言語化で振り返る:ご飯に合う、酒に合う。—味覚の「緊張と解決」「共鳴と増幅」
先日、山下静希さんの「唐揚げ一筋四千年」という記事を読んませていただきました。
日本の唐揚げと、本格的な中華料理の唐揚げ「炸鶏」の違いについて書かれた記事です。
醤油やニンニクで下味をつけ、噛めば肉汁があふれる日本の唐揚げ。
一方の炸鶏は、五香粉などの香辛料を衣にまで効かせ、バリッと香ばしく揚げる。
そして山下さんは、この二つの違いを、とても面白い言葉で表現されていました。
「白いご飯のおかずには驚くほど合わない」
ところが、その直後には、
「紹興酒と恐ろしいほど相性がいい」
と続いています。
これを読んで、私は見事に引っかかりましたw
同じ鶏肉を揚げた料理なのに、なぜ片方は白米を呼び、もう片方はお酒を呼ぶのだろう。
日本の唐揚げなら、一個食べたあとに白いご飯が欲しくなります。
ところが香辛料をしっかり効かせた中華の唐揚げを想像すると、確かに白米よりも、紹興酒を一口やりたくなる気がします。(私が知っているのはダージーパイなので、そこからの想像ですが💦)
この違いは何なのでしょうか。
最初に考えたのは、鶏肉そのものでした。
たとえば胸肉は、もも肉に比べれば淡白で、脂も少ないです。
日本でも胸肉をそのまま唐揚げにすると、もも肉ほど「ジュワッ」とした感じは出にくいです。
だから、白米との相性にも肉の脂が関係しているのではないのか。
そんなところから考え始めました。
ところが、日本にはチキン南蛮があります。
胸肉に甘酢を吸わせ、タルタルソースを合わせれば、これはもう見事なまでに白米のおかずになります。
とり天だって、酢醤油やポン酢を合わせればご飯に合います。
どうやら、
胸肉だから、ご飯に合わない。
ではなさそうです。
むしろ胸肉は、淡白だからこそ、
上に何を載せるかによって、いかようにも育てられる食材
なのかもしれません。
では、日本料理は胸肉の上に何を載せ、中華料理は何を載せたのでしょうか。
そんなことを考えているうちに、問いそのものが少し変わってきました。
そもそも私たちが言う、
「ご飯に合う」とは、何なのでしょう。
私は梅干しと白いご飯が好きです。
梅干しだけを口に入れれば、
酸っぱい。
しょっぱい。
かなり強い味です。
そこへ白米を口に入れます。
すると、強かった酸味と塩味がほどけていきます。
その向こうから、ご飯のほんのりとした甘さが出てきます。
梅干しを食べたからこそ、白米が甘い。
白米を食べたからこそ、もう一度梅干しへ戻りたくなる。
この往復そのものがおいしい。
考えてみれば、似た料理はたくさんあります。
塩鮭。
漬物。
きんぴらごぼう。
焼肉。
唐揚げ。
どれも、ご飯と一緒に食べることによって、単体とは少し違ったおいしさになります。
白米は、ただ味を薄めているだけではありません。
白米自身も、ちゃんと味を持っています。
噛んでいるうちに感じる、穏やかな甘さ。
だからこれは、
「強い味+無味のもの」
という関係ではなく、
二つの味が組み合わさることで、別のおいしさが生まれる。
ワインでいうマリアージュに近いのかもしれません。
以前、料理と音楽は少し似ているのではないか、と考えたことがあります。
たとえば、きんぴらごぼう。
ごぼうがベース。
醤油がミドルノート。
ごま油がトップノート。
違う音域を担当する食材や調味料が重なって、一つの料理になる。
では、そこに白米を加えたとき、白米は何をしているのでしょうか。
そこで思い浮かんだのが、音楽の「トニック」です。
トニックとは、その曲が帰ってくる場所。
緊張感のある響きが続いても、そこへ戻ると落ち着く。
もちろん、料理と音楽が同じ原理で動いているわけではありません。
でも、
梅干し。
白米。
焼肉。
白米。
きんぴら。
白米。
という食卓の往復には、
どこか、
緊張して、解決する。
という感覚があります。
白米は単体でも完成しています。
炊きたてなら、それだけでも十分おいしいです。
けれど梅干しのあとに食べる白米は、何も食べずに口にした白米とは、少し違って感じます。
おかずが白米をおいしくし、
白米がおかずをおいしくする。
白米は、
味覚が帰ってくる場所
なのかもしれません。
卵かけご飯も面白いです。
生卵だけを飲んでも、あまり料理らしくはなりません。
醤油だけを舐めても、おいしくないです。
ところが、
生卵+醤油+白米
になると、突然ひとつの料理になります。
米粒の食感が生卵を受け止め、
醤油が塩味とうま味を加え、
ご飯の甘さが全体をまとめる。
鮨飯も似ています。
酢。
塩。
砂糖。
よく考えると、
梅干し+白米
とかなり近い味の構造をしています。
酸味と塩味を白米の甘さが受け止める。
違うのは、梅干しでは口の中で出会うものを、鮨飯では最初から米の中で出会わせていることです
さらに不思議なのがお餅です。
普通の白飯に砂糖醤油をかける、という食べ方はあまり聞きません。
ところがお餅なら、
砂糖醤油。
あんこ。
きな粉と砂糖。
甘いものとの相性が急によくなります。
おはぎもそうです。
普通のうるち米だけを炊いて、そこへあんこを載せても、どこか違います。
もち米が少し入ると、途端に「おはぎ」になります。
もち米には粘りがあります。
その粘りによって、米とあんこが別々に存在するのではなく、ひとつの食感としてつながります。
もしかすると、
粘りには、甘さを受け止める力がある
のかもしれません。
白米は、おかずとの間を行ったり来たりするのが得意。
もち米は、他の味を抱え込んで一体になるのが得意。
同じ米でも、どうやら得意な「合わせ方」が違うようです。
では、ここらへんで、最初の中華の唐揚げと紹興酒へ戻りましょう。
香辛料をしっかり効かせた唐揚げは、それだけですでにかなり完成しています。
肉のうま味。
油。
塩味。
衣の香ばしさ。
そして複雑な香辛料。
そこへ紹興酒を合わせます。
紹興酒もまた、それ単体で複雑な味と香りを持っています。
完成したものに、完成したものを合わせる。
ならば喧嘩しそうなものなのに、なぜか合う。
ここでは、白米とは別の現象が起きているのではないでしょうか。
揚げ物の香ばしい匂い。
香辛料の華やかな香り。
紹興酒の熟成した複雑な香り。
それぞれが消し合うのではなく、
似た方向の香りが重なり、さらに大きく聞こえてくる。
音楽で言えば、緊張からトニックへ帰るのではありません。
別の楽器が同じコードに加わって、響きが厚くなっていく。
こちらは、
緊張と解決
というより、
共鳴と増幅
なのだと思います。
そう考えると、
「ご飯に合う」
と、
「お酒に合う」
は、同じ「合う」という言葉を使っていても、少し違う現象なのかもしれません。
ご飯との相性は、
緊張と解決。
強い味のおかずを食べる。
白米へ戻る。
またおかずへ行く。
その往復が、一つの食事を作る。
一方、お酒との相性は、
共鳴と増幅。
料理が持っている香りと、
お酒が持っている香りが重なる。
完成した二つが出会うことで、
それぞれ単独ではなかった響きが生まれます。
もちろん、実際の食事はそんなに単純ではありません。
ご飯とおかずにも共鳴はあるだろうし、
お酒が脂っこさを受け止めてくれることもあります。
けれど、
緊張と解決。
共鳴と増幅。
という二つの見方を持ってみると、
「なぜこれはご飯が欲しくなり、これは酒が欲しくなるのか」
という、これまで感覚でしかなかったものが、少しだけ見えるようになった気がします。
そして、山下さんの記事へ戻ります。
なぜ日本の唐揚げは白米を呼び、
香辛料を効かせた中華の唐揚げは紹興酒を呼ぶのか。
もしかすると、料理の完成度の違いではありません。
曲の作り方が違うのです。
日本の唐揚げは、白米へ帰るところまで含めて、一つのフレーズを作る。
中華の唐揚げは、
それ自体で一つの曲を鳴らし、
紹興酒という別の曲が重なったときに、
もっと大きな響きを作る。
料理にも、コード進行があるのかもしれません。
そして私たちは毎日の食卓で、知らないうちに、その響きを選んでいるのかもしれません。
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