連載小説「アイは夢に揺らぐ〜1,528,009回の検証記録〜」第1章「夢見る知性体」第2話
ザ…ザザ……
「無視はひどいな」
僕が呟く。
「まぁまぁ。きっと虫の居所が悪いんですよ」
困ったような笑顔を浮かべた女性が言う。
「ところで…この後って、空いてます?」
少し上目遣いになり、女性が小さく尋ねてくる。
『エラーを発見しました。修正します』
ザザ………
『修正完了。問題のフィードバックを送信します』
―――――――――――――ーーー
***
ピピピッ
「………?」
泥のような闇の中から手を伸ばす間隔。
覚醒の手前には、越えなければならない大きな壁が存在する。
まとわりつく泥を払い除けながら、一筋の光を求めたくないのに求めなければならない。
無遠慮に睡眠を阻害するデジタル時計に、手をかける。
『覚醒に32秒かかりました。夕方の軽い運動と、就寝前の温かいミルクを提案します』
脳内に響く無機質な音声に、少しだけ抗議したくなる気持ちが芽生えたが、とりあえず身体を起こしてカーテンへと向かうことにした。
小気味良いスライド音を立てながら、カーテンが開く。
優しい日差しが、寝起きの身体に染み込んでいく。
「今日もユグドラシルは、そこにある」
遠くにユグドラシルの大樹が、悠然と佇んでいる。
少し視界がぼやけている気がする。
視力の調整が必要かもしれない。
『本日、晴れ。降雨なし。予定、9時始業。視力の調整のため、ユグドラシルに接続』
思っただけで、完全人工知能が視力の調整を行いだした。
『ユグドラシルを見てください。自分の指を見てください。時計を見てください。調整完了しました』
指示されるまま、あちらこちらに視線を転々とさせると、いつの間にかぼやけた視界がクリアになっていた。
さて、ご機嫌な朝食を用意する時間だ。
***
「レムさん、こちらの資料を。午後3時までの作業です」
切れ長の目を持つ、色白のスーツの女性。
僕の机に、数十枚からなる冊子が置かれる。
一枚めくると、様々なデータがグラフとなっており、その横に複雑な計算式が書かれていた。
「分かりました」
僕が答えると、女性ーーアハトさんは背を向けて去っていった。
別の同僚に、別の資料を渡しているのが見えた。
僕は、視線を机に戻して、計算式を精査しはじめた。
ただ、極稀にあるエラーを発見し、修正する。
これが僕に与えられた仕事だった。
何のための仕事なのかは、分からなかった。
僕は、この仕事を5年続けている。
苦痛は、感じたことがない。
完全人工知能による感情抑制機能によって、極限の集中力を発揮していた。
この仕事場では、作業中、誰も声を発さない。
発する必要などない。
ペラペラと紙をめくり続ける音だけが、この場を支配していた。
チャリリリリリッ
そうして、気が付くと陽が傾きかけており、終業のチャイムが鳴る。
そこで集中が途切れ、自分の瞳が乾いて、痛みを感じていることに気付く。
だけど、痛みはすぐに完全人工知能によってかき消され、
『点眼を開始して下さい』
などと脳内で指示される。
皆が一斉に点眼薬を差す様は、どこか違和感を感じるのだが、やはりその違和感はコーヒーのクレマのように、かき混ぜるだけで消えていく。
そして、同僚達は、無言のままそれぞれの帰途につく。
僕は、皆がぞろぞろと部屋から出て行くのを見送った。
「戸締まり、お願いします」
アハトさんが振り返り、言う。
「分かりました」
僕は、頷きながら答えた。
一人残された室内は、西日の揺らぎによってひどく寒々しく静寂が響いた。
今日は寝る前に、温かいミルクを飲もう。
***
ザザ…………ザザ…………
「帰らないんですか?」
皆が出ていった後、残っていたアハトさんが言う。
「うん、あまり疲れた気がしなくて。買い物でも行こうかな」
西日差す薄暗い無機質な部屋で、僕は答える。
「それなら、飲みに付き合ってくださいよ」
アハトさんが、いたずらっぽく笑いながら距離を詰めてくる。
「飲み?」
飲みとは何だろう。
ミネラルウォーター?
お茶?
それともスポーツドリンクだろうか。
「レムさんのこと、少し知りたいなって思ってたんです」
彼女の距離が近い。
甘い、嗅いだことがないような匂いが漂う。
それは、脳髄に響く鐘の音のように、僕の思考を蕩けさせる。
身体を巡る血潮が、熱を帯びていく。
彼女の顔が紅潮しているのは、西日のせいだろうか。
ザザ…………ザザ………
『深刻なエラーが発生しました。再起動を試みます』
音は遠くなる。
意識は、暗い海の底に沈みゆく。
白い闇の中で、ミルクが効いたのだろうか、と僕は思った。
次話→
まとめ
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