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なぜ日本社会は「超能力少年」を魔女狩りにしたのか? 70年代オカルトブームの暴走と真実

あの異様な熱狂を、一定の年齢以上の方は覚えているかもしれない。

1974年(昭和49年)3月7日。日本テレビ系列『木曜スペシャル』で大橋巨泉らが司会を務める中、一人のイスラエル人青年ユリ・ゲラーが、テレビ画面の向こうから日本の茶の間へ向けて「念力」を送った。
その瞬間、日本全国の家庭でスプーンがぐにゃりと曲がり、何年も止まっていた古時計が一斉に時を刻み始めたのである。
日本中をパニックに近い興奮の渦に巻き込んだ、空前の「超能力ブーム」の幕開けである。

しかし、このオカルト史に残る華々しい事件の裏で、日本のマスコミと善良な大衆が、一握りの「小学生の少年たち」を相手に、現代の魔女狩りとも言える凄惨な公開処刑を行っていた事実を、私たちは忘れがちだ。

前回の記事(『なぜ「本物」の超能力者は、最後には必ず三流のペテン師に堕ちるのか?』)では、コリン・ウィルソンが提唱した「超能力者が詐欺に手を染める残酷なパラドックス」について解説した。
今回はその後編として、その理論が歴史上もっともグロテスクな形で爆発した、「1970年代日本の超能力ブーム」の漆黒の闇を解剖していく。

そこにあったのは、未知の力への純粋な驚きやスピリチュアルな目覚めなどではない。
無垢な子どもたちを勝手に「神」に仕立て上げ、見世物として消費し尽くした挙句、最後は「嘘つき」と罵って徹底的に石を投げつづけた、大人たちの底知れぬ狂気の祭典だった。

「歩く視聴率」と化した子どもたち。狂乱のメディア・スクラム

ユリ・ゲラーの来日特番が驚異的な視聴率を叩き出した直後から、全国の小中学校で異常事態が起き始めた。
森達也の著書『オカルト』でも、彼が当時17歳の高校生だった頃の熱狂が綴られている。

「翌日の学校では、スプーン曲げの話題で大騒ぎだった。実際に自分で試したら曲がったと主張するクラスメートがいた。たぶんこの時期、日本中の学校で同じような光景があったはずだ」

森達也著「オカルト」

そこから次々と名乗りを上げ始めたのが、清田益章少年や、背中越しにスプーンを投げ上げて空中で曲げるスタイルを得意とした関口淳少年などに代表される「超能力少年(スプーン曲げ少年)」たちである。

メディアは狂喜乱舞した。
どこにでもいる普通の、ランドセルを背負い鼻水をすすっているような少年が、精神を集中させるだけで硬質な金属を飴細工のように捻じ曲げてみせる。こんなに安上がりで爆発的な数字(視聴率・発行部数)が取れるコンテンツはない。
テレビ局のディレクターや週刊誌の記者たちは、ハイエナのように雪崩を打って彼らの自宅や学校に押し寄せた。彼らを何台ものカメラで取り囲み、スタジオのひな壇に座らせ、大物タレントたちが驚愕の声を上げてひれ伏す。

昨日までクラスの片隅で目立たなかった少年たちは、一夜にして日本中の注目を集めるスーパースター(あるいは生きた神)へと持ち上げられた。
しかし、大人たちの充血した瞳の奥にあったのは、神秘の力に対する純粋な信仰心などではない。
「こいつは金になる」「雑誌が飛ぶように売れる」「他局より1パーセントでも高い視聴率が稼げる」という、極めて俗物的な計算と底なしの強欲だった。
マスコミにとって彼らは、才能ある超能力者である以前に、自分たちの都合よく奇跡のデリバリーをしてくれる「無料のエンターテイナー(見世物)」に過ぎなかったのだ。

まばゆい光と密室のスタジオ。「奇跡」を強要される恐怖

コリン・ウィルソンは、本物の「Psi力(念力やテレパシー)」とは、人間の無意識の最深部(感情の底)から偶発的にこぼれ落ちる、極めて不安定なエネルギーだと指摘している。
穏やかな精神状態や、無防備なトランス状態、あるいは極限の無我の境地においてのみ顔を出すような、ひどく繊細な力なのだ。

それを、彼らはどう扱ったか。
想像してみてほしい。
まばゆい凶暴な照明が照りつける、空調の効いたテレビスタジオ。
何台もの無機質な巨大カメラが自分を狙撃手のように見据えている。
タイムキーパーが冷酷に秒数を刻み、周囲を取り囲む何十人もの大人たちが、息を呑んで「さあ、見せてくれ」と異様な熱気を放射している。
「さあ、曲げてください!」
「まだですか?」
「全国の視聴者があなたの力を待っていますよ!」

そんな絶望的なプレッシャーと異常空間の中で、10歳そこそこの小学生が、自分のデリケートな無意識の扉を、スイッチ一つで自由に開け閉めできるはずがない。

超能力は沈黙する。
少年は脂汗を握り、懸命にスプーンを見つめ、念じるが、金属は微動だにしない。
スタジオの熱を帯びた空気が、急速に凍りついていく。
「なんだ、今日は曲がらないじゃないか」「偽物か?」「ハズレの手配をしたのはどこの馬鹿だ」という、大人たちの苛立ちとあからさまな失望の冷気が、鋭いナイフのように少年の小さな心臓を突き刺す。

つい数分前まで、自分は神のように特別で、みんなから無条件に愛され、必要とされる存在だった。
だが今、このスプーンが曲がらなければ、自分は価値のない粗大ゴミとして放り出される。
その全能感が崩れ去ろうとする絶対的な恐怖に追い詰められたとき、無垢な少年たちは、生き残るために「魔の選択(トリック)」に手を出してしまった。

「ペテン」の正体。怯えきった子どもたちの悲鳴

作家であり奇術研究家でもある松田道弘は著書『超能力のトリック』の中で、スプーン曲げの手法について「相手のゆだんしているすきに、ひざの上や、机や床などに押しつけて、瞬間にスプーンを曲げてしまう方法」や「あらかじめ折り曲げたり金属疲労を起こさせたスプーンにすり替える」といった数々の物理的トリックを解説している。
確かに、番組の中でスプーンが曲がった瞬間のいくつかには、こうした作為的な力が働いていたことだろう。

しかし、なぜ彼らは大衆を前にトリックへと走らねばならなかったのか。
森達也は『オカルト』の中で、こう指摘している。

一般に「超能力”を持つといわれる子供たちに共通した傾向がある。 ①人目を気にし、念力を信じない人がいるとできない。 ②明るいところより薄暗いところを好む。 ③カメラや視線に対して後ろ向きでないとだめ―――ということだ。 (『週刊平凡』七四年五月三〇日号)
「布団の中でスプーンと一緒に寝ていないとやりにくい」と、応接室に布団を持ち込み、中にくるまってやってみせてくれた。 だが、布団の中に入っちゃったのでは、いかにも「見えないところ」が多すぎて、「あ、消えた」「あ、戻った」と叫んでも、にわかにそうとは信じがたい。 (『週刊読売』七四年六月一五日号)
トリックと考えることが最も現実的な大人の判断であるだろうとは思うけれど、でも第一次スプーン曲げブームの時に現れたおおぜいの少年少女がみな、世間をだましてほくそ笑んでいたとは考えづらい。 御船千鶴子や関口淳などの事例も含めて、(筆者注:オカルトには)明らかに隠れよう(もしくは隠そう)とする傾向がある。

森達也著「オカルト」

決して、初めから力を持たない邪悪な詐欺師の、計画的で悪質な犯行ではなかった。
「かつて確かに一度でも発現した本物の力」を再び証明し、大人たちの愛と期待と賞賛を永遠のまま繋ぎ止めるための、あまりにも不器用で、ただただ怯えきった少年たちによる悲鳴のような自己防衛行動だったのだ。

コリン・ウィルソンが描いた「本物が三流の手品師にすり替わる瞬間」の、もっとも純粋で、もっとも胸を締め付けられるほどに哀しい悲劇が、当時の日本のテレビスタジオで毎日のように繰り返されていた。

しかし、映像のプロや狡猾な大人たちの目を、素人の子どもがいつまでも誤魔化し通せるはずがなかった。
ある日、彼らを「神」に仕立て上げたのと同じマスコミが、スタジオに隠しカメラを仕掛け、少年が机の下で物理的な力を使って必死にスプーンを曲げている瞬間を、「決定的な証拠映像」として激写する。彼らにとっての特ダネである。

その瞬間から、メディアの態度は悪夢のように180度反転する。

掌返しの魔女狩り。大衆の狂気が牙を剥く

かつて少年たちを「日本の宝」「人類の進化」「奇跡の子」と大絶賛して持ち上げていた同じ雑誌、同じテレビ番組が、今度は巨大な見出しで彼らを執拗に糾弾し始めた。

「世紀の大ペテン! スプーン曲げは全部サギだった!」
「国民を騙した稀代の嘘つき少年を許すな!」

恐ろしいのは、マスコミに嬉々として扇動された「一般大衆」の、異常でサディスティックな反応である。
自分たちが純粋に騙されていたという恥辱(あるいは、たかが子ども相手にムキになって熱狂してしまった自らの滑稽さ)に直面した大衆は、その恥ずかしさをど黒い「怒り」に変換し、矛先をすべて少年たちに向けた。

テレビ局に抗議の電話が殺到し、少年たちの自宅には連日のように脅迫状やカミソリの刃が届き、学校では級友だけでなく教師からさえも「嘘つき」「ペテン師」「日本の恥」という凄惨なイジメが行われた。
中には精神を病み、長期間の不登校に追い込まれたり、大人になっても深い対人恐怖症に苦しみ続けた者も少なくない。

いい歳をした大人の集団が、よってたかって一人の小学生を「国家の敵」として社会的に完全に抹殺しにかかったのだ。
日本中が参加した、現代の陰惨な魔女狩りである。

「本物」の超能力の萌芽を持つ存在を、異常な圧力と期待によって「三流の手品師」へと強制的に作り変えたのは、社会の側なのだ。

そして大衆は、自分たちで勝手に作り上げた「嘘つきの生贄」を公開処刑することで、自らの平凡な常識とつまらないプライドを守り、底知れぬカタルシス(快感)を得たいだけだったのだ。

本当の「怪物」は誰?

メディアの前に引きずり出され、「お前は嘘つきだ!」と罵倒され、カメラの前でトリックを暴かれて泣きじゃくる少年たち。
その姿をブラウン管越しに見て、大人たちは溜飲を下げた。
「やはり超能力なんて非科学的なものは存在しなかったのだ」「正義は勝った。嘘つきには天罰が下った」と、安心したように眠りについた。

だが、少し時代を下って冷静にこの事件を解剖したとき、浮かび上がってくるのはまったく別の、身の毛もよだつ恐怖の構図である。

超能力少年たちは、確かに(少なくとも最終的には)トリックを使い、大人を騙した。
しかし、彼らをその状況に追い込んだのは誰だったか?
彼らの持つ不安定で繊細な力を理解しようともせず、見世物小屋の珍獣のように扱い、自分たちの金と視聴率のために「今すぐここで奇跡を起こせ」と強要したマスコミである。そして、それに群がり、無責任に消費し、飽きたら壊した大衆の飽くなき欲望である。

本当に恐ろしい怪物は、念力でスプーンを曲げて注目を浴びようとした小さな少年ではない。
自らの純粋な悪意と狂気を「正義」という仮面の下に隠し持ちながら、平然と日常生活を送っている「大衆という名の無自覚な怪物」の方だったろう。

現代のSNSに這い寄る「70年代の亡霊」

1970年代の超能力ブームと、それに続く少年たちへの異常な集団バッシング。
私たちは当時の映像を見て、「昔の日本人はオカルトに騙されやすかったんだな」「メディア・リテラシーが低かったのだ」と鼻で笑い飛ばすかもしれない。

だが、この構造は決して50年前の過去の遺物ではない。
突如として無名の個人(インフルエンサーや素人)をSNSで神のように持ち上げ、彼らが一度でもミス(あるいは嘘)を犯せば、「騙された!」「嘘つきだ!」「社会悪だ!」と集団でネットリンチを行い、アカウントごと社会的に完全に抹殺するまで袋叩きにし続ける。

現代の「キャンセル・カルチャー」や「正義の炎上」と呼ばれる現象のグロテスクな本質は、50年前のあの日、冷たいスタジオの片隅でスプーンを握りしめて震えていた少年に向けられた、大人たちの無自覚な悪意と完全に同一の構造である。

オカルトとは、決して暗闇に潜む幽霊や未確認生物だけを指す言葉ではない。
もっともおぞましく、忌まわしい真の恐怖現象は、いつの時代も「人間の集団心理が引き起こす狂気」そのものの中に潜んでいる。

あなたが今宵、スマートフォンで誰かの炎上記事を読み、いっぱしの正義感に駆られて「批判のリプライ」を書き込もうと指を動かしているなら、少しだけ手を止めて想像してみてほしい。

あなたのそのスマートフォンを照らす顔は今、50年前に超能力少年をペテン師と罵り、狂ったように石を投げつけていた「あの大人たち」と同じ、鈍く淀んだ暗い喜びの顔に歪んではいないだろうか、と。

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