吉原 — 消えた遊郭の記録 vo.2 “生きては苦界”と呼ばれた街
遊郭は「生きては苦界」と称された通り、日常の生活環境も極めて劣悪だった。
遊郭の過酷な環境
華やかな街の裏で、多くの遊女たちは狭い共同部屋で暮らしていた。常に店側や役職者によって監視されており、「仕置き(暴力的な制裁)」は必要不可欠なものと考えられていた。

また、郭の周囲には幅5メートル以上の「お歯黒どぶ」と呼ばれる堀と塀が巡らされており、唯一の出口である大門も厳重に監視され、逃げ出すことはほぼ不可能だった。

非業の死と「投げ込み寺」
劣悪な食事(栄養失調)に加え、不衛生な集団生活により健康状態は常に悪く、多くの遊女が性病などの感染症に罹患していた。
そして、過酷な労働と病気により、遊女たちの多くは若くして命を落とした。平均寿命は22歳程度だったとも言われている。

身寄りのない遊女や、掟を破った遊女の遺骸は、人間として葬られることなく、荒菰(あらごも)に包まれて浄閑寺などの寺へ投げ込まれるようにして運ばれ、埋葬された。
現在、そこにある総霊塔には「生きては苦界、死しては浄閑寺」という哀しい言葉が刻まれている。

吉原の終焉
明治維新後の1872年(明治5年)に「芸娼妓解放令」が出され、吉原では3,000人以上の遊女が一気に解放された。
だが、行くあてのない遊女たちの多くは、「本人の自由な意思である」という建前のもと、再び吉原に売り戻され、以前と変わらず売春を続けざるを得ない状況に置かれた。

その後、1923年の関東大震災や1945年の東京大空襲などの悲劇を経て、1958年(昭和33年)の売春防止法施行により、その歴史に幕を閉じた。

<了>
