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私の実家の魚屋が閉店した話を聞いてください。

 私は今アラフィフのオサーンですが、私にも若くてイキイキして輝いていた時代があったのです。今回はそんなお話をさせて下さい。(私の概要は↓↓↓にてご確認を)

 私の実家は地元で代々続いていた老舗のお魚屋さん(便宜上『魚パル』と呼びます。もちろん仮名ですw)でした。もちろん周囲には一目置かれ「あそこはいつもお客さんが沢山いて繁盛してるよね。」と言われていました。私はその老舗の4代目として生を受けました。

 先代社長である父親(享年78歳)には「市場に入荷したカツオを全部仕入れて、トラックでピストン輸送して全部売ったんだぞ!」とか「12月は31日まで休みがなくて嫌いだったよ。お客が毎日来て店を休めないんだ。(今考えると超絶ブラックw)」と常々話を聞いていましたが、私が大学を卒業して自分の家の魚パルに入社するころには、周囲に大型店舗やチェーン展開しているスーパーなどが乱立し、昔ながらの「お魚屋」として鮮魚にこだわっていたお店は斜陽状態でした

 起死回生のため魚屋から「スーパー業態」に方向転換しましたが時すでに遅し。自前店3店舗、テナント店4店舗もあった魚パルでしたが、スタートダッシュに出遅れ、魚屋としてもスーパーとしても中途半端な経営状態となり、私が魚パルの中堅社員になるころには、営業をすればするだけ赤字が増えてしまうと言う状況まで追い込まれていました。

 そんなある日、近くの公民館の会議室に社長一家、専務一家、常務一家が一堂に集まり、現在の魚パルの状況と今後の方針を話し合いました。

    もちろんすぐには妙案は浮かばず、赤字は増えるが100年以上続いた先祖から引き継いだお店を畳む覚悟も無いし、100人以上いる従業員が露頭に迷うようなことは出来ない…と言うなにも進展の無い会合が終始続いていました。

 重役とそのご婦人達は魚パルの苦しい経営状況を把握していましたが、息子である私や専務、常務の息子達は寝耳に水の状態。私や息子達、娘達はそこで初めて魚パルが自転車操業状態だったのを知ったのです。

 後日4代目世代になるであろう私が専務の長男、常務の長男(親父同士が全員いとこ同士で、息子達ははとこ同士)に号令を掛け、「まず息子達の思いを統一しよう。」と密かに集結。3人で集まって何度も話し合いを行い、結果「お店はここで畳んで、ズルズルと赤字を垂れ流すのをやめよう。」という結論に達し、子供たちの思いを現役社長達役員に報告。

    次世代の息子達の意向となれば、親父世代の経営者達も踏ん切りがついた様子で、12月の稼ぎ時の前の10月一杯で魚パルは閉店しました。時に私が30代半ば、親父は還暦を少し過ぎた頃です。

 お店を閉店するってのは、ただお店を更地にすれば「ハイおつかれ!」…とはならず、100人前後の従業員を抱えていると閉店にも紆余曲折がありまして、(雀の涙程度でしたが)退職金を涙ながらに受け取られ「今までありがとうございました。」と感謝を言葉を伝えて去っていく人間もいれば、「あいつらたんまり金蓄えて閉店しやがって、ゆるせん!」と従業員同士結託し(もっと金よこせ!…と)ゴネる人間達もいるわけです。ゲスですね。まさに外道。「恩を仇で返す」とはまさにこの事。

    そのゴネた従業員は徒党を組んで労働基準監督署に駆け込み、退職金以上の賠償金をせしめるという鬼畜の所業をやってのけました。親父である社長の忸怩たる思いたるや相当なものだったことは想像に難くはありません

 もちろんお店を解体し、店舗を更地にするためだけでも数千万円のお金が発生するわけです。社長である親父はそれらの問題を何とかクリアーし、解雇になってしまった従業員には、次の仕事の斡旋やハローワークでの失業手当の手続き書類を従業員の数だけ揃えて、従業員がなんとしても無職にならないように奔走。

 営業中に月払いや年払いで仕入れた商品代金を一括で全て支払い、テナントに借りていた店舗の家賃も全て支払って、誰にも損はさせないようにして「閉店」という事業をやり遂げました。

 もちろん、ある日突然閉店が申告され、月末一杯で解雇されてしまった元従業員は損を被ったかもしれませんが、従業員さん達が自分で労働した正規の賃金と退職金はきっちり支払われました。(受け取り拒否したゲスで外道な従業員は除く。)

 ココにも書いた通り、私は趣味であった車屋に再就職。一緒に働いた仲間たちもそれぞれの道に歩み始め、その後私はスーパー店員、解体業、老人デイサービス、特別養護老人ホームと職を転々すするのですが、車屋に再就職した記事からは別の記事にて… 詳細は↓↓↓まで。

 お店の整理もひと段落したある日、夜中に目が覚めてトイレに向かう途中、仏壇の置いてある部屋の前を通るのですが、親父が仏壇の前で男泣きしていて「親父…本当に申し訳ない…」とうなだれているのを見て、胸が締め付けられる思いでした。

    私は従業員としての立場でしか魚パルを見られていなかったのですが、親父にとっては「先祖から代々引き継いできた誇りと財産」だったのです。

 別のある日、親父に「あの時俺たちが『お店を続けよう!』と言ってたら、あのまま続けてた?」と聞いたのですが、親父は「お前達が『続ける!』といえば続けたと思うよ。」と。

    続けて「でも、結果誰にも迷惑を掛けず閉店できたけど、あと半年遅かったら俺たちは全財産と住む家も全て失って、今頃居なかったかも知れないな…お前たちの判断が正しかった訳だ。俺たち(役員達)じゃ未練もあったし踏ん切りがつかなかったからな…言いだしっぺのお前には本当に感謝してるよ。」と寂しそうな、ちょっと嬉しそうな表情をして手を握ってくれました。

 還暦を過ぎると手はしわくちゃ。長年の水仕事や包丁などの切り傷でボロボロの親父の手は温かくて、昔より華奢(きゃしゃ)な印象でした。

 かくいう自分も、もう50代前半。親父はそのころ魚パルの社長としてバリバリ最前線で従業員や家族を守ってきた訳です。今の私に親父程の甲斐性と男気があるかといえば、甚だ疑問です。

 親不孝ばっかりの私が唯一できた親孝行は『2人の内孫を親父にだっこさせられたこと』です。私の人生ももう折り返し地点を過ぎました。

 天国のご先祖様達は、あの時の私の下した判断をどのような思いで見ていたのでしょうか…私がそっちに行くことになった際に聞いてみたいと思います。

駄文・長文にて申し訳ありません。
もっと現役時代にお店の写真とかを(デジタルで)残しておけば良かった・・・親父たちが駆け抜けた証拠が残っていないのが残念でなりません。


最後まで読んでくださった皆様、有難うございます。
貴方にとって、今日よりも素晴らしい明日が訪れますように…


 


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