満月を見上げる幸せ
仕事帰り、ふと誰かに見られているような気がして、僕は歩みを止めた。
顔を上げると雲間から満月がこちらを覗いていた。昼の太陽がギラギラと刺すような光を放つのに比べて、月の光はどこまでもやわらかい。昼間の熱気が残る街を冷たさではなく、静かな温もりで照らしてくれている。その心地よさに思わず足を止めた。
しばらく月を仰いでいると、見慣れた模様が、ウサギの餅つきのように見えてくるから不思議だ。母か祖母だろうか、はっきりと覚えてないが、幼い頃、誰かと並んでこのウサギの餅つきを眺めたことを思い出す。そしてその誰かが「月はいつも同じ表情で稔を見ているんだよ」と教えてくれた。今から思えばちょっと詩的でセンスのいい言葉だと思うが、そんな情緒を理解するに僕は子ども過ぎた。じゃあなんで、いつも同じ顔なの?みたいな質問をして困らせたことだけはおぼろげに覚えている。
もし僕に子供がいたとしたら、こんな質問になんと答えるだろうか。
月は自転と公転の周期が一緒だからと、科学的に説明するのは簡単だ。でもそんな言葉だけの説明で僕の子どもが納得するとは思えない。模型を作り、月を回して見せても、そもそもの原因の潮汐ロック(月と地球が互いに引き合う力で自転周期と公転周期が同期すること)をどうやって説明すればいいのか?
潮汐力といえば、その力の影響で地球の地軸は安定し、潮の満ち引きが海水を循環させている。そのおかげで生命が誕生したという説もある。いわば月があるおかげで僕らは生まれたともいえるのだ。月の光に癒しを感じるのも、月の存在と生命誕生の不思議な関係性が遺伝子に刻み込まれているのかもしれない。そんな話を僕の子ども達にするのも良いだろう。いつの間にかそんな夢想をしている自分に苦笑した。
ところで月が生まれた頃の遠い昔、月は今よりももっと近くを早いスピードで回っていて、地球にさまざまな表情を見せていたという。伊予原新の小説『月まで三キロ』に、それを親子の関係に例えたこんな言葉がある。
”赤ん坊の月は、地球のそばにいるじゃないですか。幼いころは、無邪気にくるくる回って、いろんな顔を見せてくれる。でも、時が経つにつれて、だんだん地球から離れていって、あんまり回ってくれなくなって、とうとう地球には見せない顔を持つようになる。親には見せてくれない一面っていうのかな。月の裏側みたいに“さすが直木賞作家である。その比喩の見事さに感心した記憶がある。
思い返せば、僕自身も思い当たることがある。幼い頃は、べったりと母のそばを離れようとしなかった。だが成長するにつれて、自分のことを理解してくれないもどかしさを募らせ、やがて「分かってもらうこと」を諦めて距離を取るようになってしまった。でも母はそんなことは全部お見通しで、変わらぬ愛情を注いでくれていた。僕はその愛情に気づくのに、ずいぶん時間がかかった。
そんなこともあり満月の数日後、母の好物のスイカを丸ごと抱えて久しぶりに実家を訪れた。母はまた少しやせたような気もするが、それでも笑顔で迎えてくれた。買っていった弁当は半分も食べなかったのに、スイカは3切れも平らげて、びっくりするやら安心するやら。食べる力は生きる力。母もしっかり食べて、これからも続く暑い夏を乗り切ってほしいと願う。
