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吉原 — 消えた遊郭の記録 vo.1 江戸に作られた“夜の街”

1617年(元和3年)、江戸幕府公認の遊郭として吉原は誕生した。

当初は、現在の日本橋人形町付近に存在していた(新吉原の誕生で元吉原と呼ばれる)

しかし、1657年(明暦3年)の明暦の大火によって浅草の日本堤(現在の台東区千束)へと移転する。

明暦の大火(めいれきのたいか)は、江戸の大半を焼いた大火災

以後、「新吉原」と呼ばれるようになる。幕府は移転の際、新吉原の商売を保護するため、江戸市中で私娼(湯女)を抱えていた風呂屋を200軒取り潰す。これにより、公認遊郭としての独占的な地位が強化された。

元吉原で禁止されていた夜の営業が許可され、夜通し遊ぶスタイルが定着する

吉原は、単なる遊郭ではなかった。歌舞伎、浮世絵、文学。江戸文化の中心地でもあった。

大名や豪商らの社交場としての役割も担っていた

華やかな裏にある遊女の実態

江戸時代の吉原遊廓の最高位である「花魁(おいらん)」たちは豪華絢爛な衣装を纏い、庶民のファッションリーダーとして脚光を浴びていた。

花魁は「家一軒分」とも言われる豪華な衣装とかんざしを身につけていた

しかし、その華やかな虚像の裏側には、人身売買、過酷な労働、そして経済的な搾取に苦しむ遊女たちの凄惨な実像があった。

多くの遊女は、農村の口減らしや親の借金のカタとして、売買されていた

高級遊女になればなるほど、自身の豪華な装身具や化粧品、さらには妹分(禿や新造)の養育費や光熱費までもがすべて自己負担であり、正月や節句などの特別行事(紋日)は、遊女にとっては過酷な搾取の場だった。
そして、客がつかない場合は揚代を遊女自身が負担して店に納めるシステムだったため、行事のたびに借金が増える仕組みとなっていた。

多くの遊女にとって自由への道は極めて険しいものだった

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