9/15週のインプット:→黒沢清→ウェス・アンダーソン→蓮實重彦→

9/15〜9/21のインプット
映画
『暴れん坊街道』(1957年、内田吐夢)
『ラスト・オブ・イングランド』(1987年、デレク・ジャーマン)
『エドワードⅡ』(1991年、デレク・ジャーマン)
『ブロークン・フラワーズ』(2005年、ジム・ジャームッシュ)
『フィクサー』(2007年、トニー・ギルロイ)
『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』(2013年、黒沢清)
『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(2013年、ジム・ジャームッシュ)
『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』(2025年、ウェス・アンダーソン)×2
映像
『Actually…』(2022年、黒沢清)
書籍
『監督 小津安二郎〔増補決定番〕』(2016年、蓮實重彦)
『ショットとは何か 歴史編』(2024年、蓮實重彦)
『監督のクセから読み解く 名作映画解剖図鑑』(2024年、廣瀬純)
見えないものを信じさせる①時間
黒沢清は映画的な設定が上手い。
空間を自在に操る。『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』では、港に引かれたトラテープの向こう側には新型ノロウイルスが広がっているらしく、別のシーンで会社員がデスクを飛び出したのはネズミが走っていたからだと言っている。しかし、ノロウイルスがあるわけがないし、騒ぐ大人はいてもネズミは映っていない。どちらも共通して見えていない。見えないものを、どう信じてもらうか、これが映画を作る上で欠かせない。
そして時間。時間こそ映画に映らない最たるもの。
『Actually…』では、地下室に後輩を丸一日閉じ込めたらしい。このリアリティをいかに出すか。閉じ込めた張本人の切迫した顔、閉じ込められた後輩の超然とした態度、どこからともなく響いてくる機会音。黒沢清はあらゆる手を駆使して、地下室に後輩が丸一日閉じ込められたこと、を表現してくる。
『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』はさらに捻りを効かせてくる。本作にはティルダ・スウィントン、トム・ヒドルストンが演じる、現代を生きる二人のヴァンパイアが登場する。監督のジム・ジャームッシュは、二人に吸血を禁止した上で、圧倒的に長い時間を生きて得た知識によって、ヴァンパイアであることを提示する。ティルダ・スウィントンは、サンスクリット語、日本語、ラテン語など、あらゆる言語で書かれた本を苦もなく読むことができ、トム・ヒドルストンは、一瞥しただけでギターのスプロの型番を言い当てる。モーツァルトの弦楽五重奏曲第一番も彼が作曲したらしい。
1000年単位の見えない時間を、二人の知識に圧縮して可視化する。もちろん二人の落ち着き払った話し方、人間離れしたメイク・表情も大いに援護する。
見えるもの・聞こえるものによって、見えないものを支える。
しかし、映画だからと言って、何でもかんでも信じられるわけではない。
『フィクサー』では危険な農薬によって、多数の死者が出ているらしい。しかし、被害者はほとんど出てこず、映画を進めるための情報に留まってしまっており、非常に勿体無い。黒沢清なら、怒り心頭の男たちを映したはず。
『ラスト・オブ・イングランド』はアトランダムに様々な映像が映し出される。もはや映っていないものが何か、も提示されず、観客一人一人が見出す必要がある。そのせいなのか、長く苦しい映像の旅の果てに辿り着いた、ティルダ・スウィントンが逆光の中回転し続けるショットは、その映像美も相まって、心に迫るものがある。
『エドワードⅡ』は14世紀のイングランドを統治したエドワード2世の映画だが、ほぼ室内劇であり、豪華な宮殿や城は出てこない。完全に閉じた世界や人間関係にすることで、そこに14世紀が映っていることを何とか成立させる。
映画において、もしかすると時間以上に、見えないが大切なものがある。
それがエモーション、平たくいうと感情ではないか。
見えないものを信じさせる②エモーション・感情
黒沢清は空間と時間を撮ることに長けている。一方、感情を映すことを恐らく完全に諦めているため、毛嫌いされることも多いのではないか。
(その弟子として、感情・エモーションだけを狙っているといっても過言ではない濱口竜介が登場したのは非常に面白い)
『ブロークン・フラワーズ』も結末らしい結末は無い。主人公ビル・マーレイの元に「実は私にはあなたとの子どもがいて、彼は父親探しの旅に出た。」という差出人不明の手紙が届き、その差出人を特定するためにかつてのパートナーの家をたずねるだけの物語。結局、差出人を特定することはできない。しかし、観客はビル・マーレイと共に旅をすることで、ビル・マーレイと同化していく。ビル・マーレイが近所をうろつくバックパッカーを息子と勘違いするラストは、普通にみたら滑稽なのに、なにか心にくるものがある。それは恐らく、ビル・マーレイの感情が見えるようになっているから。最初は見えていなかった感情が、監督ジム・ジャームッシュの設計により、見えるように、あたかもカメラに映るようになってしまった。
時間も感情も鮮明に映し出したのが『暴れん坊街道』。江戸時代、やむにやまれぬ事情で引き裂かれた親子たちの映画。野原と青空がどこまでも伸びていく一本道に、侍と馬引きの少年と馬を映すだけで江戸時代を復活させてしまう画面に脱帽。さらに、普通なら絶対にありえない再会を、とてつもないエモーションを生み出すことで押し切ってしまう演出が凄まじい。やや演技が臭いが快活な子役の植木基晴、まさに芸としての顔を見せる山田五十鈴の演技合戦が特に凄い。これほどのエモーションが生まれるなら、偶然も許せてしまう。
しかし、一切の感情・エモーションを消した映画が公開された。ウェス・アンダーソンの『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』である。
「NO CRYING」なウェス・アンダーソン
『フレンチ・ディパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』で登場するフレンチ・ディスパッチ誌の編集室には「NO CRYING」と掲示されている。映画の中では、「泣いてはいけない」だが、ウェス・アンダーソンの映画史を見ると「泣くことがなくなった」と解釈できるのではないか。
『フレンチ・ディパッチ』まではNO=禁止だったが、『フレンチ・ディパッチ』の次作である『アステロイド・シティ』からはNO=無になったのではないか。
『アステロイド・シティ』では誰も泣かない。息子と娘が母の死を知った時も、息子が奨学金を得た時も、義父と父が和解した時も。とはいえ、天才息子が同じく天才たちに加わった時に、シャイな性格から頬を赤らめる、という可愛らしい演出があった。
さらに最新作、『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』では泣かないどころか、ほとんど全てのキャラクターが一切、感情を露わにしない。
※以下、『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』のネタバレを含みますので、ご注意ください。
この映画では、性格が捻じ曲がった父ベニチオ・デルトロと、何年も疎遠だった娘ミア・プレストンが旅に出る。ついでに秘書としてマイケル・セラもついてくる。
父ベニチオ・デルトロと娘ミア・プレストンの親子関係の回復が描かれる。父は娘に母殺しの犯人と疑われたため、真相を白状し、母が複数の男と関係を持っていたことを明かす。そして最終的に、父が父でさえなかった可能性が明らかになる。娘からしたらたまったものではない。
トラウマを抱えてもおかしくない展開にも関わらず、娘は我関せずといった表情で父との旅を完結する。それに加え、元・父からの養子の嘆願を快諾し、最終的に二人で暮らすことになる。離れていた家族が同じ屋根の下に暮らすことになったのだから、ハッピーエンドと言えなくもないかもしれない。一緒に旅をした秘書に求婚され、あっさりOKも出す。
しかし、なにか、底知れない不気味さがある。現段階では、登場人物の誰一人感情を明らかにしないことを挙げて話を進めたい。
ウェス・アンダーソンではなくなった、というつもりは毛頭ない
『『犬ヶ島』での少年少女たちの言動は、ハワード・ホークスのコメディで活躍する小物たちさながらに、誰もが仏頂面のまま、大人顔負けの理詰めなな言動で見るものを驚かせる』
と蓮實重彦は書いた。これに付け加えるならば、大人がジャン=リュック・ゴダールの映画のように泣かなくなってしまった。
『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』と似た設定のウェス・アンダーソン作品との違いもいくつか見ておく。
海洋探検家ビル・マーレイが突如息子と名乗る男と海洋冒険に出る『ライフ・アクアティック』があるが、ビル・マーレイは映画の終盤で憎きジャガー・シャークを目の当たりにして不意に涙する。
父と養子の娘を扱った作品として『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』がある。父を演じるジーン・ハックマンが泣いていた記憶はないが、お茶目で頑固で、楽しんでいる時も怒っている時も、感情爆発で非常に人間味のあるキャラクターだったことは間違いない。
(しかし、そう言えば養子の娘と父の描写は少なく、彼女は兄弟との捻れた愛について描かれていた。娘に対する父の距離感が、この時点から潜在化していたことを指摘するのは意地悪だろうか。)
養子と父を描いた『犬ヶ島』では、父は独裁者であり、『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』のベニチオ・デルトロを想起させないでもないが、やはり人間らしく感情露わで、最終的には養子を守る決断も行なった。
理詰めの子供たちの映画的快感と、最終的に涙や感情を露わにする大人の抑圧からの解放がウェス・アンダーソン的な映画だったとすると、『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』で彼は変わってしまったのだろうか。
そうではない、と断言する。
またも蓮實重彦から引用する。
というのも、こうした視点は必然的に純粋な小津と不純な小津、あるいは完成された小津と不完全な小津という対立的な図式を引き出し、・・・晩年の小津を一つの完成図と想定し、初期や中期の作品を完璧さに接近するための、必須ではあったが概ね無視することの可能な過渡的な段階として、そこに二次的な価値しか認めようとはしない傲慢さである。
つまり、いわゆるローポジション、正面からの撮影および切り返し、といった「完成された小津」だけを見ていては、そうではない作品、そうではないショットを見逃すことになる、ということである。
小津と同様、撮影スタイルがはっきりしているウェス・アンダーソンにもほぼ同じように適用できる。正面からの撮影および切り返し、左右対称の構造、カメラの並行移動、さらには人物造形など。
ともすると、「今回はウェスらしくなかった」というだけで、劇場を後にしてしまいそうになる。
しかし、私も蓮實の姿勢にならいたい。『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』は、確かに今までの作品と大きく異なる。しかし、この作品を見てしまったものとして、全力で肯定することにしなければいけない。
(また、先ほどの蓮實の引用から引き出される別の可能性は、ウェス・アンダーソンのフィルモグラフィーが完成した暁には、晩年の作品のみが肯定され、初期の『ライフ・アクアティック』や『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』こそ見逃される、という事態である。これはすでに起きつつあり、初期長編の『アンソニーのハッピーモーテル』は今のウェス・アンダーソンの撮影スタイル大きく異なることもあり、あまり言及されなくなっているのではないだろうか。)
例えば、『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』で新しい表現だったのは、カメラに触れる人物である。映画の中盤、ベニチオ・デルトロの主観カメラで、映しだされたミア・プレストンがカメラ(=ベニチオ・デルトロ)にビンタすると、カメラは大きく右へ回転し、隣に座っていたジェフリー・ライトのおとぼけ顔が映し出される。これが2回繰り返される。さらに映画終盤、やはりベニチオ・デルトロの主観カメラで宿敵ベネディクト・カンバーバッチが映し出され、首を締める動作に入ると、カメラが揺れる。
カメラは「完成されたウェス・アンダーソン」を作り出す支配者であり、カメラの前のキャラクターは被支配者であるにも関わらず、支配者たるカメラにふれる。これは驚くべき転換かも知れない。
さらに、死が直接的に描かれる。廣瀬純は
死が画面内に侵入しそうになるたびに、ウェス映画はうまく身をかわして、システムの危機を切り抜けています。
と書いているが、『ザ・ザ・コルダのフェニキア映画』では、最初の秘書が爆死して上半身だけが残り、ベニチオ・デルトロは何度もあの世で裁判を受ける。『グランド・ブタペスト・ホテル』では、ファニーな死体のティルダ・スウィントンが写真で映っていたが、死ぬ瞬間およびその死体が映るのは、ウェス・アンダーソン作品では初めてではないか。「ウェス・アンダーソンらしからぬ」ものの萌芽が見て取れる。
買ったもの
『Interview』 MAY 1991
表紙一面を覆う花柄のインパクト大。すでにファビアン・バロンは離れているが、デザイン性は十分高い。
『MEMORIA メモリア』Blu-ray
アムステルダムでティルダ・スウィントン展を見てくる。万万が一、彼女にサインをもらえるかもしれないので、購入して一緒に渡蘭。
『言語が消滅する前に』
11月に開催される国分功一郎、千葉雅也のトークに備えて購入。
『日本映画のために』
シネマヴェーラ渋谷にてサイン本を購入。9:30に着いた段階で、すでに5名ほど並んでいた。

