洗礼者ヨハネと既成事実に関する一つの考察──制度の外で働く神の可能性
※この記事は、聖書の一場面を手がかりに現代の信仰の在り方を探る試みです。繊細な内容を扱うため、断定的な主張ではなく、一つの可能性を提示するものとしてお読みください。特定の教派・団体・個人の立場を代弁するものではないことをご理解いただければ幸いです。
洗礼者ヨハネという存在
洗礼者ヨハネという人物をご存じでしょうか。
新約聖書に登場するその人物は、イエス・キリストが公の活動を始める前に現れ、悔い改めを呼びかけ、人々そしてキリストにも洗礼を授けたとされる存在です。
新約聖書によると、洗礼者ヨハネは単なる宗教運動家ではなく、その誕生自体が神の特別な介入によるものとして告げられていました(ルカ1章)。彼の活動は「荒野で叫ぶ声」としてイザヤ書の預言の成就とされており(ルカ3章)、旧約と新約の時代をつなぐ大きな橋渡しの役割を果たしていたものとされるのです。
キリスト自身も洗礼者ヨハネを高く評価し、こう言われたとされています。
女から生まれた者のうちで、ヨハネより大きな者はいない。
特に教会において、この言葉は、ヨハネの活動が神の御心と深く結びついていたことを示していると考えられています。
既成の制度の外での活動
注目すべきは、ヨハネの働きが「当時の宗教制度の外」において行われていたという点です。
彼は神殿の権威者ではなく、律法学者や祭司団の下に仕える人物でもありませんでした。むしろ、荒野に出て人々を集め、悔い改めと水の洗礼を授けていました。
宗教的権威に属さない者が群衆に大きな影響を与えることは、当時の指導者層にとって一つの脅威だったと思われます。制度の外にいるにもかかわらず、多くの人々が彼のもとに集まり、神を求めていたからです。
イエスが突きつけた問い
福音書には、イエスが宗教的指導者に対して突きつけた問いが記されています。
「ヨハネの洗礼は、天からのものか、それとも人からのものか?」
指導者たちは問いに答えられませんでした。
「天から」と言えば、過去にヨハネを受け入れなかった自分たちの不信仰が暴かれてしまう。
「人から」と言っても、現在ヨハネを受け入れていない自分たちの不信仰が暴かれ、ヨハネを預言者と信じる群衆から責められてしまう。
結局、彼らは「わからない」と答えるしかありませんでした。
このエピソードは、宗教的制度や権威を持つ人物ですら、人々に注目される宗教的な出来事に関して、「神からの働き」と「人からの働き」を判別し解答を出すことが難しいということを示しているように思われます。そして、それは、もしかすると私たちの時代にも当てはまる問いではないでしょうか。
現代に見られる似た現象
現代に目を向けると、似たような現象があります。
X(旧Twitter)などを見ていると、教会組織の外で、ある程度定期的に、「イエス様を信じるという方が洗礼を受けました」ということを書いている人がいます。
既成の教会に属していなくても、キリストへの信仰告白を行い、洗礼を受けたいと願う人々がいる。これはまさに、ヨハネが制度の外で活動していた姿と重なるようにも思われます。
もちろん、すべてのことを無条件に肯定することは出来ないと考えます。制度には制度の意義と役割と責任があると認められているはずです。しかし同時に、制度外での信仰の芽生えが実際に存在しているという現実は、無視できないものと思われます。
日本の文脈において
特に日本という文脈において、この問題は一層考えさせられるものと思われます。
キリスト教人口は非常に少なく、近隣に教会がない人も多い。
歴史的に迫害や孤立の中で信仰が保たれてきたという現実がある。
無教会主義や家庭での集会など、制度の枠に収まらない信仰形態も現実に存在する。
こうした現実を踏まえると、制度外での信仰告白や洗礼について「神の働きの一端」と見ても、おかしいものとは言えないようにも思われます。
神の働きと制度のバランス
ここで強調したいのは、制度を軽んじるということではありません。
制度は信仰共同体を形作り、教理を守り、孤立や誤謬から信仰者を守るという役割を担っているものと考えることが出来るでしょう。しかし、神の働きが制度に完全に縛られるわけではないことも聖書は示しているようです。
洗礼者ヨハネの例は、その象徴のように思われます。神は制度の外から新しい流れを生み出し、やがて制度もまたその働きを受けとめざるを得なくなるということがあると思われるのです。
出来事を観察すること
最後に、少しメタ的な視点を加えてみたいと思います。
この記事のように、制度外で生まれている信仰の在り方について考え、伝えるということ自体が、またそのような活動に繋がっていくという可能性もあるかもしれません。
もちろん、そのような活動が必ずしも善であると断定することは難しいように思われます。しかし、歴史を振り返れば、言葉や思考、情報の伝達が信仰の広がりを後押ししてきたということも事実のように思われます。
聖書そのものが、証言を文字にした「記録」であると考えられる。
ルターの著作が印刷されることで、宗教改革が広がっていった。
日本でも内村鑑三の著作が、数少ない人々の信仰のきっかけになった。
同じように、現代における文章や発信もまた、信仰の広がりを生み出す一端となり得る可能性があります。
おわりに
制度外で行われる信仰告白や洗礼をどう受けとめるか──これは容易に答えが出せない問いのように思えます。まるで私たちは、現代において「これは、天からか、人からか」と問われているかのようです。
しかし慎みをもって言うならば、日本におけるこうした信仰の芽生えが、キリストの教えの前進を示している可能性があるのではないでしょうか。
そして、見て、考え、書き、伝えること自体がその前進を助ける一部になっていく可能性もあるように思われるのです。
