日本の作文教育を総点検した末に見えてきたもの~『共感の論理――日本から始まる教育革命』(渡邉雅子)の感想と共に~
更新日:2025/11/12
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本書を通じて日本の作文教育を総点検してみた
先日読み終わった、渡邉雅子氏の『共感の論理――日本から始まる教育革命』についての内容を紹介しその感想を述べながら、それについての私見を述べていきたいと思います。
本書を概観すると
まず本書は、同氏の先行して出版された『論理的思考とは何か』の続編的内容です。『論理的思考とは~』を下敷きにして本書の内容は展開されています。『論理的思考とは~』がラフスケッチだとしたら、本書はそれを整理して再編集したものと言えます。したがって、『論理的思考とは~』を読んでいない人は、まずこちらからお読みいただいた方がよいと思います。
また、『論理的思考とは~』に比べ、対象読者を限定した内容となっています。『論理的思考とは~』では、一口に論理的思考と言っても本質論理の問題としてみれば四つの領域(経済の論理【アメリカ】・政治の論理【フランス】・法技術の論理【イラン】・社会の論理【日本】)に大別することができ、またそれが各々の作文形式に現れていることを広く紹介するという構成になっています。しかし、本書はその内容を基に、社会の論理領域に属する日本の作文教育がこれからの世界の教育を変える大きな起爆剤となりうることを示した上で、日本の教育への提言を行っています。したがって、渡邉氏が今回想定する対象読者は「広義の教育関係者」であり、その点において『論理的思考とは~』に比べ読者ターゲットを限定していると言えます。ですので、『論理的思考とは~』のようにベストセラーにならないかなと思いました(『論理的思考とは~』を面白いと思った読者の一部は買うとは思いますが)。私は教育関係者なので当事者意識をもって本書の内容に当たれましたが、一般的な読者だとちょっと置いて行かれるのではないか、と少し思ったからです。
さて、まず本書の内容を概観してみます。あ、今からこの本を読もうと思っている人はここの内容を飛ばしてください。若干のネタばれ要素があります。ドラマや映画ではないので、ネタばれも何もないのですが、本書の内容の概説をするのでそれが嫌な人は飛ばしてください。逆に本書を読んでもいまいちピンと来なかった方には、今からの内容は通読する上でガイドになるかもしれません。では、概観します。
序章はいわば三段論法で言えば「大前提」です。近代社会の諸原理が通用しなくなっている現代社会において、ポスト近代社会の原理が求められていることを指摘しています。その上で、「教育は常に社会の要求に従って形を変える」という前提に立ち、ポスト近代社会の原理を準備するものとして教育が変わるべきだと主張します。『論理的思考とは~』で明らかにした四領域(経済・政治・法技術・社会)の区別に従い近代社会の原理を概説した上でその各領域での「近代社会原理の行き詰まり」があり、どの領域でも社会変革が必要であることを示しています。それを踏まえ、その社会変革に必要な価値転換(パラダイムシフト)の準備として次の教育のあり方を考えるべきだと述べています。そして、この転換において核になるのが「利他主義」であり、近代的な「利己主義」からの脱却と「利他主義」の希求は現代社会からの要請だとしています。
第一章「四つの教育原理――教育文化のモデル」は三段論法で言えば「小前提」に当たります。『論理的思考とは~』で示された四領域を基に現行の教育文化モデルを、通奏低音にある教育の世界的潮流とその課題を踏まえながら再整理する試みです。結果、四つの教育原理が導き出されます。
経済原理(効率性の追求――労働者・生産者の育成)(アメリカ)
政治原理(公共の利益の追求――市民の育成)(フランス)
法・技術原理(摂理と規範の伝授――求道者・遵法者の育成)(イラン)
社会原理(共感による連帯――共同体の構成員の育成)(日本)
この各々の原理は各々の社会体系を成り立たせるために不可欠で独立したものであり、普遍的な一つの教育のかたちがあるわけではないことを、ここで改めて確認しています。
第二章「共感の論理――社会原理の日本の教育」は第一章を踏まえた内容でここもいわば「小前提」。社会原理の日本の教育にある「共感の論理」を他の三つの領域・原理と比較しながら明らかにしていきます。作文教育・読解教育の歴史を振り返りつつ、その目的と特徴を比較相対化しながら明らかにしています。ここの「3 なぜ日本の社会と教育が新パラダイムのモデルになるのか」が本書のキモです。現代社会における利他主義の要請は全世界的な潮流であることを示した上で、「各々の領域における利他主義」があることを指摘。ただし「社会領域以外の原理による利他は、『自然と切り離された人間』という前提のもと、まず『利己主義』を第一の選択肢として据えた上で、その後に「利他」を実行しようとするものである。したがって、それは必然的に利己主義を土台とした利他にならざるを得ない。」。そのため、近代社会の原理である利己主義に立脚しない利他主義は日本の社会原理に基づく利他主義以外はなく、ここにおいて「日本の社会と教育が新パラダイムのモデルになる」と言えると述べています。なぜなら、日本の社会と教育は「共感の論理」によって支えられたものであり、その中にあってその利他主義は「他者に共感するとともに、相手を理解することで『自己が変わること』が重視」されているため、それこそが「パラダイムシフト(脱近代化)の起爆剤」になるからです。ただし、この共感的利他主義は全てにおいて万能というわけではないので、こうした共感的利他主義を作文教育などで涵養すると共に、合わせて「多元的思考」の涵養も必要だと言っています。
さて、ここまでの内容を今一度整理したいと思います。著者が言いたいことはこういうことです。
(大前提)序章
現代社会では、全世界的に近代の原理の行き詰まりとそれに伴うポスト近代の原理への希求がある。それは近代的な「利己主義」からの脱却と対する「利他主義」への希求である。
(小前提)一・二章
四領域の教育文化モデルを比較検討した結果、近代の原理からの脱却となりうる「利他主義」がありえるのは、日本の社会原理のみである。そこで育まれる共感的利他主義こそが近代的な「利己主義」からの脱却のキーとなるからだ。もちろん、現実的な社会状況を考えると多元的思考も併せて養う必要がある。
(結論)終章
(※だから、共感的利他主義=共感の論理+多元的思考を育成する日本の教育が世界を変えるのだ)
本書で展開される論はおおよそこういうことです。そして、「ではどのようにしてそうした共感の論理(プラス多元的思考)を養う教育がどのように可能となるのか」という具体的方策がその後の第三章「教育のグランドデザイン――利他と多元的思考を育む」の内容であり、その結論を提言のかたちでまとめたのが終章「日本から始まる新しい秩序――利他と多元的思考が拓く未来」です。
さて、総論的な話はここまでにして、具体的な各論に入っていく第三章の内容については、次で扱いましょう。
私の疑問に対する渡邉氏の回答
以前『論理的思考とは~』を読んだ感想や考えを、私は上の拙記事でまとめました。このとき、私が気づいたこと、それは「日本の作文教育の難儀さ」でした。他の三つの領域を代表するアメリカ・フランス・イランの作文教育が終始一貫しているのに対し、日本の作文教育は教育段階に応じて求められるものが大きく異なります。そのため、児童や生徒は各段階に応じて「前に習ったことを捨てて新しく習ったことを身につけアップデートをしていく」必要があるわけで、これは大変だろうなと思いました。そのため、私はそれを「構造的問題」ととらえたわけです。
私は中高生に作文や小論文・志望理由書の添削指導をしていますが、「アップデートされていない」生徒を現によく見かけます。たとえば高校受験では「意見文を書かせる作文問題」が出題されますが、書いてくる答案を見ると小学生の感想文レベルでとまっているものが多いです。また大学受験の小論文の指導では「小中学生の感想文や意見文(作文)レベルの答案」が多いです。もし中等教育における最終到達点が大学でレポートや論文を書く文章力の素地を養う「小論文」であるなら、アメリカのように最初から「小論文」を教えた方が生徒も(そして教える側も)苦労しないのではないか、と『論理的思考とは~』を読んだときに思いました。
しかし、そうした上掲の拙記事に書いた私の疑問や気づきに対しては、本書のとりわけ第三章に全て回答されていました。「おお、さすがだ」とこれには舌を巻きましたね。私の考えるようなことは渡邉氏にとっては「折り込み済」だったようです。私のような一介の作文・小論文指導者とはレベルが違います(笑)。そういう意味では、私には納得の一冊でした。
なぜ日本の作文教育は段階的でよいのか
作文教育をリテラシーを養うものとした上で、その「リテラシーを、主に国語で培われる『読み、書き、思考する能力」の技術的な側面とともに文化的な側面を持つものとして」渡邉氏はとらえています。その上で、次のように述べています。
社会原理を基盤としながら多元的な思考ができる教育を築くためのポイントは二つある。一つ目は、子どもが社会の一員として必要な認知的、規範的、道徳的ルールを身につける社会化(socialization)が最も効果的に行われる小学校低学年で、共感的な読解と感想文の執筆を通して共感的利他主義をしっかり育むことである。二つ目は、各学校段階に応じて重点的に教える作文様式を、発達段階に合わせて段階的に移行させる「段階的作文教育」を導入し、多元的思考を育てることである。
渡邉氏によれば、日本の作文教育で育むものは共感的利他主義と多元的思考でした。ですから、しばしば「作文教育は国語教育を越えて道徳教育の装置になっている」という批判がありますが、渡邉氏の立場ではそれは批判に当たらないと言えます。それはむしろ、共感的利他主義を育むために行っていることだからです。また、私が前述したように「段階的な作文教育は児童や生徒の負担になるのではないか」という意見も、渡邉氏の立場からすれば見当違いということになるでしょう。なぜなら、多くの作文様式にふれることが多元的思考を育てることになるからです。小学校のときに「感想文」を習って、中学校のときに「意見文」を身につけ、高校のときに「小論文」を学ぶ、このようにして一様ではない複数の思考モデルを学ぶことができるということなのでしょう。
段階移行時のギャップをどうするのか
しかし、私の指導経験で言うと児童や生徒が段階移行時のギャップをうまく乗り越えられていない気がします。前述のように、作文(感想文・意見文)の書き方や考え方を引きずったまま小論文学習に入っている生徒をよく目にします。共感的利他主義と多元的思考を身につけるという大義名分があるにしても、本当にそういうものを身につける教育カリキュラムとして成功するものなのかどうか、まだ少し疑問が残りました。
とりわけ、私は最もキーとなると考えているのは中学時に学ぶ「意見文」です。上掲の拙記事でも指摘したように、感想文と小論文は書く目的や内容、手段などを見ると「真逆」です。その間に位置するのが「意見文」です。意見文で、根拠と共に自分の意見を提示するといったいわば論証の最も単純な形を学びます。これが「小論文の準備学習」となって負担なく次の教育段階へと移行できれば問題ないのですが、はたしてこれだけでうまくいくのでしょうか。
渡邉氏によると、この意見文と合わせて英語で結論先行のアメリカ式エッセイを学ぶことが大切だと言います。なるほど。これは頭にありませんでした。作文・小論文専業講師の悪い部分が出てしまいましたね。私の視野が少し狭かったようです。小論文は結論先行の作文様式です。ですから、この英語でアメリカ式エッセイの文章構成(型)を学ぶこともまた「小論文の準備学習」になるでしょう。国語で意見文を学び英語でアメリカ式エッセイを学ぶ、いわば二方面から次の段階である小論文学習の下準備をするというわけです。
また、高校時には、小論文と共に、探究学習でアブダクション(仮説検証)の型を学ぶことや英語で5パラグラフエッセイの型を学ぶことも必要だと述べています。たしかにこれらによって、小論文で学ぶべき「問題提起する(問いを立てる)こと」や「論理的に思考すること」、「他者を説得すること」などを学ぶことができます。加えて、もしかりに小論文の学習でこうしたことを身につけ損ねたとしても、その生徒は英語や探究学習など別の教育機会で学ぶことができると言えるため、それはある種のセーフティーネットとして機能するはずです。
このように、渡邉氏は、既存の作文教育に加え英語教育や探究学習のカリキュラムも密接に絡ませて、作文教育の本来目的を達成できるような総合的なカリキュラムを考えています。そしてそこには、他教科の学びも有機的に絡ませることで段階移行時の断絶やギャップをなくそうとする戦略的意図がうかがえます。
まとめ ~日本の作文教育を総点検したら「実現可能性」が気になった~
本書を一通り読んで本書の内容には一応納得をしました。しかし、新たな疑問がわいてきました。それは「実現可能性」です。他教科も巻き込んで作文教育の全体のカリキュラムを組み立て直すというのであれば、各教科とのカリキュラムのすり合わせが必要になってくるでしょう。これをまず教育行政の場で行わなければなりません。
現行の高校国語教科書には、インタビューやアンケートの方法が紹介されているのみならず、実際に行うことが推奨され留意すべき点なども丁寧に述べられている。これらは「話す・聞く」言語活動の一環として行われているが、すでに盛りだくさんの国語科目で扱うよりも、「総合的な探究の時間」で行ったほうが、探究の方法として意識されやすいだろう。
たとえば、このように現行国語のカリキュラム内で教えていることを探究学習で教えるようにするとなれば、どこからどこまでを国語で教えどこからどこまでを探究学習で教えるのか線引きした上で、各教科のカリキュラムを整理し直す必要があるでしょう。それをやるとなると、まさに教育革命です。
もう一つ懸念事項があります。それは教育現場でこれに対応できるのか、ということです。
最後の疑問は、教師の多忙が深刻な課題となっている中で、果たして作文教育が可能なのか、また積極的な指導や添削、評価がほとんど行われてこなかった綴方の伝統を変えることができるのか、あるいは変えてよいのかである。
渡邉氏も言うように、今、教育現場にいる先生方の負担は大変大きなものになっています。たとえば私が高校生が学校で書いた志望理由書などを在宅で添削しているように、作文や小論文に対する積極的な指導や添削、評価のほとんどは、私のような外部の人間にアウトソーシングされています(だからこそ、私は仕事に与れているわけですが)。そうやって何とか回している現場で、ここに書かれていることがにわかに実現できるとは考えにくいんですよね。私のような外部の人間に仕事を回さざるを得ないほどの教育現場で、こうした作文教育がはたして可能なのでしょうか。
また当然、カリキュラムのすり合わせだけでなく、教科会議などを経て現場でのすり合わせも必要でしょう。英語の先生と国語の先生で言うことが変わってしまっては生徒が混乱します。たとえば英語でエッセイがどういうものとして教えられているのかわかった上で、国語の先生は小論文がどういうものか教えないといけないでしょう。これは新たな現場の負担になりはしないでしょうか。
本書の内容は、話としては納得できましたが、現場側の人間(現場の人間ではありませんが渡邉氏よりかは現場「側」です)としてはこれをどのように実現させることができるのかについて少し疑問を感じました。一つの構想としては非常に興味深いのですが、「絵に描いた餅」になりはしないかと……。たしかに作文教育は、年内入試(学校推薦型選抜・総合型選抜)が事実上主流になっていく中志望理由書や小論文の作成が必要となってくるため、重要になってくると思いますが……。こうした疑問を抱きながらここで筆をおきます。
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