『みいちゃんと山田さん』アニメ化騒動について思うこと~他人を不快に出来る力を持つ作品のあるべき場所とはどこなのか~
ここ最近の私のnoteでも少しだけ取り上げているが、最近『みいちゃんと山田さん』という漫画作品が2027年にアニメ化が決定したとして議論が紛糾している。『100ワニ』こと『100日後に死ぬワニ』だったり『タコピーの原罪』のように主人公が悲惨な目に遭う作品を露悪的に楽しむ作風であったはずなのだが(少なくとも私の認識としてはそうである)、『みいちゃんと山田さん』がアニメ化にあたって「この作品の持つテーマやメッセージを尊重する」「この作品をアニメーションとして表現する意義がある」とアニメ制作サイドから公式声明が出されたことで(この公式声明が出る前に既にこの作品がアニメ化することに懸念の声が上がっていたのだが)より話がややこしいことになっている気がする。いっそ最初から開き直って「露悪的エンタメを是非楽しんで下さい!!だってフィクションですから!!」とでも言えばまだエンタメとして(倫理的には問題があるにせよ)立場としては一貫しているように思われる。ところが、『みいちゃんと山田さん』の原作制作サイドが途中から「社会派エンタメ」みたいな路線でこの作品をプッシュしてしまったから(その割には色々と配慮が足りないことになっているようなのだが)、話が余計にややこしいことになってしまった感が否めない。
私は現状『みいちゃんと山田さん』の原作漫画を積極的に読む気にはならないし、アニメ化がされても基本的には積極的に視聴する気も起きない。だからといって積極的に「『みいちゃんと山田さん』のアニメ化は廃止すべきである!」という声も上げる気にはならない。「私の知らないところで好きにしてくれればいい」というのが率直な感想である。
私が懸念していることがあるとすれば、仮に『みいちゃんと山田さん』のアニメ化が取り下げられたとしたら他の作品の「自主発禁」作用が働いてしまうのではないか、ということを懸念している。主人公やその周辺の登場人物達が不幸な目に遭うのをエンタメに昇華するのが駄目だというのならば上述の『100ワニ』や『タコピーの原罪』を筆頭に『闇金ウシジマ君』や『カイジ』シリーズ、『九条の大罪』、『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』『宝石の国』といった作品も「主人公やその周辺の人間が不幸になる様を描いているから世に出るのは不適切!規制すべき!」というような声が上がってしまうのだろうか。それを言い出したら『名探偵コナン』も『ONE PIECE』でさえも出版や放送は不可能になってくるだろう。あるいは、障害を抱えている作家である市川沙央さんが数年前に芥川賞を受賞した作品である『ハンチバック』も、障害者に対する誤解と偏見を生む可能性があり「不適切」だから出版は差し控えるべきと声を上げるのだろうか。あるいは、漫画家である押見修造先生の作品(『惡の花』『血の轍』などが有名)も不快で不道徳だから規制すべき、となるのだろうか。アニメーション映画化された『聲の形』も障害者に対するイジメを助長させるから規制すべき!とでも声を上げるつもりなのだろうか。あるいは、かつてそんな声が一度でもこれらの作品に対して上げられたことはあっただろうか。一体、これらの作品と『みいちゃんと山田さん』との間には何の違いがあるというのだろうか。『みいちゃんと山田さん』を「純文学」にでもカテゴライズすれば許されたのだろうか。
こうした疑問について、伊藤計劃のSF小説『ハーモニー』でこうした「表現の暴力性と社会に対する配慮のバランス」について言及しているシーンがあったことを思いだしたので、引用して紹介したい。
<recollection>
こんな話を知ってる、ってミァハが言っていたのを思い出す。昔々、大昔の話。ある芸術家が広島の空にね、飛行機雲を使って「ピカッ」て文字を書いたんだ。どう思う。
「ピカ、って原爆だよね。とっても悪趣味だと思う」
「そうだよね、とっても悪趣味」
とミァハはとても嬉しそうに笑って、
「その芸術家は猛抗議を受けて謝罪する羽目になったんだ。その芸術が誰かを不快にさせたから、その芸術が誰かの倫理に傷をつけたから。今、そんなことをやろうとする人は絶対にいないよね。事前に生府の警告を受けるもの。というか、そんなアイデアが浮かぶことだってないに決まってる。今はフィルタのおかげで事前に『見てしまう』ことへの警告があるからそもそも誰も見てくれないし、芸術家自身、そんな悪趣味なアイデアを思いつけないようになってる。昔の人の想像力が、昔の文学や絵画が、わたしはとってもうらやましいんだ、トァン」
「どうして」
「誰かを傷つける可能性を、常に秘めていたから。誰かを悲しませて、誰かに嫌悪を催させることが出来たから」
</recollection>
もし興味があれば私がまとめた伊藤計劃評論についての過去記事も参照して欲しい。
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伊藤計劃を布教したい~夭折のSF作家は貴方の「物語」となる~|4浪U太郎
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世の中には色々な「不快」や「毒」が多くで回っている。だが、誰かにとっての「毒」や「不快」は別の誰かにとっての「特効薬」や「癒やし」になることもある。薬学を学べば「適量を守った毒だけが薬になる」ということを知る。この言葉は医薬品に限った話ではなくどんな分野でも同じことが言える。漫画やアニメ、映画や小説・音楽・美術品等々、どんな分野でもそれを見た人の感想は人それぞれである。「好き」と思う人もいれば「嫌い」と思う人もいる。別に甲乙の感情を持つことそれ自体は否定されるべきではない。何なら「好き」「嫌い」という気持ちを表明することも尊重されるべきだろう。問題なのは「これは気に入らないから消せ!」という文句がまかり通ることである。そんなことをすれば世の中が綺麗さっぱり「漂白」され、誰もまともに呼吸することも出来なくなるだろう。そんな世の中がまかり通る恐ろしさを語ったメッセージを紹介したいので、引用したい。
日本でマンガがこれほど栄え、ビデオゲームが愛され、そして世界で評価されているのはどうしてでしょうか?
日本のアニメやマンガが「お手本」となり、今や世界中で多くの作品が生み出されていますが、ことマンガに関してはやはり日本の作品には一日の長があります。
それを生み出す、それを支えている文化こそ、その文化の根源にあるのは疑いようがありません。
コミックマーケットには50万人以上がたった数日に集い、そこで一次創作・二次創作・評論…、すべてがカオスに入り混じります。
そこは著作権などをあえて緩く取り扱うことで、エロやグロといったものをすべて包括的に土壌として保水する、豊かな土壌です。
「混沌」という言葉が最適なその土壌からは、日夜突然変異としか思えない度肝を抜く作品が生まれてきます。
キレイとタダシイだけの世界からは絶対に生まれようのない、イビツだけどメッチャオモシロイ。
すべての名作はそうした土壌から誕生しています。
例えば、映画大国アメリカ。ハリウッド映画は、世界屈指の予算と世界屈指のエンターテイメントです。
この映画という文化も、アメリカにしては意外なくらいの版権意識の緩さと、何でもあり…バカ・アホ・グロ・エロにまでどこの誰だか分からない金持ちが、金を出して作らせています。
クソみたいなB級映画が無限に生産されるのは、そんな混沌の土壌があるからではないでしょうか?
レンタル店に並ぶ怪しいパチモノ映画やエロパロ作品…本当にエンタメとしても出来損ないで、お世辞にも面白いとは言えないああいう映画は、日本ではあまり生まれません。
映画の土壌はあまり豊かではないからでしょう。
――ここで話を戻します。自分がイヤだと思うものは、他人もイヤだと思っている。
この小さな考えは、小さな火の粉です。
まだ大丈夫。
自分がイヤだと思うことを、他人に伝える。
まだ大丈夫。
むしろそれもまた自由であるべきだから。
しかしそれが、こうなると完全な戦火となります。
「自分がイヤだと思うから相手から奪い取る、消し去る行為を正当化する」
戦火は戦火を生みます。
わたしとあなたは違う。
これで人類は何千年も殺し合いをしてきたじゃないですか。
人は皆多様な考え、多様な性、多様な価値観を持ちます。
これを「理解できないから殺す」という考えにつなげた瞬間、そこに中世の魔女狩りと同じ空気が生まれます。
特にエロコンテンツは、その誹りを多く受けています。
エッチなものを悪として葬る活動は一見、正義に見えます。
仮にその活動が実を結びエッチなコンテンツが消えたら、次は間違いなく暴力表現がターゲットになり、魔女狩りの火は絶対に消えません。
エッチなものはいけないと思うけど、クールなお耽美殺し合いはカッコイイからいいじゃん…と思っても、エッチなものはいいけどクールなお耽美殺し合いは暴力を助長するから消すべき…と思っている人が、今度は自分の顔を消しに来るのです。
みんながみんなお互いの顔が気に入らないと、ケシゴムで消し合うのです。
そして世界はのっぺらぼうの世界になるではないですか。
これは行き過ぎた考えでしょうか?極論でしょうか?
表現規制とはこれほどまでに重いのです。
日本はほぼほぼ何でも自由なので、普段はその自由さを実感することはあまりないのですが、海外旅行をするとどれ程恵まれているのかをイヤというほど思い知らされます。
だからこそこの国の「自由」は、本当に尊いのです。
そして今、この「自由」を当たり前だと思っている愚か者が、自らの小さな利権・見栄・プライドのために戦火に手をかけているではありませんか。戦火は自由とは逆に1度火がつけば燃え広がりやすく、自由は失われやすいのです。そしてその戦火は着々と表現を蝕んでいます。
再度言いましょう。文化とは清濁併せ持ち、その中でいろいろわけ分かんないものが生まれ消えていくものです。その中の成功やキラキラしたものだけが本体では決してないのです。
わたしとあなたは違う。それを強要するかどうかで、この混沌の土壌はいとも簡単に死ぬのです。
この重さを考えた上で「否定」を断行する重さを知るべきです。全員を納得させられるだけの資料と根拠も提示せず、「気に入らないからお前は消えろ」と、これを権力のチカラでゴリ押しすること。
ボクはこれほどの「明白かつ現在の危険」を知りません。
この引用文の元の投稿先である私の過去記事も改めて引用したい。イギリスにおけるVTuber業界の「事件」について言及した記事であるが、私はイギリスで起こっている事件がそう遠くない日本の将来の姿を映し題しているように思えてならないのである。
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もしかすると、人類には表現の自由=自分の「不快」と思う表現も許容する社会的合意が前提となる自由を享受するには、あまりにも精神性が未熟すぎたのかもしれない。AIがどれだけ発達しても肝心の人間の精神性がお粗末では本末転倒である。一日でも早く一人でも多くの人類の理性が「不快」と思う表現とも上手に付き合える成熟した精神を獲得して欲しいと思った次第である。
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