大島渚の「政治映画」の現代性
筆者が大島渚の名前を初めて知ったのは、『愛のコリーダ』(76)をめぐるスキャンダルの報道や、テレビのバラエティ番組への出演によってだった。正確に言えば、『愛のコリーダ』の件は直接記事や報道を見聞きしたのでなく大人達の噂を通じて知っただけで、自分の目で見たのはテレビに映っている気難しそうな中年男性の姿だけである。
時は1970年代後半、私は小学校高学年だった。当時、大島監督の旧作は一切テレビ放映されておらず、私が映画に熱中し始めた高校生の頃にやっと、『戦場のメリークリスマス』(83)が全国公開された。
映画ファンでなくとも、私と同じ世代かその前後数年に生まれた日本人の多くにとって、大島渚はある意味伝説的な『愛のコリーダ』やカンヌ映画祭では無冠だったが北野武や坂本龍一が世界の映画界に知られるきっけを作った『戦場メリ』の監督であり、『御法度』(99)が遺作となった映画作家というイメージが強いだろう。
70年代後半以降に発表された彼の劇映画には前記三作以外にも、『愛の亡霊』(78)や『マックス、モン・アムール』(86)があるが、これらの作品も『愛のコリーダ』以降の大島監督の映画作家像とは矛盾しない。禁じられた性愛のテーマを一風変わった題材や原作に基づきつつ扱い、平易で標準的な映像スタイルに適度な耽美性を加える演出により、一般観客も批評家も満足させる映画作家というイメージである。そのような志向の作家からは、誰も映画表現における実験性や革新を期待したりしないだろう。映画美学的にはかなり保守的に見えるからだ。
大島監督に対するそうした一般的イメージは、勿論「時代の産物」という側面を持っていたし、彼自身の映画作家としての意識的な方向転換の結果でもあった。その変貌ぶりは世界の映画作家の中でも珍しいと言えるほど徹底している。なぜなら、70年代初頭までの大島渚は、上で述べたような、映画美学的な意味で「保守的」な映画作家では全くなかったからである。
実際、70年代初頭以前の彼は、左翼的な政治思想(マルクス主義)の影響下に、同時代の日本社会の矛盾を独自の視点から実験的スタイルで描く、「革新的」な映画作家だったのだ。
本稿は、映画監督大島渚に対するそうしたとイメージの変貌を跡づけるとともに、転換以前の同監督の創作を現代的な「政治映画」として再評価しようとする試みである。
「禁じられた性愛」のテーマ
先に述べたように『愛のコリーダ』以降の大島渚作品は、彼の映画作家としての方向転換を示している。それは、この作品以降彼が国際共同制作を志向し、禁じられた性愛というテーマを平易なスタイルで描くようになったからだけではない。テーマ的にも以前の諸作品との断絶が見られるのだ。以前の作品には感じられた、同時代の日本社会が抱える諸問題に対する作者の関心が、これ以降は全く感じられなくなるのである。
以下では便宜的に、『愛のコリーダ』以降を大島渚の「後期作品」、それ以前を「前期作品」と呼ぶことにする。
前期作品で、禁じられた性愛の暗示的表現がなかったわけではない。ただ、それは「テーマ」ではなくむしろ「モチーフ」のように扱われていたと言えるだろう。つまり、他に中心的なテーマがあって、その多面的な展開のために、或いは劇映画としてドラマに興趣を添えるために、登場人物の相互関係やプロット展開に付け加えられていたのである。
例えば、『無理心中 日本の夏』(67)における乱交や『新宿泥棒日記』(69)における売春、『絞死刑』(68)や『儀式』(71)における近親相姦である。それらは、舞台劇的に様式化された演出や登場人物の空想と区別のつかない曖昧な状況設定を通じて示されていることを考えても、「副次的」或いは「付加的」なものとして、テーマではなくモチーフとして提示されていると言えるのだ。
大島渚の後期作品では、「禁じられた性愛」がモチーフからテーマにまで「昇格」されたと言うこともできよう。だが、このテーマに傾注することによって、大島渚は自らの映画に制限を課したとも言える。私見では、それは彼の創作をある種の袋小路に追い込むという結果をもたらした。
商業公開を目的とする長編劇映画である以上、テーマはただ視覚的に提示されるだけではない。
一般的に言って、劇映画におけるテーマは、ドラマの要因として何らかの思想を暗示したり、様々なモチーフを導入する契機となったりしながら、作品をドラマ或いは物語としての完結に向けて牽引してゆく。その結果、テーマは「深められる」、つまり観客がそのテーマに関して様々な思索をめぐらせる可能性を開くのである。
しかし、後期作品の観客は、たとえ「禁じられた性愛」のテーマに関する思索をめぐらせても、先進諸国の市民が共有する一般常識から一歩も外れることがないだろう。後期作品のプロットやドラマは、このテーマが観客によって次のように展開されるしかないように構成されているからだ。
「社会で禁忌とされる性愛への執着は、一時的には本人達に幸福感や開放感を与えるとしても、最終的には自己も相手も破滅させる」。
これではあまりにも常識的であるが、一般観客が納得できるようにこのテーマを扱うには、別様には構成できまい。個人の性愛(エロス) はどれほど理想化しようと普遍的な博愛に転化できないからである。
その結果、観客には刹那的な幸福や解放と最終的な破滅との、どちらにより大きな意義を与えるかという選択肢しか残されないことになる。個人主義的な立場からは前者に、公衆道徳の立場からは後者に、より大きな意義を与えることになるだろう。
後期の大島作品を改めて観直すと、映像面でも物語やドラマの面でも平易であるにもかかわらず、全体として前期作品よりも希薄な印象しか残らないのは、そのせいかも知れない。最も国際的評価の高い『戦場のメリークリスマス』でさえ、筆者にはドラマ的にみてかなり中途半端で音楽の叙情性に依存しすぎているように見える。
この作品での「禁じられた性愛」のテーマは、太平洋戦時中の捕虜収容所における軍人と敵軍捕虜との同性愛という、異常なものである。それは冒頭に近いシーンで処刑される朝鮮人軍属とオランダ兵捕虜との関係を通じて示されたあと、大日本帝国陸軍ヨノイ大尉と連合国軍セリアズ少佐との間で暗示的に、と言うよりも「ルッキズム」的な原則によって展開される。後者の処刑後それはハラ軍曹とローレンス中佐との「友情」のモチーフによって引き継がれる形になっている。
しかし、ハラとローレンスの関係に性愛的な要素は皆無で、元々ハラのローレンスに対する友情は敵とはいえ白人で将校である相手への敬意から発したものだと考えられる。作中で彼らの友情は、ヨノイとセリアズとのルッキズム的な性愛の暗示と違ってドラマ的に信憑性のある形で描かれている。セリアズを演じたデヴィッド・ボウイのカリスマ性も、これら並行する筋の軽重を逆転させることはできない。
大島渚はこの映画のドラマに「普遍性」の見かけを与えるために、二組の全く性質の異なる日本人+白人の関係性を導入し、「禁じられた性愛」のテーマは途中で放棄して「友情」のモチーフによってそれを代替させざるを得なかったのである。
大島「政治映画」はなぜ忘れられたのか?
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