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夢見るレシピで謎解きを 第一話 夢を探す少女と溶けたチョコ/友井羊

 私は将来、何になれるんだろう?
 窓際の席をお日さまが照らす。制服は生地も縫い目も真新しくて、まだ身体に馴染なじんでくれない。
 今朝のホームルームで、担任の先生が進路調査票を配った。入学してからたった二週間なのに、もう卒業後のことを考えなきゃいけないらしい。目安程度でいいとは言っていたけど、私は思い悩んでいた。
 せっかく試験の難しい高校に入れたのだから、大学には進みたい。だけど文系か理系かも決めていないし、やりたいことも思いつかない。昔から特技も趣味もない。しばやまはるという平凡な女子生徒は将来、何ができるのだろう。
「ねえ、はるちゃん。聞いてる?」
「えっ。あ、ごめん。考えごとしてた」
 私が答えると、たましろらいちゃんとなか明日美あすみちゃんが同時に笑った。
「はるちゃんって抜けているところあるよね」
「うん、最初のイメージ通り」
 私たちは昼休みにお昼ごはんを食べたあと、明日美ちゃんの席の周りに集まっておしゃべりをしていたのだ。二人に向けて、私は頬を膨らませる。
「そんな、ひどいなあ」
 昔から人よりもワンテンポ遅くて、性格も大人しいほうだ。丸顔や背の低さ、そして丸っこい体格もあって、ほんわかキャラとして扱われることが多い。実際にそんな人間なので、あまり異論はないのだけど。
「それで、何の話をしていたの?」
「未来ちゃんも私も、お菓子を作るのが好きってわかったんだ。だから今度作ってきて、一緒に食べようって話してたの。はるちゃんはお菓子作りの経験はある?」
「やったことない。二人ともお菓子が作れるなんてすごいなあ」
 簡単な料理くらいはできるけど、お菓子となるとハードルが上がる。すると明日美ちゃんが私の二の腕にぽんと触れた。
「全然すごくなんかないって。意外と簡単だから、はるちゃんもやってみなよ。最初ならシンプルな型抜きチョコとかどう? レシピに従うだけだし、型は百円ショップに可愛いのがけっこうあるよ。ちなみに私はクッキーを作る予定なんだ」
 高校生活がはじまったばかりで、人間関係はまだ手探り状態だ。そのなかで私は、明日美ちゃんや未来ちゃんと話をするようになった。きっかけは移動教室のときに、明日美ちゃんに廊下で話しかけられたことだった。
 ハキハキした口調の明日美ちゃんは場の話題を仕切ることが多い。肩くらいの黒髪を一つにまとめていて、動くたびにぴょこんと跳ねた。
「それならわたしはマドレーヌにしようかな」
 未来ちゃんの短い髪の毛が日の光を受け、淡い茶色に透ける。太い眉や丸い目など顔立ちがくっきりしている。生まれも育ちも沖縄らしいけど、親の仕事の都合で高校進学を機に関東に引っ越してきたのだそうだ。私を含めて三人とも、部活には今のところどこにも入る予定がなかった。
「それじゃ三日後の金曜のお昼に、みんなで食べるのはどうかな」
「うん、いいよ」
 明日美ちゃんの提案に返事をしてから、なんとなく教室を見渡す。
 目立つ生徒のグループや、部活つながりなど、クラス内で集団が緩やかに形作られている。私たちは多分、おとなしめな女子というくくりなのだろう。
 そのなかで一人の女子生徒が自然と目に入る。
 すずとうさんは、自分の席で文庫本を読んでいた。
 何の本なのかは書店のカバーがかかっているのでわからない。鈴木さんの周囲だけは昼休みの喧騒けんそうから隔離され、静寂を保っている雰囲気があった。
 今は離れた席に来ているけれど、私の本来の座席は鈴木さんのすぐ前にある。プリントを渡すときに目が合っても、まともに会話をしたことは一度もない。
 鈴木さんは芸能人みたいに華やかな顔立ちで、艶やかな黒髪は肩甲骨くらいまで伸びている。手足がすらっと長く、パンツスタイルがよく似合っていた。うちの高校はスカートかズボンを選べるのだ。スカートじゃない女子は各クラスに一人か二人いるけれど、うちのクラスでは鈴木さんだけだった。
 鈴木さんの外見は目を惹くから、入学直後は周囲が騒がしかった。男女問わずクラスメイトが集まり、上級生が廊下で声をかけるのも見かけたことがある。
 だけど鈴木さんは誰に対しても生返事で、遊びの誘いも断っているようだった。休み時間は読書をしていたかと思えば、ふいにふらっと姿を消したりする。そんなとき、何をしているのか誰も知らないようだ。
 そんな気まぐれな振る舞いを続けているうちに、誰も鈴木さんに声をかけなくなった。ただし当人は孤独な状況を気にする素振りすら見せていない。
 私は他人と衝突するのが苦手で、なるべく愛想よく振る舞うようにしている。だからこそ孤高とも呼べる態度を貫く鈴木さんに、ひそかな憧れを抱いていた。
「鈴木さん、相変わらず絵になるね。見つめたくなる気持ちもわかるよ」
 私の視線に気づいたのか、明日美ちゃんに声をかけられた。
「うん、そうだね」
 私が鈴木さんに興味を抱くのは、我が道を行く姿が気になっているからだ。だけどそう説明をしても、ちゃんとは伝わらない気がした。
「私たちと友達になってくれないかな。あの子が同じグループにいてくれたら、きっと一目置かれると思うんだ」
「えっと、そうかもしれないね」
 鈴木さんと一緒にいても、私たち自身の価値が上がるわけじゃない。ただ、そんなことを口に出したら、きっと場が白けてしまうだろう。だから私は話を合わせるために、とっさに緩やかな同意をしていた。
 私は明日美ちゃんたちに視線を戻す。でも心のなかでは鈴木さんのことを考えていた。どうすればあんなふうにひとりでも平然といられるのだろう。何に興味があって、どんな本を読んでいるのだろう。気になったけれど、私なんかが話しかけても、きっと迷惑に思われるだけに違いない。

 金曜は天気が崩れて朝から肌寒く、私はブレザーの下に厚手のカーディガンを着ることにした。
 前日に作ったチョコを通学用のバッグに入れようとすると、教科書やノートでいっぱいだった。教科書を学校に置きっぱなしにする子も多いけれど、私はなるべく持ち帰らないと落ち着かないのだ。
 今日は体育の授業があるため、ジャージを入れたトートバッグも持っていく。そこでチョコを詰めた紙袋をトートバッグに押し込んだ。
 高校の正門から校舎までは銀杏いちょうの木が並んでいる。風が少しあって、小さな緑の葉を揺らした。正面玄関を目指して歩いていると、未来ちゃんの姿を発見した。
「おはよ。今日は冷えるね」
「おはよう。あ、こっちの人もやっぱり寒いんだ」
 未来ちゃんは身体全体を縮ませ、ブレザーのポケットに両手を入れている。そこで今度は背後から明日美ちゃんに声をかけられた。
「おはよう。今日はコートじゃないんだ」
「まあね。いい加減、こっちの気候に慣れないと」
 未来ちゃんが困ったように笑う。
 入学してすぐに、今日みたいに寒い日があった。そのとき未来ちゃんは、冬の寒い日に着るようなダウンコートで登校してきた。
 コート姿の生徒は誰もいないため目立っていて、クラスの陽気な男子数人が「真冬かよ」とお笑い芸人のツッコミみたいなことを言った。近くにいた何人かの女子が「南国生まれだから仕方ないじゃん」とかばっていたけど、その口元は愉快そうだった。
 未来ちゃんは注目を浴びるのが好きではないらしい。盛り上がる人たちに愛想笑いで対応し、「こっちにあんまり慣れてなくてさ」と居心地悪そうにしていた。
 その日も寒波のせいで最高気温は十三度くらいしかなかった。朝の時点ではもっと低かっただろう。沖縄では二月でも十度を下回る日は珍しいらしい。低い気温に慣れていない未来ちゃんにとって、とても寒かったに違いない。
 そして今日もその寒かった日とあまり気温は変わらない。だけど未来ちゃんはコートを着ていなかった。我慢していないだろうか。心配しながらも、私は二人と一緒に教室に向かった。

 二限目は体育の授業だった。私がお手洗いを済ませて戻ると、未来ちゃんが教室で待っていてくれた。慌ててジャージの入ったトートバッグを手に取る。明日美ちゃんは先に行ったようだ。
「ごめん、お待たせ」
「ううん、気にしないで」
 廊下を歩く間も、未来ちゃんは片手をブレザーのポケットに入れていた。
「やっぱり寒い?」
 私が質問すると、未来ちゃんは沈んだ表情になった。
「気づかれちゃったか。正直に言うとかなり寒い」
「登下校のとき、コートとか着なくて大丈夫?」
「そんなことしたら浮いちゃうから」
 やはり前にからかわれたことが気になっているのだろう。
「風邪ひかないといいね。授業が終わったら、あったかい飲み物でも一緒に飲もう」
 はやし立てた人も悪気はなくて、盛り上げようとしただけなのだろう。その場の雰囲気をにぎやかにしたほうがいいと考える人は多い。だけど静かな空気を好み、不意にスポットライトが当たるといたたまれなくなる人もいるのだ。
「ありがとう。でも対策してるから大丈夫なんだ」
 更衣室ではまだ数人着替えていた。狭くてロッカーも足りないこの女子更衣室は、ほとんどの生徒が脱いだ制服や荷物を床に置くことになるため不評だった。聞くところによると男子更衣室も同じように窮屈らしい。
「あっ、危ない」
 未来ちゃんに手首をつかまれて引っ張られた。床の荷物につまずいたのか、クラスメイトがたたらを踏んで、私のいた場所に突っ込んできたのだ。もう少しでぶつかるところだった。
「ありがとう、未来ちゃん」
「どういたしまして」
 手首をつかんでくれた未来ちゃんの手のひらは、寒がりだから冷え性なのかと思ったけれど、意外にもとても温かかった。
 学校指定のジャージに着替え、畳んだ制服の上にトートバッグを置く。未来ちゃんも制服を畳んで私の服の真横に並べる。それから私たちは急いで校庭へと向かった。

 お昼休みは私の席の近くに集まった。明日美ちゃんの机を男子が陣取ってしまったせいだ。お昼ごはんを食べ終えると、お待ちかねのお菓子の時間がやってきた。
「ひさしぶりに焼いたけど、結構うまくいったよ」
 明日美ちゃんが可愛らしい紙箱を開けると、シンプルなクッキーが入っていた。四角や丸以外にハートやネコの形もある。味はプレーンとココアの二つらしく、手作りっぽい素朴な雰囲気だ。
「わあ、美味おいしそう」
「本当だ。美味しそうだね。わたしのマドレーヌも口に合えばいいけど」
 未来ちゃんはリボンをあしらったビニール袋を開けた。なかには二色のマドレーヌが入っている。それぞれバニラと黒糖らしく、売り物みたいに形が整っていた。
「未来ちゃんのも美味しそうだね」
「黒糖味は初めてかも。食べるの楽しみだなあ」
 二人ともお菓子作りの経験者だけあって上手だった。それに包装の仕方も可愛らしい。私なんてただのビニールの袋で包み、適当な紙袋に入れただけなのだ。
 私が出すのを躊躇ためらっていると、明日美ちゃんが急に横を向いた。
「鈴木さんも一緒にお菓子を食べない?」
 私の後ろの席で今日も読書にいそしんでいた鈴木さんが文庫本から顔を上げる。
「私はいい」
 そっけなく答え、読書の世界に戻っていく。
 取りつく島もない返事に、明日美ちゃんがあっけに取られている。同じように冷淡な態度をされて、全く相手にされなかった生徒たちは何人もいた。
 ショックを受けた様子の明日美ちゃんには申し訳ないけれど、はっきり断れる鈴木さんをかっこいいと思った。
「えっと、それじゃ次は私だね」
 その場の雰囲気を変えようと、私は紙袋をトートバッグから取り出した。みんなのように慣れてはいないけど、個人的にはうまくできたと思っている。
 喜んでもらえたらいいなと期待しながら、私は紙袋からチョコを取り出す。既製品のチョコを溶かして固めただけとはいえ、私にとっては生まれて初めての手作りのお菓子なのだ。
「えっ?」
 机の上に置いた瞬間、思わず声が出ていた。
 チョコの表面が白く変色していたのだ。

 型抜きチョコを作るにあたって、有名な製菓会社の公式ホームページを参考にした。
 チョコ作りの基本について説明してあるなかで、作るときに失敗したり、保存方法を間違えたりすると、チョコの表面が白くなると書いてあった。そうなると味や食感が悪くなってしまうらしい。
「ああ、ファットブルームだね」
 明日美ちゃんが気の毒そうな顔でつぶやいた。チョコが劣化して表面が白くなる現象をブルームと呼ぶとホームページにも記されていた。すると未来ちゃんが悲しそうな表情で口を開いた。
「テンパリングってシンプルだけど、意外に難しいよね」
 最初、型抜きチョコは単に溶かして流し込めばできると思っていた。だけど作り方の解説によると、テンパリングという工程が必要だと説明してあった。
 テンパリングとはチョコを溶かすときに、細かな温度調節をする作業のことだ。美味しいチョコを作るために必要なのだそうだ。ほんの二、三度の違いで性質が変わるらしい。
 テンパリングに失敗すると、ファットブルームが起きてしまう。でも私は戸惑っていた。昨日の夜、完成したチョコを型から外してビニールで個包装し、紙袋に入れた。その時点では問題なかったはずなのだ。
「レシピ通り、正確にやったのに」
 温度管理も守ったし、不純物の混入にも気を配った。初めてのお菓子作りだからこそ、細心の注意を払ったつもりだった。
「どんまい。初心者に失敗はつきものだよ」
 未来ちゃんがフォローしてくれても、私は納得できなかった。
「でも、ちゃんとやったんだ」
 明日美ちゃんが、私の二の腕にぽんぽんと軽く触れた。
「きっと単なるうっかりミスだよ。はるちゃんって普段からぽわぽわしているからさ。自分でも気づかないうちに、大事な工程を抜かしちゃったのかもね」
「だけど」
 そこまで言いかけて、私は口をつぐんだ。失敗していない自信はあっても、間違えない人間はいないのだ。ブルームができた以上、私はミスをしたのだろう。かたくなに失敗していないと言い張っても、気まずい空気になってしまうだけだ。
 私はごまかすように笑みを作った。
「おかしいなあ。でも、知らないうちに間違えちゃったのかも。昔からこういうことが多いんだ。みんなごめんね。美味しいチョコを食べてほしかったんだけど」
 明日美ちゃんが優しげに目を細めた。
「気にしないで。というか謝る必要なんてないって。そういうちょっと抜けているところが、はるちゃんの魅力だと思うな。何というか、癒し系ってやつ?」
 一緒にいて和むとか、癒しキャラとかは、中学時代の私の役割だった。高校でも自然と同じ立ち位置になるみたいだ。すると明日美ちゃんがまたも横を向いた。
「ねえねえ。鈴木さんも、はるちゃんは癒しキャラだと思わない?」
 先ほどそっけなくされたのに、果敢にもまた話しかけるなんて思わなかった。明日美ちゃんのチャレンジ精神に驚かされる。
 鈴木さんは文庫本から顔を上げ、小さく息を吐いた。
「別に思わない。それに会話は聞こえていたけど、失敗を茶化すのは好みじゃない」
 場が一瞬で凍りつくのがわかった。
「別に茶化しているわけじゃないけど」
 明日美ちゃんが反論すると、鈴木さんが首をかしげた。
「私にはそう聞こえたけど。それと芝山さんはチョコを正確に作ったと言っていたよね。でもそれを信じずに、失敗したと決めつけている。それはとても失礼なことだと思う」
 明日美ちゃんが不満そうに口を開いた。
「でも、ファットブルームができているのは事実だし」
「私は料理に詳しくないけど、原因があるから起きるんだよね。中田さんも玉城さんもお菓子作りが得意なら、芝山さんのキャラクターのせいにするよりも、調理工程を聞き出して原因を特定するほうが建設的だと思う」
 そう言うと鈴木さんは文庫本に視線を戻した。
「レッテルを貼って面白がるとか、笑ってその場をやり過ごすなんて、無意味だよ」
 私は何も言い出せず、明日美ちゃんと未来ちゃんも黙っていた。すると廊下から野太い声が飛び込んできた。
「鈴木塔子はいるか」
 一年の学年主任の先生が教室をのぞき込んだ。四十代後半の数学教師で、授業が厳しいことから、早くも生徒から恐れられている。鈴木さんが文庫本を机の上に置いた。
「何でしょうか」
「進路の件で話がある。今から指導室に来なさい」
「わかりました」
 鈴木さんが澄まし顔で教室を出ていく。長い黒髪をなびかせる姿を、クラスメイトたちが目で追っている。入学早々、学年主任の先生から進路について呼び出されるなんて、何の話があるのか見当もつかなかった。
「え、こわ。鈴木さんってあんな子だったんだ」
 明日美ちゃんが口を半開きにして驚いている。それから未来ちゃんが私に心配そうなまなしを向けてきた。
「はるちゃんは大丈夫?」
「えっ、全然平気だよ」
 笑顔を返すけど、内心では激しく動揺していた。『笑ってその場をやり過ごすなんて、無意味だよ』という言葉が、胸に深く突き刺さっていた。
 私はこれまでずっと、そんな風に生きてきたから。

 放課後、私は駅近くにある図書館に足を運んだ。県内でも大きな図書館で、たくさんの蔵書が収められている。
 本が並ぶ光景には親しみがあった。読書好きの両親に連れられて子供のころはよく図書館に行っていたし、インターネットで調べるのに行き詰まったら紙の本を手に取りなさいと、昔から言い聞かせられていたのだ。
 596という分類の書棚に製菓の本が並んでいた。私は初心者向けのお菓子作りの本や、有名なショコラティエが書いたチョコ作りの本を数冊選び、閲覧席でテンパリングのページを開いた。
 読み比べたけれど、基本的にどの本も内容は同じだった。
 ファットブルームの原因として挙げられる要素は二つあった。一つはテンパリングの失敗で、もう一つは完成後に外部から二十八度以上の熱が加わることだ。だけどテンパリングは成功したはずだし、どこかで熱せられたとも思えない。そのため調べ直しても、ファットブルームが起きた理由はわからないままだった。
 やっぱり私のうっかりミスなのかな。
 明日美ちゃんと未来ちゃんの作った洋菓子はどちらも美味しかった。定期的にお菓子を持ち寄ろうという話になったけど、次も失敗するのではないかと不安が拭えない。
 静かにため息をつき、読みやすかった一冊だけ選んで他の本を棚に戻す。図書館に来るのはひさしぶりだったので、私は館内をぶらぶらと歩くことにした。
 当たり前だけど、図書館にはたくさんの本が置いてある。一生のうちに一度も触れないであろう情報が無数にあるのだ。その事実を目の当たりにすると、自分がひどく退屈でちっぽけな存在みたいに思えてくる。
 何かにすごく詳しかったり、情熱を注ぐものがある人が羨ましかった。私もいつかそんな風になりたい。だけど、そうなるためには何をすればいいのか、どんな道を選べばいいのか、選ぶためには何が必要なのか、今の私には何もわからなかった。
「ひゃっ」
 物思いにふけりながら角を曲がった瞬間、本棚の陰から歩いてきた人とぶつかってしまった。お互いに転ぶことは避けられたけど、数冊の本が床に散らばる。
「ごめんなさい」
 慌ててかがむと、『探偵になるために』『探偵事務所・興信所の開設マニュアル』といった題名が目に入った。本を手に取った瞬間、乱暴にひったくられる。
「返して!」
 知っている声に顔を上げると、鈴木塔子さんだった。本を抱えながら驚いた顔をしている。
「……見た?」
 身体をねじって、抱えた本を隠す。顔を紅潮させてにらみつけてくる姿は、人間を警戒する野良猫を連想させた。
 不意の事態とはいえ、本の題名を勝手に見るのは失礼かもしれない。だけど私は聞かずにはいられなかった。
「……鈴木さんは探偵を目指しているの?」
「それが何」
 鈴木さんの眉間に深いしわが寄る。それと同時に私は声を上げていた。
「かっこいい!」
 私は興奮しながら鈴木さんに近づく。私の大声に驚いたのか、鈴木さんが焦った様子で周囲をうかがった。
「ちょっと、声が大きい」
「ごめんなさい。でも探偵になりたいなんて、本当にすごいって思ったから」
「わかったから、とりあえずあっちに行こう」
 鈴木さんに手を引かれ、図書館の出入り口付近に連れていかれる。歩くのが早くて、ついていくのが大変だった。ゲートを出る前に鈴木さんは自動貸出機で手続きを済ませた。お喋りができるロビーで向き合って、私はようやく落ち着いてきた。
「ごめんね、図書館で大声を出すなんてマナー違反だった」
 非常識だったと反省していると、鈴木さんは渋面を作りながらたずねてきた。
「ねえ、芝山さん。かっこいいって、どういうこと?」
 鈴木さんの質問に、私は反射的に答えていた。
「そのままの意味だよ。きっと素敵な探偵になると思ったから」
 探偵についてはテレビドラマや漫画でしか知らない。実際にどんな仕事をするのかわからないけど、我が道を貫く鈴木さんなら似合うと思ったのだ。探偵として調査をする鈴木さんは、絶対にかっこいいに違いなかった。
 鈴木さんが頬を赤らめながら顔をらした。
「ありがとう。そんな風に言われたの初めてだよ」
「そうなの?」
 意外だった。誰もが同じように考えると思ったのだ。すると鈴木さんが何かを思い出したのか不愉快そうに顔をゆがめた。
「親は本気にしていないし、親戚からも笑われた。中学時代のクラスメイトも引いてた。今日だって進路指導の先生から、真面目に考えろって説教されたんだ」
「あ、だから呼び出されたんだ」
 おそらく先日の進路調査票に探偵と書いたのだろう。
「私は高校を卒業したら、すぐに探偵をはじめたい。でも大人は大学に進学しろって聞く耳すら持たない。本当に腹立たしい」
 鈴木さんがぎゅっと本を抱きかかえた。
「だからその本を借りたの?」
「週明けにまた進路指導の先生と話し合いをするから、これを参考にして説得するつもり。今度は絶対に説き伏せてやる」
 鈴木さんが借りたのは探偵を職業にするための本ばかりだった。だけどそこで鈴木さんが難しい顔で目を伏せた。
「ただ、私だってわかってる。探偵なんて何の保証もないし、危険だって多い。みんなが反対するのも当然だと思う」
 鈴木さんは何度も夢を否定されてきたのだろう。私は何の目標もないから、その苦しさはわからない。だけど想像した上で、私の気持ちを伝えることくらいはできる。
「私には探偵の仕事がどれくらい大変かわからない。反対する人も鈴木さんのためを思っての発言なのかもしれない。だけどなりたいものがあって、それを目指すためにがんばる人を、私は心から尊敬するよ」
 私に何もないからこそ、夢に向かって走る人をまぶしく思う。鈴木さんは何度もまばたきをしてから、柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがと。……それと昼間は言い過ぎてごめん」
「ううん、気にしていないよ」
 鈴木さんの笑顔を初めて見た。冷淡な印象だったのに、急に花が咲いたみたいになる。それがあまりにも魅力的すぎて、胸がどきどきしはじめたのだった。

 鈴木さんは自分が抱えた本を見て、不思議そうに首をひねった。
「あれ?」
 先ほど私の手から、洋菓子の本も一緒に奪ったことに気づいたらしい。自動貸出機で手続きしたときも、手元を確認せずに一緒に借りてしまっていたのだ。
 私は鈴木さんに差し出された洋菓子の本を受け取った。
「チョコの作り方、調べ直しているんだね」
「そうなんだ。でも何冊か読み比べたけど、原因はまだわからなくて」
 調べようと思ったのは、鈴木さんに指摘された影響も大きかった。
「心当たりは全くないの?」
 私は首を横に振った。
「確かにレシピ通りに作ったはずなのに、私のチョコにはファットブルームができちゃったんだ。私は初心者だから見落としがあるのかもしれないし、自分一人で考えて理由を見つけるのは限界かなって……」
 きっと専門家なら、あっという間に見抜ける程度の失敗なのだろう。明日美ちゃんと未来ちゃんに相談することも考えた。だけど鈴木さんとのやりとりもあって、この話題に触れにくかった。そのため一人で図書館にやってきたのだ。
「それなら私が隣で見ていようか?」
「へっ」
 突然の提案に、返事の声が裏返ってしまう。
「芝山さんのチョコ作りを私が観察する。そうすれば本人が自覚していなかった原因を発見できるかもしれない。気づいたらあとは修正すれば解決でしょう。実を言うと芝山さんが成功したと断言したのになぜ失敗したのか、私も興味があったんだ。もちろん、嫌なら別にいいけど」
「全然嫌じゃない。ぜひお願い!」
「それじゃ決定ね」
 互いの予定をすり合わせた結果、早速明日の土曜に決まる。しかも調理の条件を同じにするため、鈴木さんが私の家に来てくれることになった。
 鈴木さんは借りたい本がまだあったのを思い出したらしく、図書館に戻っていった。
 帰り道、ずっと現実感がなかった。鈴木さんとスマホで連絡先を交換し、さらに一緒にお菓子作りをすることになるなんて。何よりも将来の夢まで知ってしまったのだ。自宅に着いてからもずっと、ふわふわと宙に浮いているような気分だった。

 翌日、鈴木さんは約束の午後一時半に私が暮らすマンションにやってきた。白地のボーダー柄のシャツにデニムパンツ、シンプルなベージュのジャケットという格好が細身で手足の長いスタイルに似合っていた。
 私の服装は、だぼっとしたブルーのチェックのワンピースにカーディガンを選んだ。まるっこい体型を隠すためのコーディネートだ。
「今日はよろしくお願いします」
 鈴木さんが我が家にいるのは不思議な気分だ。鈴木さんはダイニングのテーブルに、数冊の本を置いた。どれも製菓関係の本で、図書館のラベルがついていた。
「観察する以上、私もテンパリングについて勉強してきた。芝山さんがどんなさいな失敗をしたとしても見逃さないから」
 図書館に戻ったのは、チョコ関連の本を借りるためだったのだ。
 鈴木さんが借りた本は私と方向性が違っていた。私は初心者に向けたお菓子作りの本ばかりを読んでいた。だけど鈴木さんの借りた本は専門的な内容で、料理を科学的に分析する料理書まであった。
 どの本も多分、私の目に入っていたはずだ。だけど難しそうだと決めつけて、無意識に視界から外していたのかもしれない。
「ありがとう。今日のためにこんなに調べてくれたんだ」
「昔から気になったことは徹底的に調査したくなるんだ」
 鈴木さんが顔をしかめる。
「我ながら面倒な性分だと思う。昨日の昼休みもそうだった。芝山さんが正確に作ったと言ったのに、あとの二人はミスだと決めつけたでしょう。もっとしっかり調べて原因を特定すればいいのにって不満に思った気持ちを、あんな風に発散しちゃったんだ」
「もしかして、たまに休み時間に姿を消すのも、何かの調査だったりするの?」
「授業で気になったことを図書館で調べたりとか、校内にどんな草木が生えているか確かめたりとか、土壌の違いを分類したりとか、そんなことをしているだけだよ。いつどんな情報が役に立つかわからないからね。気になったらすぐに確認しないと気が済まないんだ」
「なるほど。探偵にぴったりな性格だね」
 探偵を目指すため、色々な知識を蓄えようとしているのだろう。その気質は捜査する上で何かの役に立つに違いない。鈴木さんが照れくさそうにほほんだ。
「普段は周りから面倒に思われてばかりだから、そう言ってもらえてうれしい」
 鈴木さんの輝く笑顔を急に見せられるのは心臓に悪い。
「それじゃ始めるね」
 私はどきどきを抑えながら、チョコ作りに取りかかった。まずは溶かしやすくするため、包丁で細かく刻んでいく。すると鈴木さんが私の作業を見ながら口を開いた。
「今回のためにチョコの性質を調べたけど、とても興味深かった。テンパリングの理論なんて化学実験そのものだった」
「そうなの?」
 テンパリングが必要なのはわかったけど、理屈までは難しそうなので調べていない。
「チョコにはカカオバターという成分が入っている。これはチョコのとろりとした舌触りの元になる油脂分なんだ。そしてカカオバターにはⅠ型からⅥ型まで六つの結晶があって、それぞれ融点が異なる。テンパリングは人間にとって最も美味しいⅤ型のカカオバターにするために必要なんだ」
「へえ、そうなんだ」
 私は鈴木さんが語る理論に耳を傾けながら腕を動かす。
 Ⅴ型のカカオバターは約三十三度で溶けはじめる。つまり人間の体温でとろりと溶ける性質を持っているそうなのだ。
 刻んだチョコを金属のボウルに入れ、五十度のお湯で湯せんする。チョコがボウルのなかで溶けていく。この時点でカカオバターの結晶は全て完全に溶けるという。
 我が家には幸いにも調理用の温度計があった。そのため細かく温度を計測して、レシピにある温度を忠実に守っていく。
 温度と同様に、水分にも注意が必要だった。少しでもチョコに水分が加わると、チョコのなかで油脂と分離してしまうらしい。そのため水が入ってしまうと取り返しがつかず、チョコレートドリンクにするしかなくなってしまうのだそうだ。
 次は湯せんのお湯を水に替え、混ぜながらチョコを二十八度になるまで冷やす。この作業によって、カカオバターの結晶はⅢ型とⅣ型になるという。そこからさらに湯せんして、今度は三十一度から三十二度まで上げる。こうすると今度はⅢ型とⅣ型の結晶が溶け、カカオバターが人間にとって最適なⅤ型の結晶ばかりになる。
 この際に温度管理に失敗すると、カカオバターがⅥ型結晶になってしまう。そうなると口溶けが悪くなり、表面に白い膜が浮かんでしまうのだ。
 ハートや星などの型に流し込み、あとは固まるのを待てば完成だ。冷蔵庫だと急速に冷えることで表面に水滴がつき、失敗する可能性が出てくるため、常温で二時間ほど放置する必要があった。
 この工程を経ることで、チョコは万人に愛される口溶けになる。私は鈴木さんがよどみなく話すテンパリングの解説を聞きながら作業を終えることになった。
 前回は漠然と指示通りに作業をしていた。だけど理論を知ることで、今日は迷いなく取り組めたような気がする。
 達成感を覚えていると、鈴木さんが口を開いた。
「スプーンを使いたい」
「ちょっと待って」
 引き出しから金属製のスプーンを出して鈴木さんに渡す。受け取った鈴木さんは、ボウルに残ったチョコをスプーンの先につけた。
 金属は熱伝導率が高いため、チョコはあっという間に冷えて固まる。これはテンパリングが成功したかを素早く確認する方法だった。
 スプーンの先のチョコは光沢があり、表面がすべすべしている。失敗の証であるブルームは見受けられない。鈴木さんがスプーンの先をくわえ、しばらく味を確かめている。そしてすぐに笑顔になった。
「問題なく美味しいよ」
「よかった」
 私はほっと息をついた。
「横から見ていても、ミスはなかったように思う」
 本当に上手くいったかどうか確認するには、二時間後に冷えて固まるのを待つ必要がある。だけど現段階では成功していると考えられた。そうなると疑問が生まれてしまう。
「どうして失敗したんだろう」
 二度目だから慣れたことで、迷いなく手が動いたのも事実だ。だけど記憶を掘り返しても、最初の作業でも同じことをしていたはずなのだ。
 鈴木さんが型抜きチョコに鋭い視線を向けながら、確信に満ちた声で言った。
「芝山さんは一度目も成功していた。つまりファットブルームの原因は、他にあることになる。それならなぜファットブルームが起きたのか検証しよう」
 前回、ミスがあった可能性は完全には否定できない。だけど鈴木さんは私の主張を全面的に信じてくれている。その気持ちがありがたかった。
「まずは初歩的な確認をするよ。表面にあったのはシュガーブルームではないよね」
「うん、ファットブルームで間違いないよ」
 製菓の本によると、ブルームにはシュガーとファットの二種類があった。どちらもチョコ作りの失敗で、表面が白くなることも共通している。
 シュガーブルームはチョコの表面に水分がつくことで糖分が溶け出す現象だ。水分が蒸発すると粉が吹いたように糖分が白く見えるのだ。
 ファットブルームは油脂分が原因で、チョコの表面に白い膜のようなものが浮かび上がる。私のチョコに発生したのは見た目から、ファットブルームで間違いなかった。
「テンパリングが原因ではないファットブルームとなると、高温が原因だと考えられる」
「そのはずだね」
 私がうなずくと、鈴木さんが高温によるファットブルームの仕組みを説明してくれた。
 Ⅴ型結晶のカカオバターは二十八度くらいから徐々に溶けはじめる。そして一度溶けたⅤ型結晶が冷えて固まると、口溶けの悪いⅥ型結晶で安定してしまう。そのⅥ型は結晶が大きいため、白く見えてしまうのだそうだ。
「つまり私のチョコは作ったあとで、二十八度以上に熱せられたってことかな」
「そうなるね」
「でも、そんな心当たりはないよ」
 チョコは完成してから、私の部屋に置いていた。その日の最高気温は十八度くらいだったはずだし、暖房もつけていない。引き出しにしまったため直射日光にも当たっていない。通学は自転車なので、電車やバスなどで熱に触れる機会はなかった。
 私が説明すると、鈴木さんは首をひねった。
「教室での保管方法は?」
「ジャージ用のトートバッグに入れて、机の横のフックにかけておいたよ」
「二十八度以上になる状況が思いつかないね」
 私の席は窓から離れているため、ここでも日光に当たる心配はなかった。スマホは通学バッグに入れていたし、買い替えたばかりなので電池が発熱するとも思えない。
 その後も検討を重ねたけど、原因はわからなかった。
 二時間後、型抜きチョコが固まった。表面は艶やかで、見るからに美味しそうだ。テンパリングに成功したチョコはわずかに縮むため、型から簡単に取れるらしい。失敗した場合は密着したまま外れないのだそうだ。チョコは型からするっと取れた。
「鈴木さんもどうぞ」
「ありがとう」
 鈴木さんが星型のチョコを口に含む。すると徐々に表情が緩んでいった。私もチョコを口に入れる。舌の上で転がすとゆっくり溶け、特有の芳香と甘さが立ち上ってくる。
 誰にでも買える市販のチョコを溶かしただけに過ぎない。だけど自分が手間を加えたというだけで、不思議と特別な味に思えてくる。
「美味しい」
「そうだね」
 鈴木さんが微笑んでいる。クラスの誰も知らないであろう表情だと思われた。
 ファットブルームの原因はいまだにわからないけど、鈴木さんの笑顔をまた見ることができた。だから失敗して良かったなんて、不純な考えが頭に浮かんだのだった。

 チョコを作り終えたので、今日の用件はおしまいだ。時刻は午後四時、鈴木さんはバッグに図書館の本を入れた。それから二人で玄関に向かう。
「鈴木さん、今日はありがとう」
「私も疑問を解消したかっただけだから、気にしないで」
 鈴木さんが玄関でスリッパからスニーカーに履きかえた。
「それと呼び方は塔子でいい。みょうは平凡過ぎて好きじゃないから」
「それじゃ塔子ちゃん、これ持っていって」
 名前で呼ぶことに気恥ずかしさを感じながら、私は先ほどできたばかりの型抜きチョコの入った紙袋を塔子ちゃんに渡す。
「それと私も春乃でいいよ」
「ありがとう、春乃」
 塔子ちゃんと一緒にマンションの外廊下に出る。昨日と打って変わって陽射しが強かった。
「明日から暑くなりそう。チョコの保管方法も考えなきゃだね」
 明日から気温が急上昇すると天気予報が伝えていた。暑過ぎてもうんざりするけど、それで救われる人もいることを思い出した。
「これで未来ちゃんも過ごしやすくなるかな」
「玉城さんがどうしたの?」
 無意識につぶやいていたらしい。二人で並んでエレベーターまで歩いていく。
「未来ちゃんは寒さに弱いんだ。だから早く暖かくなればいいと思って」
「玉城は沖縄の苗字だよね。寒いのが苦手なのも無理はないか。そういえば少し前にも厚手のコートを着て登校していたな」
 普段はクラスメイトと交流していないのに、しっかり観察しているらしい。ボタンを押すけれど、エレベーターは離れた階にあった。
「本当なら寒い日はもっと厚着をしたいみたい。だけど周りから浮いちゃうから我慢しているんだって」
 塔子ちゃんが顔をしかめる。
「みんなと同じにする必要なんてないのに」
「昨日の体育の時間のときに、心配で聞いてみたの。そうしたら対策しているから大丈夫だって言っていたけど、無理していないか心配なんだ」
「対策というと、機能性インナーを着るとかかな」
 エレベーターのドアが開く。乗り込んで一階のボタンを押すと、ドアが閉まって下がりはじめる。
 私は着替えのときのことを思い出した。
「すぐ隣で着替えたけど、ヒートテックみたいなのは着ていなかったよ」
 発熱や保温を売りにした肌着は着ていなかったはずだ。更衣室は狭かったため、肩が触れそうな近さで着替えた。でも、そうすると未来ちゃんの言っていた対策とは何だったのだろう。
 すると塔子ちゃんの声音が鋭くなった。
「玉城さんについて、何か気になったことはない?」
 もう一度思い出してみるけど、気になる点なんて何も思いつかなかった。
「別に普段通りだったよ。ただ、やっぱり寒かったみたいで、ずっとブレザーのポケットに両手を入れていて気の毒だったな」
「ポケットに手を?」
 すると塔子ちゃんがうつむき、つぶやくように口を開いた。
「あれだけ厚いコートを着ていたんだから、寒さにはかなり弱いはず。だったら可能性は充分に考えられるか」
 塔子ちゃんが突然、顔を上げた。
「ねえ、春乃。チョコはトートバッグに入れていたって話したけど、体育の時間はどうしていたの?」
「えっと、ずっと入れたままだった」
 私はチョコをトートバッグから出すのを忘れてしまった。そのため体育の時間、チョコは更衣室にあったと私は塔子ちゃんに説明した。
 一階に到着したエレベーターのドアが開く。
 それと同時に塔子ちゃんが叫んだ。
「ファットブルームの原因が、わかったかもしれない」
 塔子ちゃんの目が爛々らんらんと輝いていて、普段の冷静な様子とくらべると別人みたいだった。

 週明けの月曜は、予報通りに暖かかった。放課後、帰り支度を済ませて席を立った私に、未来ちゃんが話しかけてきた。
「ちょっといい?」
「うん」
 今日の二限目がはじまったくらいから、未来ちゃんの視線を感じていた。そのあとも何か話したそうなそぶりだったけど、何も言ってこなかった。私たちは教室を出て廊下を歩く。先を進む未来ちゃんは黙り込んでいて、背中から緊張が伝わってきた。
 うちの高校には中庭がある。四方を校舎に囲まれ、ベンチが備えつけられている。運良く空いていたので並んで座ると、未来ちゃんは足元に視線を向けた。
「はるちゃんに謝りたいことがあるんだ」
「もしかして、ファットブルームのこと?」
 私が先に訊ねると、未来ちゃんは目を丸くしてからうなずいた。
「実は、そうなんだ。はるちゃんが気づいているって、鈴木さんから聞いたの。いつの間にか鈴木さんと仲良くなっていたんだね」
「色々あってね」
 私は内心でため息をつく。
 帰り際のマンション前で、塔子ちゃんは推理を話してくれた。その内容を聞いて、私は正解の可能性が高いと思った。だけど私はこのことを胸に秘めておきたいと伝えた。私は怒っていないし、未来ちゃんを追及するべきだとも思わなかったのだ。
 だけど塔子ちゃんは未来ちゃんに伝えてしまった。おそらく今日の一限目が終わったあとの休み時間の出来事だったのだろう。そして推理は見事に当たっていたのだ。
 チョコが溶けた原因は、使い捨てカイロだった。未来ちゃんはあの日、苦手な寒さへの対策として、制服のブレザーのポケットにカイロを入れていたのだ。
 更衣室で手首をつかまれたときに感じた温かさは、未来ちゃんが直前までポケットのなかのカイロで手を温めていたからなのだろう。その事実を塔子ちゃんに伝えると、推理を確信した様子だった。
 うちの高校の更衣室は狭くてロッカーも足りない。そのため脱いだ服を床に置くことになる。私と未来ちゃんはすぐ隣で着替え、畳んだ制服を並べて置くことになった。
 私はうっかりチョコを出し忘れたトートバッグを畳んだ制服の上に載せたため、隣にある未来ちゃんの制服と接することになった。その結果、ブレザーのポケットに入れたままの使い捨てカイロとチョコが密着し、熱が伝わってしまったのだ。
 使い捨てカイロの熱は四十度以上になる。制服やトートバッグの布地を間に挟んでいても、二十八度を簡単に超えただろう。そして熱は布地や紙袋を通じて、じんわりと伝わった。そのためチョコの表面を溶かす結果になったのだと思われた。
 溶けたチョコは体育の時間のあとに、常温で冷えて固まった。その結果、ファットブルームが生じてしまったのだ。
「ごめん。はるちゃんのチョコが溶けたのは私のせいなんだ」
 私は首を横に振った。
「謝る必要はないよ。私がチョコを更衣室に持っていったせいでもあるんだから」
 今回の件は誰かが意図したものではない。偶然が重なった結果に過ぎないのだ。だから胸にしまっておこうと思っていた。
 未来ちゃんの表情は晴れないままだ。
「ううん、それだけじゃない。ファットブルームを見た瞬間、使い捨てカイロのせいかもって気づいたの。だけど私はそのことを黙っていたんだ」
「……そうだったんだ」
 未来ちゃんの瞳は不安で揺らいでいた。私たちは高校に入学してまだ一か月もっていない。お互いのことをほとんど知らないし、小さな出来事でクラスの人間関係が変わる可能性がある。
 さらに未来ちゃんは遠い場所から引っ越してきた。気候も習慣も違うなかで、誰よりも心細かったはずだ。だからみんなに季節外れのダウンコートを指摘されたことで不安になってしまい、寒さを我慢することを選んだ。
 未来ちゃんは使い捨てカイロを持ってきたことを隠していた。それも周囲からダウンコートのときのようにからかわれることが怖かったからなのだろう。
 過ちを犯したなら、正直に話すのが一番いいのはわかっている。だけど誰でも正しい選択ができるとは限らない。小さな失敗をとっさに隠してしまうことくらい、誰にだってあるはずだ。
 私は未来ちゃんの目を真っぐに見つめる。
「それじゃ今度また、美味しいお菓子を作ってほしいな。未来ちゃんのマドレーヌ、本当に美味しかったから」
「そんなことでいいなら、喜んで作るよ」
 未来ちゃんが目の端に浮かんだ涙を指でぬぐった。
「はるちゃんは優しいね。見知らぬ土地に引っ越すのは怖かったけど、はるちゃんと出会えて本当に良かった。これからもどうか仲良くしてね」
「うん、よろしくね」
 中庭にはたくさんの緑があふれていた。どこかの教室からギターの音が流れてくる。きっと軽音部だろう。数年前に流行った人気バンドの曲は、何度も途切れながらも少しずつ先に進もうとしていた。

 先に帰る未来ちゃんを見送り、私は進路指導室に向かった。今日の放課後、塔子ちゃんと進路指導の先生の話し合いが行われるはずだ。すると私が到着するのと同時に、進路指導室から塔子ちゃんが出てきた。
 塔子ちゃんは眉間に深い皺を寄せていた。学年主任の先生はいつも通り不機嫌そうな表情で、「気をつけて帰りなさい」と告げて去っていった。
「どうだった?」
 私が駆け寄ると、塔子ちゃんがため息をついた。
「探偵として生計を立てる方法を、私なりに説明した。ある程度納得してもらったと思う。ただ、先生が提案してきた進学プランも悪くなかった。法学部で刑法を学んだり、心理学部で犯罪心理学を習得するのも、探偵業の役に立つかもしれない」
 先生を説得すると意気込んでいたけど、逆に説き伏せられつつあるらしい。
 探偵に必要な知識はわからないし、塔子ちゃんが探偵業を目指す理由もまだ知らない。だけど私たちは高校に入ったばかりなのだ。進むべき道を決める時間はたくさんあるはずだ。
 二人で正面玄関に向かう。塔子ちゃんはやっぱり歩くのが早かった。
「どうして未来ちゃんに推理を話しちゃったの?」
 私が訊ねると、塔子ちゃんが澄まし顔で答えた。
「ファットブルームを見た直後、玉城さんは真っ先にテンパリングが原因だと言ったよね」
「えっと、そうだったかな」
 塔子ちゃんは私たちの近くの席に座っていた。読書に集中していたように見えたけど、私たちの会話を聞いていたらしい。
「あの段階なら、外部の熱が原因の可能性もあった。だけど玉城さんにはカイロの熱が原因だという心当たりがあったのだと思う。だから自分に疑いが向くのを避けるため、とっさにテンパリングが原因だと断言した。私はそう推理したんだ」
 未来ちゃんも先ほど同じことを打ち明けた。塔子ちゃんは推理の時点で、すでに気づいていたのだ。塔子ちゃんが淡々とした口調で続ける。
「チョコが溶けたのは不幸な事故かもしれない。だけど誤魔化したのは故意だよね。だからこの件はちゃんと話し合われるべきだと思ったんだ」
「でも私は本当に怒ってなかったのに」
「変にわだかまりを抱えるより、打ち明けたほうがすっきりするでしょう」
「……そうかも」
 隠し事をしたままなら、未来ちゃんは私に後ろめたさを抱え続けることになる。雨降って地固まるということわざもある。私と未来ちゃんはこの出来事をきっかけに、前以上に仲良くなれる気がしている。
 下駄箱で靴を履き替えるとき、塔子ちゃんが私の顔をじっと見つめてきた。目が合った途端に、塔子ちゃんが慌てた様子で視線を逸らす。
「余計なことをした自覚はある。……もしかして怒ってる?」
「ううん、怒ってないよ」
 平然とした態度に見えたけれど、どうやら心配していたらしい。私の返事にあんしたのか、塔子ちゃんが小さく息を吐いた。
 我が道を進んでいるのかと思ったら、さいなことを気にしたりもする。私はまだまだ塔子ちゃんのことを知らないみたいだ。
 正面玄関を出る。あと数日もすればゴールデンウィークがはじまる。そのため帰宅する生徒たちもどこかそわそわしているような気がした。
「実は私、将来の夢が何もないんだ」
 突然の打ち明け話に、塔子ちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「高校一年生なんてそんなものでしょう」
「いつか私も塔子ちゃんみたいに、やりたいことが見つかるかな」
 塔子ちゃんは小さく肩をすくめ、冷淡に言い放った。
「さあ、どうだろう」
 それから塔子ちゃんが柔らかく微笑んだ。
「でも春乃なら、きっと見つかるよ」
 風がそっと頬をでた。太陽の光は強まりつつあるのに、風はまだひんやりとしている。
 私は将来、何になれるんだろう。
 そのことを考えると、少し前までは不安しかなかった。だけど今では楽しみな気持ちが芽生えている。私は塔子ちゃんと並んで歩きながら、これからはじまる高校生活に思いをせた。

(第二話へ続く)

著者プロフィール
友井羊(ともい・ひつじ)
1981年、群馬県生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。2011年『僕はお父さんを訴えます』で第10回『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞し、12年小説家としてデビュー。他の著書に『スープ屋しずくの謎解き朝ごはん』シリーズ、『スイーツレシピで謎解きを 推理が言えない少女と保健室の眠り姫』『無実の君が裁かれる理由』『放課後レシピで謎解きを うつむきがちな探偵と駆け抜ける少女の秘密』『映画化決定』『100年のレシピ』などがある。

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