【母のこと|ep49】その“ありがとう”は、私のものじゃなかった
前回の話
叔父の家をあとにし、
家で待つ子どもたちに
お土産を買うため、横浜中華街へ
立ち寄ることにしました。
時刻は17時。
帰宅までの時間を考え、
「食べ歩きをしながらお土産を買おう」と、母にも確認してから向かったはずでした。
けれど、到着するなり母は不満を漏らします。
「ちゃんとしたお店で食べないなら、私はいらない。食べられるものは肉まんくらいしかないわ」
そして、ぽつりと続けました。
「お父さんが生きてるときは、こういうところでもちゃんとしたコース料理を食べてたのに」
文句を言いながらついてくる母。
せっかくの食べ歩きも、味がわからないほど気分が沈んでいきました。
私は少し離れて、夫の隣に並びました。
「休みを取ってくれてありがとう。
あなたがいてくれなかったら、
今日はきっと乗り越えられなかった。感謝してるよ」
小さな声でそう伝えると、
夫は「気にしなくていいよ」とだけ
返しました。
後ろでは、母の不満が途切れることはありませんでした。
結局、私たちは早々に切り上げて、高速道路に乗りました。
母は、叔父の家での自分の振る舞いに満足しているのか、
車内では一転して、意気揚々と
自分語りを始めます。
もう、誰も相槌を打たなくなっていました。
淀んだ空気の中、
休みなしで運転してくれる夫に
声をかけ続けながら、
23時半、ようやく自宅に到着しました。
……疲れた。
ようやく終わった。
そう思いながら車から降りようとした、そのとき。
背後で、母が夫に向かって話し始めました。
「夫くん、本当にありがとうね。お疲れ様。
最初、softlyが連れて行くって言ったとき、どうなることかと思ったんだわ。
もう、不安で不安で。
だから行きたくなったんだわ。
夫くんが来てくれたから安心できた。
行けたのは全部、夫くんのおかげだわ。
バイト代、もう少しあげなきゃね」
その言葉を背中に浴びながら、
私は逃げるように車を降りました。
このときの気持ちを、うまく言葉にすることができません。
ただ、
一秒でも早く、その場から離れたかった。
家に入り、
「ただいま。お土産、買ってきたよ」
と子どもたちに声をかけて、
洗面所へ向かいました。
クレンジングを手に取った瞬間、
手が、指先が、小刻みに震えていることに気づきます。
足にも、力が入りません。
そこへ、娘がやってきました。
「どうだった?」
「うん……疲れたね」
そう答えた途端、
抑えていたものが、崩れそうになりました。
見られないように、
慌てて顔をすすぎます。
そのまま、水に顔をつけたまま、
声を押し殺して泣いていました。
けれど、娘は気づいていました。
背中に、そっと重みがかかります。
振り向くこともできないまま、
娘は私の背中に顔を押しつけて、
泣きながら抱きしめてきました。
「……ほんと、あのババア……むかつく」
震えた声が、背中越しに伝わってきます。
様子がおかしいと気づいた息子もやってきて、
二人で、私を包み込むように抱きしめます。

……悲しかった。
夫がいなければ、
叔母のところへは行けなかった。
彼に感謝している気持ちは本心だ。
母の言っていることも、
間違いではないのかもしれない。
それでも。
どうして。
たった一言でいいのに。
「ありがとう」
どうして、
その言葉を、私には向けてくれないの。
お母さん。
なんで。
夜の静かな洗面所で、
私の心は、音を立てて崩れていきました。
その夜、私は初めて、
自分の中にある“限界”をはっきりと感じました。
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