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研究授業で「自分ならこうする」と思った瞬間、学びは止まっている—教師の専門性はどこにあるのか—

研究授業で、「自分ならこうする」と思ったことはありませんか。

授業を見ながら、
「この発問は弱いな」
「自分なら板書はこうする」
「もっと良い資料がある」

そんなふうに、頭の中で“改善案”を並べ、協議会で授業者にぶつける。
調子がいいときは、講師の指導講評タイムで「先ほどの先生が述べられていたようにね…」なんて取り上げてもらって、「ほらね!」と思う。
…自分は…経験、あります…。

けれど、いろいろと研究授業を参観したり、さまざまな先生方のお話を聞く中で、「授業改善の視点で見る」ことは、研究授業の味わい方ではないと考えるようになりました。

本当に見るべきものは、手立てではない。教師の専門性は、もっと別の場所に表れている。

そのように考えるようになってから、研究授業の景色は一変しました。

指導案から読むべきは、「手立て」ではなく「意図」


研究授業と普段の授業との違いは、手元に指導案があることです。

私たちは指導案を読むとき、発問の順番や活動の流れに目を向けがちです。

でも、本当に読むべきなのは、
その奥にある「意図」や「願い」なのではないかと思います。

この授業で、子どもに何を考えてほしかったのか。どんな姿を見たいと願っていたのか。そこが見えてくると、手立ては単なる技術ではなくなります。

「この子たちだから、この問いを置いた」

そんな授業者のまなざしが、浮かび上がってきます。そして、それを支えているのは、日々の中で積み重ねてきた、子どもの見取りです。

見るべきは、授業者の「修正Plan」

そして、研究授業で私が注目したいのは、
教師が授業中に何を見て、それをどう解釈し、どうプランを修正したかです。よく、「授業はナマ物」と言われます。同じ指導案でも、同じようには進みません。同じ発問でも、予想通りの反応は返ってきません。なぜなら、目の前にいる子どもが違うからです。

子どものつぶやき。
予想外の反応。
沈黙。

そのとき、授業者は何を見たのか。そしてなぜ、何時間もかけて練ったプランを変えてまで、別の関わりを選んだのか。そこには、必ず理由があります。

「今、この言葉を拾うべきだ」
「ここで立ち止まる価値がある」

そんな判断が、その場で生まれています。そこにこそ、教師の専門性があるのだと思います。

即興的な判断は、研究授業でしか学べない


また、手立ては本でも学べます。ネットにも優れた実践はたくさんあります。指導案も読むことができます。

でも、教師の即興的な判断は、授業を見なければ学べません。

子どものどの姿を見て、何を感じ、どう関わったのか。それは、その瞬間にしか存在しません。研究授業の価値は、そこにこそあるのだと思います。

研究授業というと、多くの場合、

・どんな発問をしたか
・どんな教材を使ったか
・どんな手立てを講じたか

といった、「方法」に目が向きます。もちろん、それらは大切です。しかし、それだけを見ていると、決定的に見落としてしまうものがあります。

それは、教師が、その瞬間に何を見て、何を感じ、どう判断したのかです。本当に価値のある瞬間は、指導案どおりに進んでいるときではありません。

むしろ、
予定していなかった子どものつぶやき
想定していなかった沈黙
予想外のズレ

そうした「予定外」の場面にこそ、現れます。そのとき、教師は試されます。

流すのか。
拾うのか。
深めるのか。
待つのか。
問い返すのか。

その判断に、マニュアルはありません。それは、その教師が、その子どもを見て、その場で生み出したものです。この瞬間こそ、授業で見るべきポイントの一つではないでしょうか。

「一瞬の閃き」という専門性


そこで、研究授業への参加の仕方として提案したいのは、研究授業を、教師のその場での判断や子どもの見取り、その先生にしかできない「一瞬の閃き」を共に深める場として捉えてみる、ということです。

「閃き」というと、偶然生まれるもののように聞こえるかもしれません。けれど、決して偶然ではありません。「閃き」がなぜ起こるのかを調べてみると、「脳内に蓄えられた膨大な記憶の断片(知識・経験)が無意識下で新しい組み合わせで結びつく現象」だそうです。つまり、教師でいえば、

教材研究の蓄積と、
子ども理解の積み重ねと、
日々の実践の試行錯誤…

そして、目の前の子どもを本気で見ようとする姿勢とが、交差したときに生まるといえるでしょう。

だからこそ、

同じ場面でも、閃ける教師と、閃けない教師がいます。その違いは、準備の量ではなく、その「授業者の先生の全て」なのだと思います。
(だからこそ、本を読むし、他の先生と交流もするし、反省もする…って思っています。)

「自分ならこうする」と思った瞬間に失っていたもの


以前の私は、研究授業を見ながら、ずっと「自分ならこうする」と考えていました。協議会で、何を言うかを考えていましたし、それこそが、主体的に学んでいる証拠だと思っていました。良いところと改善点を3つずつ見つけることをノルマにしていました。けれど、今は違います。「自分ならこうする」と思った瞬間、私は、その教師の閃きを見ようとしていませんでした。

授業者が、

なぜ、その瞬間に、その言葉を選んだのか。
なぜ、その沈黙を待ったのか。
なぜ、その子どもを指名したのか。

そこにこそ、学ぶべきものがあった。私は、「評価する側」に立ってしまっていました。評価しようとした時点で、学ぼうとする謙虚さを欠いていたと思います。授業者へのリスペクトが足りていませんでした。

研究授業は「手立て」を持ち帰る場ではない


研究授業で持ち帰るべきものは、教師が、子どもと向き合った、その瞬間の“思考”です。そして、その思考を生み出した「見取り」です。さらに言えば、その見取りを可能にしている「まなざし」です。経験を積むと、授業はある程度、形になります。大きく崩れることはなくなります。けれどその一方で、「閃き」は減っていきます。なぜなら、予測できるようになるからです。流せるようになるからです。崩さなくても、進められるからです。

けれど、本当に子どもと向き合う授業は、予定どおりには進みません。

だからこそ、研究授業という場で、教師の「一瞬の閃き」に立ち会うことは、自分の授業を問い直す機会になります。研究授業の見方が変わると、学びはいっそう深くなります。

「一瞬の閃き」を共有する文化へ


教師の専門性は、立派な理論の中だけにあるのではありません。完成された指導案の中だけにあるのでもありません。それは、子どもと向き合った、ほんの一瞬の中にあります。

その瞬間に、

何を見て、
何を感じ、
何を選ぶのか。

その積み重ねこそが、授業をつくり、教師をつくっていくのだと思います。研究授業とは、方法を学ぶ場ではなく、「一瞬の閃き」に立ち会う場、そして、その閃きを見ようとしたとき、私たちの授業を見る目も、きっと変わり始めます。


最後に


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。2月は研究授業公開が全国で行われる時期です。最後に余談ですが、2月20日(金)、21日(土)にお茶の水大学附属小学校で「教育実際指導研究会」があります。研究授業から学ぶチャンスだと思っています!私が注目しているのは、4年生の国語の授業です。以前、横浜の学校で、その先生の授業を参観させていただいたことがあったのですが、とにかくすごかった。材選定、授業デザイン、子どもとのかかわり、学ぶことがとても多かったのを覚えています。
この記事を読んでくださった方と、どこかで「実は同じ教室にいた」なんてことがあったらうれしいです。

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