大人の示す『人生の流れ』に覚える違和感は将来進路の決定に不可欠なものだと私は思う
更新日:2026/04/17
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その中3生の「大人が示す進路に持った違和感」について
先日、このような記事がXのタイムラインに流れてきました。「小島よしおが『先生が言う“人生の流れ”に違和感を覚える』という中3女子に伝えたい、新しい道に進む方法」というAERA Kids Plus(アエラ キッズ プラス)の記事です。これは『小島よしおのボクといっしょに考えよう』という連載記事のようですね。いろいろな年代の子どもが寄せる相談事に小島よしお氏が答えるというもののようです。この記事の中のある「違和感」についての私の考えをここでは述べていきます。
(小島よしおが『先生が言う“人生の流れ”に違和感を覚える』という中3女子に伝えたい、新しい道に進む方法)
(この連載シリーズは本にもなっているようです)
小島よしお氏も上掲の記事で言っていますが、「違和感を覚えるのは間違っていない」し「中3でこんなふうに考えられるのはすごい」と私も思います。大人から「人生とはこういうものだ」と言われれば大多数の中高生は「そういうものかな」と思ってしまうでしょう。しかし、「中学の次は高校、高校の次は大学、その先には就職、人生とはそのように進んでいくものだ。だから今は勉強をしていればよい」という先生の示す将来進路に違和感を覚えたのは、この子が「健全に成長している証」だと思います。きっとこの中3の子は、「自分をしっかり持っている」のでしょう。
そこで小島よしお氏は「なぜ学校の先生がそういう人生プランを示したのか」という話をしつつ、自分の今までの人生を振り返りつつ「それ以外の人生のあり方」も示しています。これは芸人やタレントとして生きてきた小島よしお氏の真骨頂であって、いわゆる「普通の大人」にはなかなかできる話ではありません(何が普通かを明確に定義することはできませんが)。「人と違ってなんぼ」が芸人・タレントですから、「人と違う『道なき道』を自分はどう進んだか」という話はこういう経歴の人にしかできないでしょう。中3のこの子もこういう経歴の人に「それだけが人生ではないからあなたのその『違和感』は間違いではないよ」と言われたら納得するのではないでしょうか?私も、この子にはこういう違和感をこれからも持ち続けてほしいと思いました。
可能的な未来を担保しその中から主体的に「自分の未来」を選ぶために必要な「違和感」
しかしその一方で、志望理由書を添削する私の立場としては、どうしてこうした違和感を持てない(あるいは持ち続けられない)中高生がいるのかと、最初この記事を読んだとき思ってしまいました。そうした違和感を持つことよりもその違和感を持てないことの方が問題だと私は思いました。それは、中学の次は高校、高校の次は大学へと進学するという過程をさも当然と考えているかのような志望理由書を毎年見るからです。そしてそうした志望理由書はそれによって適切な内容としてまとめることができていません。
(私は普段、中高生の書いた志望理由書作文や小論文の添削指導をしています)
志望理由書を書くためには、自分が進むべき進路は本当に大学なのかと疑問を持ち、改めてその将来目標とそれに対する動機を確認する必要があります。またそのためには、「高校の次に大学に進学することは決して『当たり前』ではない」という認識が不可欠です。そしてその根底には、こうした「一般的に正しいと思われている将来進路」に対するある種の違和感が必要でしょう。
以前、別の拙記事でも書きましたが「高校の次は大学に行く」のは全く当たり前ではないのです。たとえば専門学校やその他の大学校など、大学とは違う別の高等教育機関への進学も考えられます。またもちろん企業などに就職するということも考えられるでしょう。にもかかわらず、一部の志望理由書は「なぜ自分は大学への進学を選んだのか」という問いに対する回答を十分にしないまま、その大学や学部・学科を志望した理由をいきなり書いているのです。それは、そうした進路に違和感を覚えていないからだと思います。こうしたことは今までもnoteの拙記事でお話しした通りです。
(たしかに今の時代「高校の次は大学へ」が当たり前と考えがちですが、だからこそ自分が大学に進学する意味をしっかり考えてほしいです)
これは単に志望理由書を書くためのテクニックの話ではありません。志望理由書を書く書かないにかかわらず、この違和感は将来進路の決定に必要なものだと言えます。なぜなら、「将来進路とは『未来』のこと」だからです。「未来」とは「未だ来たらず(まだ来ていない)」と読みます。時間軸に沿って考えると、たとえば中高生にとって、大学に入って一流企業に入る未来は文字通りまだ現実のものとしてとして現在到来していないものです。ですから、この未来の事象に対して「これが将来への既定路線である」とは本来誰も言えないのです。誰しもその未来の事象はその時が訪れて現実化しない限り既定することはできないからです。そういう意味で、その先生の言うことに違和感を覚えるのは当然です。ですからこの違和感は大切にしてほしいと私は考えています。でないと、自らで自分の将来の可能性を限定して考えてしまうことになるからです。
よく「人の可能性は無限大」なんて言いますよね。本当に将来の可能性ということで言えばそれは無限大です。「末は博士か大臣か」なんてよく言いますが、本当に将来どうなるかなんて誰にもわかりません。もしその子が園児や小学生なら、その子は「将来何にだってなれる」可能性を秘めていると言えます。総理大臣だろうがノーベル文学賞受賞者だろうが宇宙飛行士だろうが、その無限に広がる選択肢と共に、それになれる可能性も無限にあるわけです。それは綺麗事でも何でもなくて本当のことです。ですから、この中3生の子の持った違和感は、この無限に広がる可能的未来を担保するために大事なものです。これがないと、その子は自らでその可能的未来の広がりを狭め、他人が提示する最大公約数的な未来しか想定できなくなるはずです。そしてその可能的未来の中から「自分の未来」を自分の手で選ぶことができなくなるでしょう。
こういう意味から、私はそうした違和感を持っていないような志望理由書を見る度に、とても残念な気持ちになります。そんな陳腐で最大公約数的な未来に甘んじるような、消極的な将来進路の選び方はして欲しくないのです。「高校を卒業したら大学に行くのが当然」と思っている人は、多くの可能的未来の中から「大学進学」という選択肢を主体的に選び取ったわけではありません。ただ「大人もそうするものだと言っているし、周りの同級生もそうすると言っているし……」ということで盲目的に周りの言うことに従っただけに過ぎないからです。
理想と現実の間で求められる「違和感」
ただそれはそれとして大事な考えなんですが、これがたとえば中学生になったらどうか高校生になったらどうか、また大学生になったらどうかとなっていくと、実際に今まで「遠い未来のこと」だったものが徐々に近くに迫ってきます。そうすると「将来何にだってなれる」とは、その時間の経過と共にだんだん手放しで言えなくなってきます。「このまま行くと将来たぶんこうなるだろうな、あるいはこうはなれないだろうな(蓋然性)」というのが何となく見えてきます。時間が進むにつれて、ぼんやりとした可能的な未来が輪郭を帯びて蓋然化(がいぜんか)していくのです。だんだんと現実的に向かうルートが見えてきます。その一方で理想としている未来へのルートが閉ざされていくことがあります。良くも悪くも蓋然的な将来へのルートが時間の経過と共に徐々に確定されていきます。こうなってくると「可能性は無限大」とは言えなくなってきます。まさに自分の中で将来に対する「理想と現実」が乖離(かいり)していくのです。
この可能的な遠い未来が蓋然的な近い未来に置き換わっていく中で出てくるもの、それが将来に対する「理想と現実」です。ここにおいて、人は決断を人生上で促されます。たとえば医師になりたいと考えている人がいるとしたら、当然大学医学部に進学しなければいけないとなります。しかし、その医学部に受かるほどの学力が自分にはないとなったときにさてどうするか?ここでは「その夢や理想を諦めるか」、「それでもその夢や理想を諦めないで頑張るか」の二択になるわけです。ここでも先に述べた違和感がかかわってきます。この違和感がないと、ここで自分の未来に対して主体的な選択ができなくなります。
……と言っても「夢や理想を諦めずに頑張れ!」と少年マンガのような精神論をここで言いたいのではありません。その夢を諦めるにしても諦めないにしても、その選択や決断を自分で主体的に行うということが重要なのです。「夢を諦めたからおまえは根性がない!」、「夢を諦めないからおまえは現実を見れていない!」ではありません。先ほども言ったように、未来は現実のものとして現在到来していないわけですから、どちらの選択肢がよかったのかなんてことは、その未来が現在となったときにしか評価しようがないのです。今ここで評価すべきことではありません。そういうことではなく、どちらの選択肢を選んだにしても自分の手でそれを選び取ったのだという自覚がそこにあることが必要なのです。そうでないと、その選んだ選択肢によって到来した未来が現在となりそれが結果「失敗」だったとき、きっとその人はその選んだことの責任を他者に求めるからです。「あのときに親がああ言わなければ諦めていなかったのに……」、「あの学校の先生の一言がなければあそこで諦められたのに……」と。こういうのを「他責思考」と言いますが、このように自分の人生における決断が失敗だったとき、いつもそれを人のせいにするようになります。自分の人生にかかわる事柄なのだから、それで成功しようが失敗しようがそれは自分の決断によるもののはずです。にもかかわらず、失敗したときは人のせいにする身勝手で都合のいい思考パターンになってしまいます。そしてきっとそういう人は、その決断のときに、他人が示す人生プランを何の違和感を持たず受け入れ、何の疑問も持たずにそれに従ってきた過去があるのです。だからこそ、自分のことにもかかわらず不都合が生じたらそれを人のせいにするのでしょう。
その「違和感」が人生における適切な進路選択を実現する
このように、上掲の記事での中3生の持った違和感は、志望理由書を書くかどうかに問わず適切な進路選択をする上で必要なものだと私は思いました。大人から「人生はこういうものだ」と言われたとき「本当にそうだろうか?」と違和感が持てるということは、「自分の人生は自分で決める」という自覚があるからだと思います。まあ、相談者は中学生なので「学校の先生や大人の言うことはきかないといけないのかな」と思って小島よしお氏に相談したのかもしれませんが、むしろこの違和感は絶対今後も生きていく上で必要になってくるので大事にしてほしいですね。
進路選択と言いましたが、それは何も志望校や就職希望先を決めるだけのものではありません。たとえば今付き合っている人と結婚するべきかどうかとか、ローンを組んででも一軒家を購入するべきかどうかとか、老いた母親を自宅で介護するか施設に預けるかとか、人生には無数の選択と決断の機会があります。そのときに一番重要なのは、「その自分の人生は誰のものでもなく自分のものだ」ということです。だから「それは自分が決めるしかない」ということです。
TOKIOが歌った、中島みゆき作詞の「宙船(そらふね)」にもありますよね。「お前の手で濃いでゆけ」、「おまえのオールをまかせるな」と。人生という荒波をわたる中で、自分の船は自分の手で漕ぐべきでそれを人に任せてはいけません。人生上で何か選択や決断をする上で、人の言うことを参考にするのはいいですが、その選択や決断は人に全て委ねるべきではありません。「自分の人生は自分がプロデュースする」、それは志望理由書を書く上でももちろん必要ですが、進学のみならずより広い意味で将来進路を考えていく上で常に必要な意識なのだと私は考えています。
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