【煉獄のパールライト】21.言葉の傷跡
その日の練習が終わり、桔兵が疲れと空腹に耐えながら家のドアを開けると、母の鋭い悲鳴が聞こえてきた。何事かと居間に入ると、父の足元で母が頬を押さえて倒れていた。
「何してんねん!」
父は帰ってきた桔兵を見て、舌打ちした。その顔は赤く、もう相当酒を飲んでいるらしい。倒れた母の手には、金が入っているらしき封筒が握られていた。
「このお金は、今月の家賃なんよ。払わへんと、追い出されるわ!」
「うるさいわ! 金ないんやったら、体売ってでも稼いできいや!」
「ほ、ほんまに言うてるん?」
あまりの言葉に、母はショックで蒼白になっていた。父も言いすぎたかと一瞬黙ったが、母の持つ封筒に目が行くと、再び奪おうと手を伸ばした。
「やめえや!」
桔兵が止めようと父の肩をつかむと、振り返りざまに左頬を思いっきり殴られた。とっさのことで踏ん張ることができず、よろめいて背中から床に倒れ込んだ。よく見ると、床にはテーブルから落ちて割れたコップや皿が飛び散っており、危うく大けがをするところだった。桔兵はその状況に青ざめ、頭に血がのぼる。
「痛いやんけ! 怪我したらどないすんねん。大会、近いんやぞ!」
「知るか、ボケが!」
父はそんな桔兵を、見下ろして吐き捨てた。そして、下卑た笑いを浮かべながら、続けて言った。
「お前、あれか。頑張って、プロになろうとか思とんのか?」
急な問いかけに、桔兵は怪訝な顔で父を見上げた。
「やったらなんやねん?」
父は、乾いた笑いを部屋中に響かせた。
「ムリ、無理やて! お前なんかが、プロになんてなれるわけない。不可能に決まっとるやろ! アホらしい!」
その言葉に、桔兵の中で何かがキレた。笑っていた父の横顔を、思いっきりぶん殴る。父はよろめいて壁に激突し、怒りの声を張り上げた。
「痛いやんけ、ワレ!」
そこから、親子で取っ組み合いの喧嘩になった。
「俺が、何のために。努力してると思とんねん!」
桔兵は、怒りを拳に込めて殴った。ハードな練習で鍛えられた肉体は、酔った父をすぐに圧倒し始めた。素早いパンチを腹から顔に叩き込むと、父はうめきながら力なく尻もちをつく。
「っつ! 親を……殴るとは、この親不孝者が……」
父は息を切らしながら、桔兵を見上げてつぶやいた。
「……ただで済むと、思とんのか?」
「あぁ!?」
桔兵が殴りかかるように右拳をあげると、父は慌てて身を小さくし、顔をかばうように腕を突き出した。その手の隙間から、怯えた父の瞳がのぞいて見える。
いつの間に、父はこんなに小さくなってしまったのだろうか。尻もちをついて丸くなる父を見下ろし、桔兵は怒りが急速にしぼんでいくのを感じた。
振り上げていた拳を、桔兵は静かに下ろした。彼が何も言わず立ち尽くすのを見て、父は恐る恐る立ち上がり、逃げるように家を出ていった。
「母ちゃん。大丈夫か?」
そう言って母に、濡らしたタオルを手渡した。
「ありがとな。あんたこそ、大丈夫?」
「鍛えてるからな」
桔兵は、さらりと答えた。
「あ、あんた強うなったねえ……」
子どもの成長を実感するには、嬉しくない出来事だろう。母の表情は感情がごちゃ混ぜで、微笑んでいるのか、泣いているのかよく分からなかった。
「あの人も、これで少しは懲りてくれたらええんやけど……」
桔兵は何も言わず、立ち上がる母を支えた。父のやったことは許せないし、殴ったことを謝るつもりもない。それでも、家族のあり方は変わらないと、桔兵は信じていた。
しかし、それから父が、家に帰ってくることはなかった。
「その顔、どないしたん。まさか、柴谷の奴に!?」
翌日、桔兵の腫れた顔を見て、成田が慌てて聞いてきた。
「ちゃうわ! 親父と……マジで取っ組み合いになったんや」
深刻に受け取られないよう、桔兵は詳細を伏せて説明する。
「はは。マジか!」
成田は思わず爆笑するが、すぐ真剣な表情になって聞いた。
「ほんまに、どこも痛めてへんよな? 変に隠したりすんなよ」
「ああ。大丈夫や」
その日は、他の部員や杉浦にも顔の腫れを追及され、何度も同じ説明をするのが面倒だった。しかし、父親と喧嘩するなど珍しくもないのか、あまり込み入ったことは聞かれなかった。
放課後になり、桔兵は成田とキャッチボールで肩慣らしを始める。しばらくすると、また柴谷がグラウンドの片隅に現れて、ヤジを入れ始めた。
「今日もご苦労やのう。勉強できへん奴は、ボール追うぐらいしか能がないんやろうな!」
今日は1年コンビはおらず、ひとりで来ているらしい。こちらは何の反応もしないのに、ダラダラと何かをわめいている。成田は小声で毒づいた。
「お前の方が、間違いのうアホやろ!」
柴谷のヤジにも、随分慣れてきてしまった。遠巻きにわめくだけなので、部員たちも気にせず練習を続けていた。
「それにしても、あいつは何がしたいんやろうな?」
柴谷の行動原理を、誰もが理解できないでいた。
「やっぱ、お前にかまってほしいんかな?」
桔兵が柴谷と幼なじみと知ってか、成田はそんなことを言った。
「気色悪いこと言うな」
桔兵の言い方は、この上なく冷たかった。しばらく考えていた成田が、ボソリとつぶやいた。
「それとも、羨ましいんかな。何かに熱中して、頑張ってる奴らがさ……」
桔兵も同意見だったが、その言い方はもっと容赦がなかった。
「自分が底辺やってのは、あいつが一番ようわかってるやろ。同じとこまで落ちて来てほしいから、他人の足引っ張ってんのや。ええ迷惑やで!」
そんな話をしながら練習を続けていると、いつの間にか柴谷は姿を消していた。
その日以降、柴谷がヤジに来ることはなかった。部員たちは安堵していたが、桔兵はこれで終わりではないだろうと危惧していた。
練習が終わった桔兵は、20時過ぎに自宅に到着した。以前のように、怒鳴り声が聞こえてくることはない。だが、部屋に入ることを、少し躊躇している自分がいた。
「ただいま」
キッチンに入ると、夕食の準備を終えた母が、椅子に座りぼんやりとしていた。少し遅れて桔兵に気付くと、力なく立ち上がりコンロへと向かった。
「ええね。遅くまで好きなことばっかりしてて、羨ましいわ……」
母はそう言って、味噌汁の入った鍋を温め始めた。習慣になっているその行為とは裏腹に、言葉の隅々に混じる皮肉が、桔兵を責めていた。
あの日から、母は戻らない父のことばかり心配していた。あんな父でも、母は帰ってきてほしいと思っているのだ。
そして、父の行方を探していた母は、昔付き合っていた女の元に転がり込んでいると、古い知り合いから聞き出していた。ショックを受けた母は、あからさまに不機嫌となり、桔兵に対しても険悪な態度を取るようになっていた。
「あんたは、野球ばっかで常識知らんのよ。早う社会に出て、働きなさいよ」
「うるさいな。俺にも考えがあるんや……」
父の裏切りにより、母の中で何かが折れたのかもしれない。ひとりでは背負いきれないものが、苛立ちと共に吐き出されている気がした。
「そもそも、高校に行く金なんてありはせえへんわ」
「言われんでも、分かってる!」
桔兵が1番気にしていることを、小さな針で突くように母が言った。それでも、彼は怒鳴り返すようなことはしなかった。父のように、暴力を振るうなどはもってのほかだ。
だが、そんな日々のやりとりが、桔兵の苛立ちを蓄積させていった。
いよいよ、大会が3日後に迫っていた。
桔兵たちは、いつものように部室で着替え、放課後の練習に向かう準備をしていた。練習も徐々に軽いメニューとなり、大会直前の高揚感が部全体に満ちていた。
「トーナメント表よう見たらさ、初戦勝ったら、結構楽な組み合わせやんな!」
「そうそう! ヤバそうなのが、逆の山に固まってるからな」
「最近、東四中もそこまで強いっちゅう印象ないし。けっこう、イケるんちゃう?」
厳しい練習に耐えてきた自信と、大一番へのプレッシャーが、彼らの強気な発言となって現れていた。成田も話の流れに合わせて、景気の良い発言をした。
「つまり、俺のくじ運がよかったっちゅうことやろ! 今年こそ、地区大会突破やで!」
「いけるいける!」
そう盛り上がる部員たちに、桔兵が突然怒鳴った。
「そんな、簡単ちゃうぞ!」
一瞬、場の空気が凍りつく。
「俺が完封しても、点取らへんことには勝てへんのやぞ!」
成田も急に怒り出した桔兵に驚いていたが、すぐに場を和ませようと、軽口をたたいた。
「まかせろって! 俺が打ちまくったるわ!」
「相手は東四中やぞ。ほんまに、1点でも取れるんやろうな?」
桔兵の問い詰めるような物言いに、成田も戸惑い口ごもった。
「そりゃ、努力はするけどな……」
「努力やのうて、結果が必要なんや!」
桔兵は乱暴にドアを開け、部室から出て行った。残された部員たちは、言葉なくその場に立ち尽くしていた。
部室を出て数歩のところで、桔兵は立ち止まった。
自分の態度が、完全な八つ当たりだと分かっていた。部室の扉を振り返り、今すぐ謝るべきかと足を止めて躊躇した。大会を控えたこの時期に、波風を立てるわけにはいかないのだ。
すると、中から部員たちの会話が漏れ聞こえてきた。
「なんや、あれ?」
さすがに、部員たちも桔兵の態度に憤慨している様子だった。
「なんかこの頃、機嫌悪いよな? いつも、眉間にしわ寄せててな」
「大会近づいて、プレッシャー感じてるとか?」
桔兵に聞かれているとは知らず、遠慮のない言葉が続いた。
「今度の大会で活躍して、推薦取りたいんやろ?」
「桔兵の学力で行けるとこなんて、たかが知れてるしな。俺らには、関係ない話やけど……」
そこまで聞くと、桔兵は何も言わずグラウンドに向かって走り始めた。
ひとりで黙々とアップを始めるが、なぜだか体が重い気がした。練習は調整で軽く流す程度にもかかわらず、妙に疲れが取れないのだ。
しかし、泣き言を言っている暇はない。部員たちにも言ったように、何としてでも結果が必要なのだ。気合を入れるため、桔兵は走りながら自分の両頬を強く叩いた。
