【認知工学的創作論】創作者向けOSプロトコル⑫『客観視スキル』再帰監査編
ついに最終回となる「再帰監査編」です。
まさか創作大賞期間を丸々跨いで、連載することになろうとは……😅
お付き合い下さった皆様、本当にありがとうございます。
「客観視できている」とは何か?
ここを真面目に考えると、無間地獄の入り口みたいで面白いです。
認知の原器を担いで、内的訓練を積んで、AIと評価関数を設計して自作を分析する人に、待ち受けてるのが次の罠。
なぜなら、ここまでの道具は「客観視している自分」そのものを監査する機能を持っていないからです。
「客観視できている」という自認の罠
「みんな感情で動いてるからダメなんだよね」
「自分のバイアスに気づいていない人が多い」
「メタ認知できない層にはどうせ伝わらない」
……こんな考え方をした経験、ありませんか?
僕はあります😇
これ、よく見てみると全部「気づいていない他人」を語っています。
そして「他人」を語り始めた時点で、「自分」が監査対象から外れている。
客観視は、本来自分に向けるものです。
ところが、どこかのタイミングで他人を裁く道具にすり替わってしまう。
「みんなわかってない」と言っている自分は、その瞬間から監査台を降りています。
ではなぜ自分を監査対象から外して、他人を裁こうとするのでしょうか?
人間には、「自分が間違っていると思いたくない」「自分のプライドや正当性を守りたい」という本能(自己防衛の心理)があります。
自分を客観視しようとすると、自分のダメな部分やバイアスと向き合わなければならず、精神的に痛みを伴います。
すると今度は、本能の「痛みから守れ!」という命令を受けて「思考領域(前頭葉など)」がフル稼働を始めます。
思考は、本能の「自分を守りたい」という目的を果たす為に、ほぼ無意識的に「正しさを主張できる、もっともらしい論理」を組み上げてしまう。
これを心理学用語では「合理化」や「正当化」と呼びます。
では、意地でも監査台にしがみついて「自分」を見つめ続けたらどうなるのか?
そこで突き当たるのが、この問題です。
PMを監査するPMは、誰なのか問題
概念解説編で、客観視を「自分の中にPMを置く能力」だと説明しました。
各工程(観察〜出力)をPMが俯瞰で監督する、という話です。
だとしたら、そのPM自身は誰が監査するんでしょうか?
素直に考えると「PMを監視する、上位のPMを置けばいいじゃん」となりますが、これをやると地獄が始まります。
PMを監視するPM
そのPMを監視するPM
さらにそれを監視するPM……
哲学でいう、無限後退(infinite regress)ってやつです。
自分の中に「監視するPM(メタ認知)」を置くのは良いですが、そのPMをさらに監視するPM……と増やしていくと、脳の処理リソースが枯渇し、ゲシュタルト崩壊(あるいは精神的フリーズ)に繋がっちゃいます💦
思考で思考を監視しようとすると、地獄の堂々巡りが始まるわけです。
そこで、全く別のツールを使ってみましょう。
キーワードは「嫌悪感」です。
嫌悪感を追跡して、自己の防衛線を炙り出す
「客観視している自分」を疑う為の、最も実践的な手法は嫌悪感の利用です
なぜ「思考」ではなく、嫌悪感という「感情」から入るのか?
自分の防衛を思考で追いかけても、なかなか見つかりません。
当たり前なんですよ。
だって、その思考が自分自身を防衛しているわけですから。
「自分は論理的に正しい」と思考している当人が、その歪みを思考で見つけるのは不可能です。
なぜなら、前段で説明した通り監査役であるはずの「思考」が、裏では「本能」に買収されて隠蔽工作(正当化)の片棒を担いでいるからです。
そして、いざ客観視が必要な場面で初めて思考を回しても、既に買収済みであり手遅れの状態になっています。
だから、自分の思考をどれだけ真面目に巡らせても、「いや、私は客観的で正しいですよ」という結論にしかなりません。
ところが、感情はその制御下から外れています。
特に「嫌悪」は、自分でコントロールし難い。
「なんか嫌だ」という反応は、思考より先に立ち上がるので、防衛が作動する前の生データとして活用できます。
内的訓練編にて、認知の原器という話をしました。
「気持ちいい/気持ち悪い」で判定する装置でしたよね。
この「気持ち悪い=嫌悪」を追跡することで、原器が反応している境界線が、鮮明に見えてくるわけです。
嫌悪という感情は、ネガティブなものとして扱われがちです。
でも機能として見ると、超優秀なセンサーになります。
人間は「好き」よりも「嫌い」の方が具体的に言語化しやすい。
例えば「誠実さが好き」は、抽象的な印象論です。
どこからどこまでが誠実なのか、輪郭が曖昧。
でも「他者を騙して平気な価値観が嫌い」だと、突然具体性が増します。
自分の価値観を知りたいときは、「好き」より「嫌い」を見つめた方が精度が高くなります。
よく「怒りや嫌悪感を持たない広い心を持ちましょう」といった綺麗事を聞きます。
ですが脳の構造上、湧き上がる嫌悪感を消すことは絶対に不可能です。
どうせ消せない機構なら、アラートとして有効活用しちゃいましょう。
嫌悪感自体はあなたが人間である以上、正常な防衛反応です。
それを「汚いもの」として排除するのではなく、「お、極上の生データが手に入ったぞ。ちょっと自分の深層心理を覗いてみるか」と、ツール化して楽しんだ方がお得です。
ツールとして使い慣れてくると、嫌悪という感情に自分自身が振り回されなくなりますよ。
AIを「嫌悪感情の掘削機」として使う
では、どうやって嫌悪を追跡するのか。
ここで、外部装置編の応用が効いてきます。
AIを「掘削機」として使いましょう。
ポイントは、AIを「批評家」にしないこと。
批評家AIは「それは偏見ですよ」とか「一般的には〜」とか言い始めて、掘削が止まります。
だからプロンプトでAIを縛って、機械的に「なぜ?」を繰り返す掘削機として固定します。
具体的には、最初にこういうプロンプトを投げます。
これから、私の嫌悪の構造を掘削したい。
共感・支持・反対・評価は一切しないでください。
「なぜそう思うのか」「その理由は何か」「それが嫌なのはなぜか」だけを繰り返し、私の境界線を言語化することに徹してください。
議論ではなく、構造の発掘が目的です。
これは認知行動療法で使われる「下方矢印法(アロー・テクニック)」の機能特化版です。
本質的なロジック(思考を掘り下げて核心に迫る)は同じですが、「対象(インプット)」と「目的(アウトプット)」を絞り込んでいます。
下方矢印法は通常「不安/落ち込み/恐怖」といった、自分を苦しめるネガティブな自動思考を和らげる為に使います。
そして目的は、掘り当てた信念を「本当にそうかな?」と疑い、生きづらさを解消するために「書き換える(修正する)」ことになります。
一方で嫌悪感情の掘削は、自分が何に怒りを感じるかを探ることで、自分の中の「譲れない境界線(アイデンティティや美学)」を認識することに特化しています。
目的も、掘り当てた境界線を「これが私の価値観だ」と認識し自己理解を深めるという、より創作領域に特化したものです。
掘削の停止条件
ただし掘り続けると、これも無限ループになるので停止条件を設けます。
停止条件は以下の2つ。
循環検知
同じ理由がループし始めたら終了
例:不公平だから→なぜ?→納得いかないから→なぜ?→不公平だから…と回り始めたら止める感情飽和
イライラしたり、ムキになったり、自己正当化が始まったら終了
大事なのは、正解を出すことが目的じゃないということです。
「この辺に、自分が守りたい何かがあるな」という痕跡だけ持ち帰れれば、それで大成功👍
完璧な答えを出そうとすると、「正解探し」の谷に落ちます。
自分を掘るという感覚を養うゲーム、くらいの気楽さでちょうどいいです。
遊びなので「ダメだと思ったら終了」です。
病理としての客観視
僕の作品に『ECHO-PROT:反響の檻』というホラー小説があります。
ネタバレになるので詳細は伏せますが、理解が浅いままにメタ認知という概念に取り込まれてしまった人間はどうなるのか?を描いた作品です。
主人公は、ある時点から「自分は完全に客観視できている」と確信します。
他人の内面も、完璧に読み取れると思い込む。
そして周囲の人間が見せる拒絶や恐怖の反応すら、自分への好意的な証拠として解釈し始めてしまう。
これ、認知構造的には「客観視できている」という自認が思考停止を誘発していて、無意識的な防衛反応から生まれた歪んだ解釈を、論理的な判断だと誤認している状態です。
「そのロジック、他人に説明して理解してもらえると思う?」という問いが完全に消えている。
自分の解釈が正しいことを一切疑っていない。
「客観視の罠」が極限まで進行すると、こうなってしまう。
これは創作ですが、認知構造としては実在する病理だと思っています。
そんな怖さを描いた作品です。
客観視に「到達点」はない
今回の記事の手法をまとめると以下になります。
人間は本能が思考をハックして正当化してしまう
↓
ハックされた思考でメタ認知を語ると盲目化する
↓
嫌悪は防衛が作動する前の生データとして使える
↓
それをアラート兼掘削対象にして、自分の防衛意識や価値観の境界認識を日頃から深めておく
客観視スキルとは運用し続ける動的な能力であり、停止条件と再帰監査を組み込んだ装置です。
シリーズ全体をまとめると以下になります。
内的訓練:自分の文章を監査する技術
外部装置:AIと評価関数を共同設計し、評価装置として使う
再帰監査:客観視している自分自身を疑う
この三層が揃って、ようやく客観視スキルは回り始めます。
そして「自分は客観視できている」と思った瞬間が、一番危ない。
だから、客観視は「できるようになること」がゴールじゃないんです。
むしろ逆で、客観視を鍛えるとは「自分を信用しない姿勢」を、自分の中で一生をかけて飼い慣らすことです。
「できた」と思わないこと。
「自分はまだ何か見落としているかもしれない」と疑うこと。
「認知的に不安定な状態」を自覚的に運用すること。
それが客観視スキルだと、僕は考えています。
とはいえ、これを「24時間365日、完璧にやらなきゃいけないタスク」と捉えると間違いなく病んじゃうので、「偶に起動するセキュリティソフト」くらいに考えておきましょう。
日常生活では「自分が正しい」と思って生きていていいんです。
そうじゃないと社会生活が送れません(笑)
でも「何かに猛烈にイライラした時」といった、感情が激しく動いた瞬間だけ、このセキュリティソフトを起動してAIと一緒に掘削してみてください。
「一生かけて飼い慣らす」とは、常に自分を疑い続けることではなく、忘れた頃にやってくるバイアス塗れの主観を、「はいはい、また始まったね」と愛でるような、終わりのない作業と考えると運用が楽になるはずです。
さいごに
長い長いシリーズに、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
『書くことは考えること(Writing Is Thinking)』
こんな言葉があります。
多くの思想家・作家が、それぞれの言葉で繰り返し表現してきた理念です。
ところが、その「考え方」を正面に据えた創作論が見当たりませんでした。
ちゃんと残しといてよ……というのが正直な感想ですが、見当たらない以上は自分で書くしかないな、というのが今回の執筆動機に繋がりました。
AI(LLM)という「進化する平均化装置」の登場により、創作の世界は大きく変わりました。
今後、膨大なデータから「美しい中央値」を出力するAIに対抗するには、人間固有の歪みや執着性が最大の武器になるでしょう。
本創作論は「綺麗に書く」ことを目的にしていません。
「世界をどれだけ独自の視点で切り取れるか?」を主軸にしたものです。
あなた独自の視点による世界の切り取りは、AIには出せない歪みや執着に繋がります。
AI登場後の世の中で、本作が少しでも皆さんのお役に立てればと思います。
そして、ここまで読んで下さった方は、もう十分過ぎるほど「考える人」になっているはずです。
それでは、また別の記事でお会いしましょう。
