百十二|花野奇譚
幾多郎が小学五年生の秋、昭和十九年の話である。桐月すみれという子が神戸から疎開してきた。淑やかで色白で大変美しかった。これが都会育ちの子かと皆、目を奪われたという。幾多郎は敵機が襲来して空襲警報が鳴るのも構わず、友達二人を連れて彼女の家まで足を運んだこともあった。近づくきっかけが欲しかった。
同級生の女子から、名の由来であるスミレの花が好きであることを知った。幾多郎は祖母からタチツボスミレの種をもらい、どうやったら綺麗に咲かせられるかと尋ねた。最初の助言は土づくりであった。花野の土は酸性であり、中性にするには牡蠣殻を使う。幾多郎は牡蠣屋の友達に頼んで殻を分けてもらい、砕いて混ぜた。土づくり、水遣り、雑草とりと日々奮闘していたが、彼女は春の開花を迎える前に転校してしまい、想いを伝えることができなかった。春、花は彼女のように美しく咲いた。幾多郎はこのときを人生で一番頑張ったと振り返った。

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