『国宝』のヒットと現代日本の社会心理
李相日監督の『国宝』が信じられないほどの観客動員を記録している。
11月24日の時点で1231万人、単純計算では既に国民の十人に一人が観た計算になる。
わざわざ「信じられないほどの」と書いたのには、いくつかの客観的な理由がある。また、それらの理由とも関連することであるが、この映画の大ヒットには、現代日本の社会心理的な状況が少なからず影響していると私は考えている。その観点から見れば、この作品のヒットは映画研究者としても日本人としても、決して単純に喜べないことのように思えるのである。
それは映画作品としての技術的な質とはまた別の問題なのだ(技術的には現在の邦画が望める最高水準にある)。
空前のヒットが意外な二つの理由
『国宝』の大ヒットが意外に思える一つめの理由は、経済的なそれである。そしてその経済的な理由は、主に映画産業自体と日本の経済状況という二つの側面から説明できる。
まず、日本の映画産業はもう20年ほども構造的に歪な状態にある。邦画と洋画を合計した劇場公開作の数は2000年代後半以降、日本映画産業の最盛期と言われる1950年代末と同じ700本台に達し、その後一度も減少せずに10年代初めには1000本を超え、19年には1200本台に達した。これは90年代の倍近い多さである(日本映画製作者連盟の統計データによる。https://www.eiren.org/toukei/data.html)。この間、70年代後半などと違って、映画が斜陽産業だという声はどこからも聞こえなかった。宮崎駿や細田守、新海誠ら、アニメーションのヒット作品が国際的に評価され続けてきたこと、劇場公開作の供給過剰ゆえに映画に関する話題が途切れなかったことがその原因だと思われる。関連メディアの情報を表面的になぞっている限り、日本映画が衰退している兆候が見えなくても当然であろう。だが、アニメ以外では、超低予算の自主製作品『カメラを止めるな!』(17)や『侍タイムスリッパー』(24)に注目が集まるほど、日本映画産業は脆弱化している。
一方で、SNSでは映画が「富裕層の娯楽」だという声も聞かれるようになっている。既に述べたように00年代以降、劇場公開される映画作品の本数は異常に増加したものの、その供給に相応するだけの需要はもはやなくなっているのだ。実際、映画館の入場者数は1980年代や90年代と比べて特に増えたわけではない。国民一人当たりで見た年間利用回数は2回にも達していない。平均的な日本人の懐具合は、90年代の倍に達した大量の劇場公開作品の中から、相も変わらず年1本か多くても2本しか選ぶことができない程度なのである。日本の30年に及ぶ経済停滞から景気後退へ向かう兆候が明らかなのに、映画館の大人向け入場料金は1800円から2000円と過去最高価格を更新している。
各年度の興行収入合計が00年代以降も上昇しているのは、映画産業界が映画館の入場料を段階的に引き上げてきたからだ(95年から24年までに190円の上昇)。それだけではない、前回の記事でも触れたように、近年日本の映画館では、富裕層向けの追加サービスで500円とか3000円を取り、観客が貧富の格差を実感せざるを得ないような差別化を図る傾向が見られる。上映作品のレパートリーを増やしても需要増加が見込めないから、今度は観客自体の差別化を図っているわけだ。
映画が一部で「富裕層の娯楽」とさえ呼ばれるようになった背景には、経済停滞を無視した入場料の値上げと富裕層向けサービスの追加が重なっていると思われる。周知のように、00年代以降、非正規雇用の増加により非婚者も増え、日本社会は経済的な要因による階層分化と分断が進んでいる。それでも、割高になった映画館での年一回か二回の鑑賞対象として、3時間近い、エンターテインメント大作とも呼べない作品が選ばれたということが意外なのである。
第二の理由は、『国宝』という作品自体の「古めかしさ」である。吉田修一の小説に基づくその物語は、いわゆる「芸道もの」というジャンルに属しているように見える。
このジャンルは1950年代の日本映画産業の黄金時代以前から存在しており、日本映画史では「時代劇」と並ぶ長い伝統をもっている。ただし、時代劇と違って、海外にまで広く知られているわけではない。任侠映画と同様、日本映画史の特定の時期に生まれ、衰退していったジャンルである。
芸道ものの物語には一定のパターンがある。主人公が日本の伝統芸能の世界で厳しい修行を続け、個人的な犠牲を払いながらも自らの技芸の完成に至るというものである。『国宝』の物語は、原作者や監督が意識したか否かとは関係なく、まさにそのパターンをなぞっているのである。確かに、戦前の芸道もの映画ほどストーリーは単純ではなく、部分的には別の映画ジャンルの特徴も見られないわけではないが、それでもやはり基本的には芸道ものなのだ(そう判断できる理由は後述する)。
時代劇と違って、芸道ものは60年代以降にはほとんど顧みられなくなっていた。日米安保闘争、ベトナム戦争、キューバ危機、ケネディ暗殺、等々の時代状況と人口動態的な要因は、日本の映画観客に世界に開かれた革新的な内容と形式を求めさせたのである(以前の記事でも触れたように、60年代は大島渚の政治映画が評価され、ATGとの共同制作・配給による独立系映画の全盛期だった)。草月流「華道」の家元である勅使河原宏が、不条理小説で知られる安部公房の原作により三本も劇映画を連作するという時代だったのだ。時代劇の方は、小林正樹監督の『切腹』(62)や『上意討ち 拝領妻始末』(67)、今井正監督の『武士道残酷物語』(63)によってこの政治の季節にも適応できたが、芸道ものは私が先に要約したような物語が基本なので、現代社会の複雑さを反映することが難しかったと言えるだろう。
そして実際、60年代以降、現在までの日本映画を思い出してみても、国際的に注目されたり評価されたりした時代劇はいくつも挙げられるが(前出の小林、今井作品以外にも、黒澤明、篠田正浩、大島渚、北野武らの諸作品)、国内外で話題になった芸道ものがあったかと問われれば『国宝』以外を思い浮かべることが難しいのだ。
「芸道もの」ジャンル成立の背景、そのドラマ的な特殊性
ここで、芸道ものが映画ジャンルといして成立した背景に触れておいた方がよいだろう。それは、このジャンルのドラマ的な特殊性を理解する上でも必要なことである。
国内外の映画ジャンルの多くは、映画の大衆娯楽産業化に伴って他の諸芸術や娯楽分野からの影響を受けつつ、自然発生的に生まれた。映画人達は、映画以外の分野から積極的に学び、次々に新ジャンルを開拓することによって、映画技術の発達を促し、時代の変化に伴う需要の変化に対応してきたのである。日本の時代劇も米国の西部劇もそうである。だが芸道もの映画に関しては、少し事情が違っている。この映画ジャンルの誕生は、商業的な要因よりも政治的な要因の方からはるかに大きな影響を受けているからだ。
時代劇がサイレント時代に歌舞伎など大衆芸能の映画版として誕生したとすれば、芸道ものは戦前の1930年代後半、トーキー技術が広く普及した邦画界で映画人達による伝統文化の再評価と共に生まれた。そこには、日本の軍国化と思想統制が進行してゆく中、監督や脚本家にとって映画の題材やスタイルの面で創造性を発揮するための選択肢が少なくなったという、政治的現実が影響していた。
古い邦画ファンの多くはご存じだと思うが、成瀬巳喜男監督の『鶴八鶴次郎』(38)と『歌行灯』(43)、溝口健二監督の『残菊物語』(39)といった芸道ものが作られた時代には、もはや1920年代の「モボ・モガ」といった流行語に象徴される西洋文化への傾倒も、社会主義の影響を受けた「傾向映画」も過去のものとなっていた。やがて日中戦争から太平洋戦争勃発へと状況が悪化するにつれて、監督達は日本の古典芸能に題材を取るだけでなく、武道家を主人公とする小説や新歌舞伎の戯曲も映画化しようとした。政府当局による検閲は全ての作品に対してあったが、芸道ものはそれらと並んで安全な選択肢だったのである。つまり、1930年代後半から40年代前半にかけての芸道もの映画というジャンルの形成は、映画作家達の自由な選択によるものでないどころか、政治的諸要因に規定された副産物という性格が強いのだ。
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映画文化の転換期における映画学
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