道は終わらない——ハイランド・ドローバーと便りの道
バスの隣席で聞いたひとことが、
古い地図の道へと私を導いた。
牛追いの道、郵便夫の道、
そして、いまも誰かへ渡っていく言葉の道。
旅は点でも線でもなく、
網のように広がっていく。
グレンコーの村を出発すると、
老紳士は古書を開き、
折りたたまれた地図を広げた。
折れそうに乾いた紙の匂いと擦れる音——
その地図が気になって仕方なく、
私は、彼のひとことをきっかけに会話をつないだ。
昔の牛追いの道を調べているのだと、彼は言った。
ハイランド・ドローバーの道——
痩せた土地で育ったハイランド牛を、
南の市場へ歩かせて運んだ人々の道だ。
それは旅人の道ではない。
生きるために、ただ歩き続ける道。
この荒涼とした風景に、
その歴史が息を潜めている。
少し言葉を交わしただけなのに、
私たちの話は思いがけない広がりを見せた。
ロブ・ロイ・マグレガー、
ロスリン・チャペル……
旅のこと、風に吹かれた日のこと。
あの頃、彼は自由を謳歌した人だったのかもしれない。
悪戯っぽく笑う横顔に、そんな過去が見えた気がした。
グラスゴーまでの数時間は、驚くほど短かった。
終点に着くと、彼は軽く手をあげ、
人混みのなかへ消えていった。
名前を聞くことは、最後までなかった。
聞けなかったことは、たくさんある。
けれど、その余白こそが、
その人の人生を静かに想像させる。
私もまた、ざわめきのなか、駅へ向かった。
しばらくして、私は湖水地方に佇んでいた。
雨は、やむ気配を見せない。
この日は歩くことを諦め、
昨年買いそびれたジンジャーブレッドを求めて、
グラスミアへ向かった。
雨のグラスミアはひっそりとして、
濡れた石の壁は淡い灰色を失い、
深い墨色へと沈んでいた。
予定より遅くなったかもしれないと、
小走りで店を目指す。
まだ列はできていなかった。
扉を開けると、
温かなスパイスと、
ジンジャーの鋭さ、
糖蜜の甘い匂いが鼻をくすぐる。
毎年秋に焼くパーキンの匂いだった。
満ち足りた気持ちで店を出たあと、
雨を避けるように、小さな書店へ入った。
ショーウィンドウに置かれた一冊の本。
版画のような図柄。
明るすぎず、暗すぎない緑の草地。
そのなかを歩く郵便夫の後ろ姿。
手に取ると、
ハードカバーの本は不思議と温かかった。
ページをめくる。
すると、目の前にやわらかな緑が広がり、
「便りの道」を歩く一筋の足痕が、
どこまでも伸びていく光景が浮かび上がった。
数十年、数百年の時を隔てても、
ここは、誰かが立ち、歩いていた場所だ。
私は、彼らが積み重ねた時間の上に立っている。
道は消えても、
歩いた人の気配は消えない。
紙袋に入れた本を鞄にしまい、
バス停へ向かう。
登山靴の泥は、雨に洗われていた。
キャリーケースの中身をひとつずつ出し、
グラスミアの思い出を手に取る。
ページをめくると、
「ハイランド・ドローバー」の文字がしずかにあらわれた。
私がポストした小さな旅の記憶は、
思いがけず、あの本の著者のつぶやきを経て、
見知らぬ誰かへと、瞬く間に渡っていった。
旅は、気づけば、網のように広がっていた。
※ 同じ旅の時間から、風の記憶を書いた
「スカイ島を歩く:Quiraing」もあります。
