読書は何かのためにするものではないが、結果的に何かのためになるかもしれない。
更新日:2026/06/09
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(〆野の自己紹介はこちらから見られます。)
読書は何かのためにするものではないが……
読書は何のためにするのか?
上のつぶやきの記事でも話題にしましたが、子どもの読書離れが進んでいるようです。もちろん、この調査結果を「読書離れが進んでいる」と断じるのはやや問題があります。この辺の話は、上の記事のコメント欄で古澤先生がご指摘されている通りです。しかし、元の新聞社の記事は「読書離れが進んでいる」ことを報じる目的のものであることは明らかであるため、一旦「進んでいる」と仮定します。
さて、元の記事は、「読書離れ」を好ましい状況ではないことを前提として「それが進んでいること」に問題性を感じ、またそこに報道価値があると考えたからこそ記事にしているわけです。しかし、根本的に「読書離れ」の何が悪いのでしょうか。「そんなの当たり前じゃないか。本を読まなかったら賢くならないじゃないか。」と多くの人は言うかもしれません。しかし、本を読んだら本当に賢くなるのでしょうか。
たしかに、もしかりに面前でこの問いを中高生から投げかけられたら、私は「読書しなければ学力がつかない」などのようなことを立場上言うと思います。この場合、「読書は学力をつけるためのもの」とこれを言い換えることができるでしょう。しかし、それが読書の本来の目的なのかと改めて問われるとそれが最終回答とは断言できません。
本を読まない子に本を読ませるのには「本を読む理由」が必要だと、説得する側の大人も説得される側の子どもも考えがちです。「本を読みなさい」、「なぜ本を読まなくてはならないのか」、この議論に終止符を打つもの、それは「本を読む理由」です。そのため、説得する側はそれらしい回答を用意します。「賢くなるため」、「教養をつけるため」、「語彙力を養うため」、「読解力を身につけるため」、「全ての基礎である国語力を身につけ、全体の学力を底上げするため」、それはたしかにどれも「もっともらしい本を読む理由」となります。しかし、同時にそれは読書のある一面に過ぎず、ある理由をもって「だから本を読むべきだ」と言った時点で、読書の持つ意味が著しく矮小化するのです。
いや、一面であるかどうかも実はあやしいところがあります。先日ラジオ番組で文芸評論家の三宅香帆さんはこのようなことを言っていました。それはご自身が京都大学に入ったときのお話です。「京都大学には、本好きの私以上に多くの本を読んだ先生が数多くいた。それだけ本を多く読んでいるのだからその方々はさぞかし『人間ができている』のかと思ったら、むしろ逆で、そのほとんどの人が人格が破綻していた。」、そして(本好きの)自分も似たようなものだと加えて言っていました。笑いながらお話しされていたのでこれは明らかに冗談で言っているのですが、これは「読書は優れた人間の形成に役立つ」だろうという多くの人が無根拠に信じている「読書の効用」を逆手にとった話です。しかし、だとすると、ますます「読書は何のためにするのか」がわからなくなってきます。
また以前に上の拙記事で、私は「読書が好きでも国語のテストで点がとれない子がいる」と述べました。これは、中高生の親御さんや、また教育関係者の方にはわかっていただけることと思いますが、こういう子はある一定数います。だとしたら、「読書は国語力を高めるために必要だ」という説も全面的に認めることができない、ということになります。たしかに、読書は語彙を豊かにすることなどができるかもしれません。そういう効果がないとは言えません。しかし、読書すればそれが即座に国語の成績向上に必ずつながるとも言えないのです。
では、改めて、読書は何のためにするのでしょうか。
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