無教会主義と教会──広い神という一つの考え方について
※この記事は、キリスト教における信仰の在り方について考察した一つの例です。特定の立場を代表するものではなく、信教・思想・良心の自由を尊重しつつお読みください。
1. 信じる者の共通の核
キリスト教信仰の中心には、キリストの贖罪の死と復活を信じることがあると考えています。
もしあなたの口で『イエスは主である』と告白し、あなたの心で『神がイエスを死者の中から復活させた』と信じるなら、あなたは救われます。
この言葉においても、形式や所属の違いを越えて「キリストを信じる者」という呼び方ができると考えています。信仰の核心は、制度や場所によって限定されるものではなく、キリストと人との関係に根ざしていると考えられるからです。
2. 無教会の信仰──自由と孤立のあいだ
教会に属していない信仰者にも、多様な姿があると考えています。
信じてはいるが、自らを「まだ途上」と認め、模索を続ける人。
教会に行こうとして、教会を探している人。
かつては通っていたが、行く必要を感じなくなったという人。
「教会に行かなくても信仰生活は成り立つ」と考える人。
「無教会という在り方こそが正しい」と考える人。
日本における「無教会運動」は、内村鑑三に始まったと言われています。内村は制度的な教会を批判しつつも、聖書に根ざした信仰を重んじていたとされています。その姿勢は多くの知識人や学生に影響を与えたと言われています。無教会には、制度を離れることによる自由さがあるものの、孤立ゆえの弱さという面もあるのではないかと言われることがあります。
3. 無教会者が「集う」という教会性
しかし、無教会者もまた自然と「集まり」を形成してきたと考えることは可能でしょう。
聖書を共に研究する集会。
個人の家での祈祷会。
サークル活動のような聖書の読書会。
オンライン上における聖書勉強会。
これらは制度的な「教会」ではないかもしれません。しかし、
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。
というキリストの言葉から見れば、すでに教会性を帯びていると考える余地があるのではないでしょうか。
つまり、「無教会」とは、必ずしも「全く孤立している」ことではなく、緩やかな集まりや交わりの形で「信じる者たちの集まり」を生み出してきたという現実があるようにも考えられると思います。
4. 教会に集う信仰──共同体の力と課題
一方で、制度的な教会に集う人々も多様と言えるでしょう。
教会で学び、祈りたい人。
定期的な交わりを大切にする人。
教える使命や、教会内の奉仕を担うと考えている人。
「教会に属さねばならない」と考える人。
「自分たちの教派・教会こそが正しい」と考える人。
新約聖書で「教会」と訳される「エクレシア(呼び集められた人々)」という語が示すように、本来の教会は建物ではなく、神に呼ばれ集まった共同体と考えることが可能です。
教会は互いに励まし合う場であり、孤立から守る力があります。しかし同時に、人間が集まる以上、境界線を引き合い「内と外」の意識を作り出すという一つの限界もあるように考えられます。教会生活は恵みもあれど、時に窮屈さや排他性などの課題も伴いかねないと思われるのです。
5. 神は誰の神なのか
では一体、神は誰の神なのでしょうか。
ユダヤ人とギリシア人との間に区別はありません。同じ神がすべての人の神であり、その神は、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みを与えるのです。
信じる人にとって、神は、復活の神であり、救い主であると考えます。
しかし、神が真に神であるとすれば、信じない人にとっても、神は神なのではないでしょうか。
もし神が「信じる人だけの神」であるなら、ある意味において、人間の信仰が神を制限してしまうことになると考えられます。しかし天地を造られた神を考えるとするならば、人の選択や所属を超えて働かれる「広い神」と考える方がむしろ自然と言えるでしょう。
6. 無教会と教会──対立ではなく交わりへ
ここで見えてくるのは、「無教会」と「教会」は対立する概念ではなくて、むしろ互いに補い合える関係と言えるのかもしれません。
教会に属する信仰は、共同体の中で守られ、深められる力を持っていると考えることも可能でしょう。
無教会の信仰は、制度を相対化し、神との直接的関係を強調する新鮮さを持っていると考えることも可能でしょう。
今の現実を見る時、どちらも片側だけでは不完全と言えるのかもしれません。しかし、広い神のもとで互いに学び合うとすれば、そこでもまた、豊かな信仰の地平が開けてくると言えるのかもしれません。
