休み時間の過ごし方を実際の「現場」で調査したら真の中学生の生態が見えてきた!~『休み時間の過ごし方:地方公立中学校における文化とアイデンティティをめぐるエスノグラフィー』(團康晃)を読んで~【読書感想文】
更新日:2026/05/31
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先日記事にまとめたように東京都狛江市のシェア型書店に行きました。そこで買ったのがこの本、『休み時間の過ごし方:地方公立中学校における文化とアイデンティティをめぐるエスノグラフィー』です。本日はこの本の感想を主にまとめていきます。今日はいつもと違ってこの本を下敷きにして何かのテーマについて論ずるというよりも、純粋に「感想」を書きたいと思います。
仕事柄、教育関係の本は多く読みますが、学校の休み時間をテーマにした本というのは出会ったことがありません。その本屋のポップの紹介文に興味を惹かれてつい購入してしまいました。読みにくくはないのですがなかなか厚い本なので、読み終わるのにそれなりに時間がかかってしまいましたね。
それでは、この後から「本題」に入っていきます。
なお、本書を全解説するつもりはないですがある程度踏み込んだ内容になるので「ネタばれ」タグをつけさせてもらいます。もともとこの本に興味があって情報を何も入れずに読んでみたいという方は、ここで引き返してください。
学校の休み時間―それは大人の管理下を免れつつ制度化されている独特な自由時間
「学校の休み時間」、あなたは何をしていただろうか?今中高生や大学生などの方なら、「ついこの間のこと」としてすぐに思い出せるかもしれない。しかし、授業とか文化祭とか修学旅行とかそういうのは断片的に覚えているが、あまりに昔のこと過ぎて私は全く覚えていない。友だちと何か話していた気はするが何を話していたかは覚えていないし、遊んでいたかもしれないが何をしていたかは思い出せない。トイレに行ったりときには寝ていたりしたと言われればそうかもしれないし、次の授業の小テストのためにノートを見返していたなんてこともあったかもしれない。全く何も思い出せない。きっと思い出すほどの大したことでもない、そんな10分程度の些末な時間、それが休み時間なのだろう。
そんなほとんどの人が重要なものと考えない「休み時間」に、この本の著者團康晃氏は注目した。
本書はある地方公立中学校でのフィールドワークを通して現代の中学生の「休み時間の過ごし方」を明らかにする。
これは、実際の中学生が休み時間をどのように過ごしているかを、実際に中学校に通い、実際の教室の中でのフィールドワークを通じて行った「調査と観察の記録」である。調査(2009~2011)開始時、修士課程の大学院生だった著者は、大学院生でありながらその中学の生徒と同じタイムスケジュールで公立中学校に通った。そしてその中学生たちと同じように同じ時間に通学して、同じように席に座って授業を受け、同じように休み時間を過ごし昼食をとるなどした。その中で、著者は博士論文を書くため、中学生の休み時間の過ごし方を実地調査した。本書『休み時間の過ごし方:地方公立中学校における文化とアイデンティティをめぐるエスノグラフィー』はその記録である。
もちろんそんなことを無断で行ったらそれはただの「不審者」だ。知らない大人が教室に入ってきたらそれこそ警察沙汰だろう。したがって、それにはもちろん中学校の許可が必要だった。幸い、著者の調査や研究に理解を示した中学校の校長が見つかった。そこでその校長の許可のもと、「大学院生が『生の中学生の生活』を実地で調査する」ことが許されたというわけだ。
しかし、なぜ調査・研究テーマとして「休み時間の過ごし方」を選んだのだろうか。それは第一部の「『休み時間の過ごし方』の発見」にくわしいのだが、そこから引用するとその理由は主にこういうことである。
しかしながら、学校に通い誰かと共に過ごすこと、その中でも教師の管理下におかれない生徒たちの自由な時間において人びとが何をしているのかということは、学校に居ること、そこに通うときに経験する様々なことの意味を理解する上で重要だろう。
著者は当初「サブカルチャーグループエスノグラフィー」の展開の舞台として「学校の休み時間」を調査現場に選んだようだ。エスノグラフィーとは「対象の文化コミュニティに長期間入り込んで実際の行動や生活環境を観察・記録する調査手法」のことである。元々は文化人類学で用いられていたらしいが、今では商品開発などマーケティングの現場でも用いられるのだとか。つまり「サブカルチャーグループエスノグラフィー」とは「地下文化(サブカルチャー)の場において人がどのようにグループ化されるのかを明らかにするためにエスノグラフィーの手法をとる」ということのようである。たしかに、子どもの文化はメインの大人の文化と異なるサブカルチャーであり、そうした場において子どもは大人の目の届かない自分たち独自の遊びなどを通じて仲の良い友だち同士が固まるなどするためいくつかのグループが形成されるはずだ。著者はこの手法を途中で断念するのだが、そうした調査の場として「学校の休み時間」はうってつけであると考えたわけである。
しかし、この調査目的の確認の過程で著者は「休み時間の過ごし方を再発見」することになる。だから、この第一部のタイトルは「『休み時間の過ごし方』の発見」なのだ。
「休み時間」は「授業」に対して相対的に自由であるが、家の中であるとか誰もいないプライベートな場で過ごす「余暇」に比べると自由ではない。できることも学校の中でできることという制限があるし、できる時間も細かく制限されている。個室や個別の仕切りのない空間で、特定のメンバーが共にいながら相対的に自由な活動を組織する。それは授業とはまた異なる学校における「本番」なのかもしれない。
たしかに、著者が指摘するように、思えば「休み時間」とは不思議な時空間である。授業が終わり休み時間に入ると、生徒は束の間ではあるが大人(先生)の管理から逃れ自由になる。しかし、全くの自由とは言えない。第一、休み時間も時間割の中に組み込まれており時間も制限されている。いくら自由だからと言って家にいるように寝っ転がってくつろいだりゲームをして遊んだりなどできるはずもない。「休み」であってもあくまで「ここは学校」であり依然として「生徒である」ことから生徒は逃れられるわけではない。つまり、「休み時間」は先生の直接的な管理から逃れつつも依然として学校という制度の下にある時間なのである。その中で、休み時間の生徒たちは制度的制限を受けつつも主体的に自由を謳歌するのだと言える。
そこで著者は、「文化交流によって生まれる生徒のグループ化を確認する」のではなく、こうした「『休み時間という特殊な空白時間』を明らかにする」という調査目的にシフトしていくこととなる。
その空白時間を埋めるものは「脱法本」だった
本書は、第二部の「『休み時間の過ごし方』の探究」から「本題」に入っていく。第一部はいわば「序論」であり「本書のテーマの確認」である(でもここまでもまあまあ長い)。ここ(第二部)からは個々のエピソードについての話が複数あるため、それを全てここで挙げることはしない。したがって、ここでは私が読んでいて一番興味深かった事例・エピソードを挙げてそれについて述べたいと思う。第5章の「学校の中でケータイ小説を読むこと」をここでは取り上げたい。
まず最初に思ったことは、「(15年くらい前のことだと考えても)意外に中高生は本を読んでいるな」ということである。マスコミで「若者の活字離れ」が取りざたされて久しい。しかし、本書を読むと、実際の中学生は思うよりは本を読んでいるように思える。たぶんいつの時代もまたいつの世代も、本を読んでいる人は読んでいるし読んでいない人は読んでいないということなのだろう。好きな人は休み時間も本を読んでいるのである(もっとも今ならスマホやタブレットで読む人が多そうだが)。また、この中学校には「朝読書の時間」というのが設けられている。この時間は家から自分の好きな本(マンガはダメ)を持ってきて読んでいいのだそうだ。これはプライベート時間ではないが、自分が思うほど中高生に本を読む機会がないわけではないことがわかった。ちなみにこの「朝読書」は今ほとんどの中学校で行われているそうだが、そんな一般的なんだろうか?私が中学生の頃はなかったもので……。誰か若い世代の方、教えていただけると幸いである(笑)。
さて、この5章では休み時間に集団で黙々と読書をする一群にクローズアップをしている。
1年2組の女子生徒の中には、6人程度で本を読むものがいた。昼下がりの暖かい光が差し込む窓際の黒板の近くに机をくっつけて、黙々と本を読んでいる。誰かが何か言うわけでもなく、ただ読むだけだ。
これについて著者も「そもそも休み時間にこんなにたくさんの生徒が本を読んでいることが驚きだったし、皆で集まって「グループ」のように見えるかたちで読んでいることに驚いた」と言っている。大人が思うより中学生は日常的に本を読んでいるかもしれないと、私も驚いた。
やがて、その一群が「ケータイ小説を読むグループ」であることを著者は知るのだが、読んでいてこの「ケータイ小説」が私には少し引っかかった。この当時(2009~2011)流行っていたというのだが自分の中で全く記憶がないし、そもそもどういうものかいまいちわからない。本書の中でも結構な字数を割いて説明してくれているのだが、情報としては何となくわかるが「ああ、あれね!」とならない。たまらずネットで検索した。するとWikipediaに「ケータイ小説」の項目があった。
(Wikipedia「ケータイ小説」)
こちらを読んでいると何となく思い出してきた。私も当時「魔法のiらんど」とか使っていたからわかる。たしかにああいったプラットフォームを使って素人が書いた小説がもてはやされたムーブメントがあった。それが当時本や映画・ドラマになったのだ。で、一方で、その当時「あんなの文学じゃない」という批判もたしかにあった。ちなみに私は一冊もこの手の本を読んでいない。そのときはもう大人だったのでケータイ小説の読者ターゲット層ではなかったからだ。だから、「そんなのあったな」と思い出したが「ああ、あれね!」とはならなかった。
ケータイ小説に対する批判の主な内容は、短絡的・類型的なストーリー展開、語彙の少なさや文章表現の稚拙さ、投稿される際の推敲の不十分さ、安易な性的・暴力的描写などである。
思い出してきた。たしかにおおよそそんな批判だったと思う。「話が典型的で単純だ」とか「基本的に一人称語りで、表現が稚拙だ」とか、そんな批判だったかと思う。本書でも著者にケータイ小説の話をしている女子生徒に「エロ……」と言葉を投げつける男子生徒が出てくるが、こうした本では「安易な性的描写」がまあまあ多いからなのだろう(そしてこの年頃の男子ならこういうものに対してこういう反応になるのはわからなくもない)。とにかく、ケータイ小説が中学生の間でも賛否が分かれるものであることがここからはわかる。
この「学校にケータイ小説が持ち込まれること」については、本書で第9章【補論1】「学校の中の書籍とメディアミックスについて」で別の角度からさらに深掘りされているのだが、ここでの分析がおもしろい。この話から先にしておこう。
学校とそこにいる生徒を取り巻く「読書装置(本や新聞だけでなくそれらが広く読まれることを可能にする社会的仕組み)」を考える上で欠かせないのが学校図書館である。そこで、著者はこの学校図書館を考えるに当たって学校図書館法を引き合いに出す。そこにある学校図書館の定義から、学校図書館に配架される本とは「『学校教育に必要な資料』であり、それらによって『学校の教育課程の展開』と『健全な教養を育成すること』を目的」としていると結論づける。つまり簡単に言えば「学校図書館には学校の勉強に関係のある本を置く」ということだ。だとすると、当然原則的な考えで言えば、学校図書館には勉強に関係のないマンガなどは配架できないとなる。ではケータイ小説はどうなのかというと、「実際、当時の学校図書館には、ケータイ小説のレーベルの書籍は配架されていなかった。」と著者は言う。つまり、学校図書館の選書や配架の基準で言えば、ケータイ小説もマンガ同様に学校には持ち込みできないものだということだ。学校制度の観点から言えばケータイ小説は学校への持ち込みが「不可」なのである。
学校にケータイ小説が持ち込めたのは「朝読書」のおかげであると著者は言う。好きな本を持ってきて朝の決まった時間にみんなで読むという「朝の読書」運動は88年に始まったが、これは一見すると「読書を促進する運動」のようで実は目的は別のところにあると言う。それは「遅刻を減らす」ことなのだそうだ。朝のホームルームの前に読書時間を設けることで遅刻が激減する。そしてみんなが揃って教室が沈黙した状態で適切にホームルームに入ることができる。だから……「本なら何でもいい(ただしマンガは除く)」というわけだ。言ってしまえば「文字列が並んでいて本の体裁をとっているものなら何でも可」なのだ。ここに「ケータイ小説」がつけ入る「スキ」があった。
しかも、そもそもケータイ小説はプラットフォームを通じて携帯電話で読まれるもののはずだった。しかし、ケータイ小説はメディアミックス化によって書籍化もされ紙の本にもなった。そして、書籍化されたケータイ小説は紙の本である以上「朝読書」に持ってくる大義名分を得ることにもなったのだ(当然、当時の中学校は携帯電話の持ち込みは不可である)。
携帯電話そのものは学校に持ち込みようがない。しかも、内容を精査されれば、たとえ紙の本でもケータイ小説は学校制度上「学校に持ち込めるような本ではない」はずだった。学校の勉強に関係がないからである。しかし、「朝読書」としてはそれは「とりあえず本」だからケータイ小説を「合法的に学校に持ち込めた」のだ。いや「合法的」と言ったが「脱法的」と言った方がよいだろう。これは一種の制度上の「抜け穴」だからだ。つまり、こうして学校の休み時間という空白時間を埋めるものとしてケータイ小説といういわば「脱法本」を学校に持ち込むことに成功したのだ。かくして、授業のような正当的な学校の時間でもなくまた純粋なプライベートの時間でもない休み時間というグレーゾーンの時間に、学校という場にはふさわしくない内容だけれどもさりとてマンガやゲームなどの勉強に関係ないものとして「完全に持ち込み厳禁」とも言われない、同じくグレーゾーンのケータイ小説がくしくもフィットするに至ったのである。
管理下・制度化を逃れる読書がもたらす秘密の悦楽とそれが教育者に教えるもの
またここで、5章の内容に戻りたい。以上の内容から、ケータイ小説を黙々と読んでいた女子中学生の一群はいわば「秘密結社」と言えるだろう。学校にギリギリ持ち込めるものを家から持ち込んで同好の士で固まり、学校時間とプライベート時間の間(はざま)にある休み時間を密やかに楽しんでいたのである。その読書には、管理下・制度化を逃れた末にもたらされる、秘密の悦楽があったにちがいない。そしてそれを、著者はあくまで調査者として冷静に定点観測し、このことについてこうまとめる。
明らかにしたことは次のようなことだ。まず教室という場において、ケータイ小説が携帯電話を通じてではなく、書籍として読まれているという事実を確認し、書籍として制度的に問題なく学校に持ち込まれたケータイ小説が、人びとの活動を可能にしていることを確認した。
そこで見られた活動として、ケータイ小説の主たる「読者」である「女子」は、休み時間にケータイ小説の貸し借りや感想語り、恋愛語りを行っていた。
そしてこれらの活動を見ていくと、ケータイ小説のテクストの持つ女子の主人公の視点による物語という形式に「女子」というカテゴリーにおいて共感し、感動するような読解態度が期待され、この「女子」カテゴリーと結びついた読解態度のもとで感想語りが可能となることがわかった。
この結論は、当時中高生でケータイ小説を好んで読んでいた人からしたら「そりゃそうだよな」と思うことかもしれない。しかし、私を含むこの当時の子ども社会にいなかった大人には「知らなかった世界をのぞき見た新鮮さ」をもってこの本は受け入れられるだろう。こうしたいわば潜入ルポの体裁のノンフィクション作品は、「その現場の当事者にとっての当たり前」をその現場を知らない部外者に語ることによってその者たちに驚きを与えるものである。本書もそうした本の一つと言っていい。
(私はこういう仕事をしている者です)
私も学校の先生の経験こそないが、塾・予備校で指導をしていた経験がある。そのとき、彼ら彼女らが休み時間に何を考えまた何をしていたのかなんて気にもとめなかったし考えも及ばなかった。もっとも休み時間は休み時間である以上生徒たちが自由に過ごしていい時間だし、その時間の過ごし方にまで注文を入れるのは度を越えた教育的指導の介入でありそれがあっては彼ら彼女らはその時間休めない。ただし、同時にそこは教育の現場であり続ける以上、彼ら彼女らがその場にふさわしくない行動をとるのならば、それがたとえ休み時間であろうと注意せざるを得ないだろう。しかし、ここで重要なことは私たち教育指導者はその立ち位置にある以上、彼ら彼女らの真の休み時間の過ごし方を見ることはできないということである。なぜならそれは教育制度の外で行われることだからである。ケータイ小説をめぐる生徒の文化交流も、著者がもしこのクラスの担任の先生だったらたとえその現場にいたとしても見ることができなかったはずだ。なぜなら、もし彼が先生ならば生徒たちは学校の勉強に必要ではないと教育指導的に判断されかねない「グレーのその存在」を必死にひた隠しにするからである。彼が先生ではないからこそ、生徒たちはその存在を開示し、またそれによってそうした文化交流が秘密裏に行われていることが明らかになったのである。
教育に関する本のほとんどは教育指導者の観点から語られるものが大多数である。しかし、そこで語られる生徒像が本当の生徒の姿なのかどうかを、特に私たち教育指導者は少し疑った方がいいのかもしれない。そこで想定される生徒像は教育制度というフィルターを通して見たものであり、現実の生徒とは若干異なるものなのではないか。現実の生徒は管理下や制度化からもっとしたたかに逃れたところにいるのではないだろうか。そしてもしかりにそうであれば、そうした現実から乖離した生徒像に基づいた教育論ははたして有効なものとなりえるのだろうか。本書からそんな問題を提起されたような気がした。
私のような教育指導者やお子さんのいる保護者の方に、特に読んでいただきたい一冊である。
以上が私の感想です。一言で言えばこの記事のタイトルにもある通り「休み時間の過ごし方を実際の「現場」で調査したら真の中学生の生態が見えてきた!」という趣旨の本です。ただし、読みにくくはないですが論文が基になっているので多少専門書のような内容にもふれます。そこは少し難しいかもしれませんが……。
なお、こちらの本は「若者の読書文化論」や「若者に対する読書教育論」として読むこともできます(もちろん、読書以外の話題も多く扱っていますが)。ですから、読書教育に興味のある方にもおすすめできます。
もちろん、もっと広く「現代若者論」や「ユースカルチャー論」として読むことも可能です。しかしここで登場する中学生は「2009~2011年の生徒」であることを留意する必要があります。スマホ使いが一般化しAIが日常的に使われるようになった今現在の中高生はまた少し違うように思えるからです。
もしご興味があるようでしたら、是非ご一読ください。
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