ちなみに私の文章は、ブレストや構成案の相談、推敲、最終チェックをAIとともに行う。時には草案を書いてもらう場合もあるが、そこから吟味を重ね、私自身の手と感覚によって精緻に磨き上げるというスタイルだ。
少し逸れるが、AIからちょっと憎い表現が提案されると、困る時がある。私から湧き出て欲しいから、そのままを採用することは出来ないのだ。

だから、読み手に響くかどうかは皆さんに委ねるが、作者の私自身は、完成した文章が自分のものであることに、微かなズレも違和感もない。

"あなたに触れたい"という欲求と、裏切られる感覚

一方で、2025年4月時点では、まだまだAI臭のするものが多いと感じる。
どこか辟易してきたのは、きっと私だけではないに違いない。

様々観察してみるに、「作者の内面や感性をどれだけ映し出せているか」という部分が甘いからではないかと、次第に思うようになった。

情報伝達のための文章なら、分かりやすさと正確性がある意味全てだと思う。しかし、エッセイやコラムのように感性が求められる文章から、SNS投稿やメルマガ、さらにはLPのような商業文に至るまで——
AIに書かせて、最後の磨きをしきれていないまま完成させて世に出されているものに、読了後になんとも言えないモヤっと感が残る気がする。

あなたも感じたことはないだろうか。

この言葉にならない違和感が、「あなたの作品を通して、あなたに触れたかったのに、AIかよ」という、裏切られたような気持ちではないか。

誰もが同じものを求めているわけではない

もちろん、そもそも、その人自身がそこまでのものを目指していないという可能性もある。気軽な発信をするのはその人の自由なのだが、見る側のエゴとして、この欲求は自然なものだと私は思う。

表現に宿る”何か”

実は、似たような感覚を、AI生成画像の"作品”にも感じることがある。

アートは、その表現に込めた意図に鑑賞者は感情が揺さぶられる——共感であっても、反発であっても。
感情が揺さぶられるのは、そこに”何か”が宿っているからだ。
私自身も、鑑賞者として自然に抱く感情を否定しない。
一方で、創作は本来、何からも、誰からも自由であるということは、揺るぎない。

AI生成画像は瞬時に出来上がる。
だから、人間の力を凌駕するのを目の当たりにして、どこか恐れに似た感情が湧く時もある。

それが”作品”という体裁を取っていてもいなくても、鑑賞者の恐れやエゴでそれが否定されるべきではない。それなのに、どこか虚しく感じ、創作物として何となく受け入れ難い——

それは、ユーザーが込めたい想いや意図が不介在なまま、“それっぽいもの”が作られて、大量消費されているのを感じ取っているからではないだろうか。

作品としての成立に、AIの介在は本質的には関係ない。これまでだって、人間は、常に誰かや何かと創造してきた。
ただし、どんな手段であったとしても、作品を作品たらしめるには、
そこに、あなたの表現者としての——”創造主”としての意図や物語を織り込む必要がある。

ここでは便宜上“作品”という言葉を使ってきたが、私が違和感を抱いているのは、表現の形式ではなく——
そこにその人の意図や想いが込められているかどうか、という一点なのだ。

溢れるAI生成物の中で、わたしたちはどう生きる?

これからの未来、AI感のある生成物は、今後しばらく急増——いや、激増していくだろう。(そしてその先には、見分けがつかないほど精巧な生成物が静かに、そして大量に混じり始めるに違いない)

もう既に、簡単にそれっぽい文章や画像が作れるプロンプトが大量にばら撒かれていて、「効率!神業!」と瞬時に生成されたメルマガやブログ記事が、今よりも、もっと溢れる。考えただけでも食あたりを起こしそうだ。

あくまで予測ではあるけれど、現実味がある未来だと思わないだろうか。

そんな未来だからこそ、私は人間の心の機微や豊かな感性、そして本来の
いのちのエネルギーをもっと大切に守り、育みたい。
創る側であっても、観る側であったとしても。

わたしたち人間の「震える」という、心や身体感覚を大事にしたい。


あなたは何を選び、どう生きる?




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