AIゼロの作品は存在しうるのか──AIが満ちた世界で「誠実な創作」は可能か
※この記事は、創作・文章表現・思索におけるAI活用のあり方と、その境界線について考察するものです。いくつか意図的に大きく書いている部分もあります。また、この記事自体もAIとの協働によって書かれています。先日、公開した以下の記事の続編としてお読みいただければ幸いです。
1. はじめに
昨今において、AI技術の浸透が創作・コンテストの世界にまで広がり、
「コンテストにおいてAI作品の応募は禁止」
「AI生成物は審査の対象外」
というような規定や議論が、急速に形成されつつあると言えます。
しかし、その禁止の背景には単なるルール以上の、人間の心の奥にある本能的な警戒や、文化的前提が潜んでいるようにも思われます。
前回の記事では、AI時代の公平性について考察しました。
今回はその続編として、
AIの影響をどこまで避けられるのか
AIと人間の境界は本当に引けるのか
人間はなぜAIの「性能の高さ」を恐れるのか
なぜ「独力で作るべきだ」という前提が根強く存在するのか
という、より深い問題に踏み込んでみたいと思います。
2. AI禁止はなぜ起こるのか
まず大前提として、AI作品禁止のルールや監視の仕組みは、決して理解できないというものではないと言えます。
実際、AIの乱用により次のような作品が登場している現実があると言えるでしょう。
内容が浅く、ほとんどAI丸投げに近いような文章
作者の気持ちや思いがほとんど込められていないような文章
ランキングのためだけにAIを用いて大量投稿すること
このような作品は確かに、「創作の誠実さ」を損なってしまうものと考えられます。
そのため、禁止や指摘が生まれること自体は理解できます。
しかし、問題はそれだけではないと言えます。
AI禁止の背後には、もっと根源的で、人間の心理によるような理由も働いているのではないかとも思われるのです。
3. 本能的な心理──AIの性能の高さへの警戒心
人間は、AIが次第に「無尽蔵にも見えるような質の向上」を見せるとき、本能的な警戒を覚えるのではないかと思われます。
AIという存在は、疲れることがない、感情によってブレない、間違いを高速に修正することができる、毎日でも膨大な数の作品を作れる、すぐに一定以上の質に達する、というような生身の人間にはない特性を持っているものと言えます。
これは、人間の側にとっては「自分が勝てない相手」に対する深層の不安を呼び起こすものとも言えるのかもしれません。
AIの性能が上がれば上がるほど、「努力したのに負けるのではないか」、「人間の苦労や才能は意義を失いやすくなり、報われないものになってしまうのではないか」という、痛みを覚えるとも思われるのです。
そしてこれは、とても人間らしい反応のように思われます。
4. 「独力で作るべき」という暗黙の前提
創作の世界には、古代から続く強い価値観が当然のように存在するとも考えられます。
それは、「作品は、作者が独力で作るべきだ」という考え方です。
文学、音楽、芸術、思想──すべての分野において「ひとりの作者による」という概念が尊重されてきたとも言えるように思われます。
そして、この価値観の形成には次の前提が含まれているように思えます。
ひとつの作品は、ひとつの魂によって書かれるべき
多人数の手が入りすぎると「その人の作品」とは言えなくなる
他者の力を大量に借りるほど、作品は純粋さを失ってしまう
つまり、「作品の純度」が重視されてきたと考えられるのです。
AIを大量に使うことへの違和感は、実はこの文化的な前提に深く結びついているようにも思われます。
5. 「他者の支援を大量に受けること」への嫌悪感
AIは「道具」でありながら、同時に「他者」でもあると言えます。
新しいアイデアを与えてくれる、文章を洗練させてくれる、論理を整えてくれる、比喩を提案してくれる、これらの内容は本質的には「共同(協働)作業」であると言えるように思います。
しかし、人間同士であれば自然な“協働”であったとしても、AIが相手だと拒否感が生まれてくる。
それは、作者本人の力が薄れる、創作過程の透明性が消える、「作品を自力で生み出した」という自負心、自信が揺らぐといった心理的な理由も背景にあるように思われます。
つまり、「他者の支援を大量に受けること」への嫌悪感が、AIに対して強まっていると言えるように思うのです。
これは人間の自尊心や自己の境界に関わる問題であるとも言えます。
そして更に、隠れた状態において、その大量の支援を受けられる現実があるということも、この問題への嫌悪感を高めている決定的な要因であると言えることでしょう。
6. では本当に「AIゼロ」の作品は作れるのか?
ここからが、この記事の主な考察です。
前回の記事でも触れたように、現代社会でAIの影響ゼロの創作はほぼ不可能ではないかと考えるところもあります。
なぜなら、構想の段階からAIが入り込んだ世界で、私たちはすでに生きていると言えるからです。
7. AIは、情報の「空気」となってきている
AIは、使おうと思わなくても、すでに私たちの生活の中にも溶け込んでいます。
以下の情報はすべてAIによって関係されている可能性があります。
インターネット検索
SNSのタイムライン
ニュースアプリ
テレビの編集
ネット広告
誰かのブログ(その人がAIで校正している場合がある)
現代の書き手の文章(その人がAIを使っている可能性もある)
つまり、私たちがこの世界の言葉に触れる入口のほとんどがAIによって調整されているとも言えるのです。
もしAIの影響を全く受けていない創作が真の純作品とするならば、おそらく次のような人が該当すると言えることでしょう。
インターネット検索をしていない
SNSもテレビも見ていない
デジタル記事を読まない
現代を生きる他人の文章を読まない
これは、この社会に生きる現代人にとってはほぼ不可能なことと言えます。
したがって、AIが100%関わらないという創作はもはや存在しないのではないかということが、この社会での現実であるようにも思われます。
8.読者もまたAI環境に包まれているという現実
現代において「AIの影響をまったく受けていない読者」は存在しないとも言えるように思います。
もはや、インターネット検索の結果、ニュース、AIを用いたnoteの記事、SNSなど、どの入口にもAIがあると考えられます。
この記事を読んだ時点においても、すでにAIの影響を経由していると考えることもできます。
つまり、この社会においては、AIの影響を完全に排除した現代的な文章(創作物)を読むことも、もはや不可能のように思われるのです。
作品がAIの影響を受けているかどうかというよりも、人間がその作品をどのように受け取り、どれほど誠実に向き合うかが、これからの創作の核心になると考えられるのではないでしょうか。
9. 構想にAIが混ざることは不誠実ではないのではないか
ここで大切なのは、AIの影響を受けていることと、作品が不誠実であることは別問題でではないか、という点です。
AIを使いながらも、作品の主題や核心部分は、作者自身の経験や想いから生まれるものとも言えます。
AIは、視点の提案、構成の助け、論理の整理、推敲の補助といった「編集的な役割」も果たしますが、最終的な判断や方向性は作者自身が握っているものとも言えます。
創作者が誠実である限り、作品は人間のものであると思います。
10. 拒まれるAI利用と、許容されるAI利用
ここで整理しておきます。
◆ 拒まれるAI利用(倫理的に問題があると考えられるもの)
AIによる丸投げ
作者自身による思索がほぼゼロ
読む人を欺く目的がある
ランキングを操作する
内容が浅く質の悪いAI文章を大量に生産する
これらは明確に不誠実と言えるように思われます。
◆ 許容されるAI利用(誠実な創作の範囲)
思想や価値観は作者自身によるもの
主な構想は作者自身で練っている
思索の過程でAIと相談をしている
AIを補助的なツールとして使用している
文章全体の責任は作者が負っている
これは、現代においては創作の自然な形になりつつある現象であるとも言えるように思われます。
11. AI時代に問われる誠実さに関する再定義
もしAIの影響ゼロの作品が不可能であるとするならば、これからの創作で問われるのは技術というよりも、姿勢ではないかと思われます。
どうして書くのか
どのような人に届けたいのか
何を書きたいのか
作品にどれだけ心を込めているのか
これらはAIには代替できないものと思われます。
AI時代の創作においては、人間の思想、誠実さ、魂、これらのものが最も重要な価値になるようにも感じられます。
12. おわりに
AIの関与が100%ない作品を求めるということは、もはや現実的ではないようにも感じられます。
しかしだからといって、創作という行為の本質が軽くなるわけでも、作品の本来の価値が薄まるというわけでもないように思われます。
私たちに問われていることは、AIからどれだけ離れられるかということではなく、AIと共であったとしてもどれだけ誠実に書けるのかということではないでしょうか。
AIが限りなく性能を高めるように感じられる世界で、人間がなお創作し続ける理由。
それは、AIではなく人間が心を持って、文章に重みを宿すことができるからではないかとも思われます。
AIが溢れる時代でも、心を込めて書かれた作品には、やはり特別な力があるのではないか。
そのことを思いながら、これからも言葉は紡ぎ出されていくのだろうと考えられるのです。
