中学受験と旗本八万騎

幕府は「旗本八万騎」と言われるほど強い軍勢を抱えていたはずだった。しかし江戸時代の長く続いた泰平の世で、本来、戦士だったはずの旗本たちは貴族化し、軟弱化してしまった。司馬遼太郎「胡蝶の夢」三巻p.327には、第二次長州征伐という戦いの場面に突入しようとしているのに、ちりめんの布団がないと眠れない、と言って、豪華な布団を配下に運ばせるという珍妙な景色が紹介されている。
他方、長州藩では高杉晋作らが農民や町人らと一緒に奇兵隊を立ち上げ、身分の枠を取っ払った戦士たちを養成した。その野生に対しては、幕府の軟弱な旗本たちがどれだけ束になっても勝つことができず、結果的に幕府の衰退を印象づける結果となってしまった。

首都圏では、「公立は荒れている」「公立中学に進学するなんて人生終わっている」と平然と口にし、公立に進学する子どもたち・親たちをバカにし、中学受験を目指す親子が少なくない。もちろん、中学受験をするご家庭にはそれぞれの事情がある。たとえば首都圏には女の子が受験できる私立高校がほとんどない。このため、公立中学に進学すると、私立を滑り止めに受験するということができず、公立一本で勝負するしかない。それではリスクが高い、ということで、女の子は中学受験を選択肢として考えざるを得ないのだという。
また、地域によっては本当に公立中学が荒れているケースもあり、実際にいじめなどを受け、同じ学校に進学したくない、という切実な事情を抱える子どももいる。こうした子どもたちが中学受験を真剣に考えるのは当然のことだと思う。

他方、首をかしげるような事例も数多く耳にするようになった。その公立小学校は荒れていたのだが、なんと荒れている子どもは、中学受験を目指している子どもだった。親からのプレッシャーがひどく、そのストレスを発散するために学校で荒れまくり、いざ公立中学に進学してみると、その子らが私立に進学していなくなったおかげでとても平和になった、という事例を複数聞いた。

また、クラスが荒れる原因として、中学受験を目指す子どもが親の口ぶりを真似ているのだろう、「公立中学に進学するなんて人生終わっている」と、公立にそのまま進学する予定の同級生をバカにし、見下すものだから、それに反発した子どもたちとケンカになり、クラスが荒れている、というものだった。こうした証言も複数得ており、「公立は荒れている」の原因は、実は中学受験組にある、というケースが決して無視できないほどあるらしい、ということも見えてきた。少なくとも、「公立が荒れている」のは事実の場合でも、公立にそのまま進学する子どもが荒れているのではなく、中学受験のために親から遊ぶことを十分に許されず、その憤懣を学校でぶつける子どもが荒れる原因を作っている、と言うケースがあることは、頭に入れておくべきだと思う。

さて、子どもを私立に入れてよかった、という声の中に、「問題行動を起こすような子どもがおらず、教育のしっかりしたご家庭の子どもさんばかりで、快適に過ごせるようになった」というのが結構聞かれる。私はこの発言に、一抹の不安を覚える。旗本八万騎が役立たずに変わってしまったのと同じ轍を踏もうとしているのではないか、と。

幕末でも大活躍した旗本は、いるにはいる。勝海舟。しかし彼の曽祖父は百姓出身で、父親は江戸では有名なケンカ好きだった。そうした野性味のある人間だったから、ぬるま湯に浸かってばかりの旗本たちと一線を画し、蘭学をおさめ、剣術を身につけ、町衆たちと交わって、いざとなれば火消したちが勝のために江戸じゅうを駆け巡る、という体勢を築くことができた。ぬるま湯御家人にはできない芸当。

「公立は荒れている」「公立中学に進学するなんて人生終わっている」と公言し、子どもを中学受験に向かわせようとしている親御さんは、残念ながら子どもに「ぬるま湯の中で生きなさい」とメッセージを送っているようなもの。もちろん、中学受験には『お勉強』という試練が待ち受けてはいる。でも「旗本八万騎」にも試練がなかったわけではない。嫉妬の多い武家社会の中で泳ぐ政治的感覚を磨くというもの。でも、それはぬるま湯の中で通じる技術でしかない。学校のお勉強も、見ようによっては「ぬるま湯の世界」でしか通じない強みの恐れがある。

トランプ大統領の登場は、「学問的知能」から「社会的知能」へと、世界が求める知能の質が変化したことを表している可能性がある。学問的知能は、科学的で、正確さを求める几帳面さを大事にするが、他方、イレギュラーなことは苦手で、野性味のある人間に対してはほぼ無力になりがち。他方、社会的知能は、空気を読み、集団心理をうまく操作し、スキャンダルに耐性がある、という図太さを持つ。

アメリカも日本もつい最近まで、学校で優秀な成績を収める「学問的知能」の高い人が社会的成功をおさめ、それが不足すると見なされる人は軽蔑される、という社会を完成させてきた。現在の親御さんたちは、そうした社会の中で生きてきたから、「学問的知能を鍛えることこそ社会的成功への確実な道」と考え、中学受験を目指す人も首都圏を中心として増えてきたのだろう。しかし。

アメリカでは、「学問的知能」が低いとされ、社会的に見下されてきた白人貧困層の怒り、恨みが蓄積し、その不満をかぎとったトランプ氏が「いけすかないニューヨークやシリコンバレーの富裕層と移民たちに手痛い打撃を与える」と訴えたことで、人気を博し、大統領となった。アメリカの「学問的知能」の象徴であるハーバード大学やスタンフォード大学は大幅に補助金を削られ、「報復」を受けている。「学問的知能」の高い人たちの発言はすべて「フェイクだ」と一蹴され、相手にされない。高い倫理道徳を保とうとするマスコミの報道は「いけ好かないシリコンバレーの富裕層と移民たちによるねじ曲がった報道だ」としてせせら笑う。「学問的知能」は、学問をおさめることで社会的成功を続けてきた人たちの武器だったはずだけど、それに恵まれない人たちの恨みを買い、学問そのものを嗤(わら)い、相手にしない社会にアメリカは変貌しつつある。

そして日本も、その傾向を強めている。菅元首相が学術会議のメンバーを拒否した時に、SNSではびこった言説は、知識人と呼ばれてきたはずの大学教授らをせせら笑うものだった。その根底には、「学問的知能」を道具として社会的成功をおさめてきた連中への恨み、怒りが横たわっているように思う。日本でもアメリカと同様、「学問的知能」への怒り、恨みが蓄積していると見た方がよい。

アメリカと言う世界のリーダーたる国で、「学問的知能」の地位が低下し、「社会的知能」が高く評価されるように変化してきている。日本も周回遅れながら、そうなる可能性がある。そんな中で「ぬるま湯」を目指すことは、そのまま「ゆでガエル」を目指すことになるかもしれない。いい湯加減だと思って使っていたら、いつの間にか熱湯になり、その時には茹で上がって身動きできなくなったカエルのように。

恐らく、これからの時代を生き抜くためには、多少の「野性味」を残しておく必要があるだろう。「社会的知能」が中心になっていく社会の中で、そうした連中と多少は丁々発止ができる力を備えておく必要があるかもしれない。勝海舟は、自分を斬りに来た坂本龍馬と平気で出会い、話し合った。のちに勝海舟は、西郷隆盛を紹介してほしいという武士に応対し、紹介状を書いてくれと頼まれたので書いてやったという。「お前さん(西郷)を斬るつもりのようだから、会ってやってくれ」と。維新には、こうした腹の据わった人間がたくさんいた。旗本八万騎で役に立つ人材はほとんどおらず、以前なら野人とされていた人物たちが大活躍した。

世界のリーダーたるアメリカが、まっさきに混沌の時代に突入した。日本もその流れに巻き込まれることになるだろう。となると、「学問的知能」さえ磨けばぬるま湯の中で生きていける、という「お約束」はもう成り立たなくなる恐れがある。中学受験組の人たちの中には、このことに気づいている人もいるだろうが、「公立は荒れている」を理由に子どもを中学受験に向かわせようとしている親御さんは、知らず知らずのうちに「『社会的知能』の高い人間と勝負するのはやめておきなさい、『学問的知能』の世界へ逃げなさい」という裏メッセージを伝えてしまうことになりかねない。しかしその道は将来、袋小路に陥る恐れがある。

今後の社会は、多少なりとも「社会的知能」を鍛えることが求められる可能性がある。「鍛える」には、生ぬるすぎても厳し過ぎてもダメ。生ぬるすぎれば筋力はつかず、厳し過ぎれば筋肉が壊死する。「鍛える」には、適度な休養を加えながら、元気を回復可能な程度のストレスを与える必要がある。

子どもをぬるま湯の世界に入り浸らせてもダメ。厳し過ぎてつぶしてもダメ。程よいストレスの中で、それらのストレスをどうしのぐか、という試行錯誤を重ね、子どもたちが自らを鍛えていくことが必要。

私はその点、よほどひどい状況にある場合は別として、公立はよい場だと考えている。いろんな立場、職業、考え方の人がいて、それぞれに学ぶことがある。勝海舟は、無能なクセに社会的地位だけ高い人間を激しくバカにしていたが、市井の人たちと交わるのが大好きで、身分を飛び越えて交流するのを好んだ。勝が心胆を磨けたのは、いろんな人と交わることができたからだろう。

中学受験を経て、均質化が進んだ学校生活の中で、いかに野性味を残すことができるだろうか。もちろん、そうした視点を大事にしている学校もあることだろう。しかし場合によっては、社会から隔絶した「ぬるま湯」になってしまっている学校もあるだろう。その中なら荒波にもまれずに済むのだろうが、さざ波にも耐えられない人間に育ててしまうのだとしたら、何をしているのか分からなくなる。

むろん、繰り返すが、あまりに過酷な環境で過ごすくらいなら、そこから脱げた方がよい。その道が中学受験であるなら、それを否定する必要は全くない。また、「社会的知能」がもてはやされる時代であっても、少しくらいは「学問的知能」が生きる道は残される。古代ローマ帝国が崩壊し、ゲルマン人たちが西ヨーロッパを征服した時、わずかな人数が読み書き算数ができるおかげで貴族として生き残り、国を切り盛りした。しかし、そうした道を進めたのはごくごく少数だったが。

古代ローマ帝国の時代には、読み書きできる人は大勢いたが、ゲルマン人の大移動で帝国が崩壊すると、「学問的知能」はほとんど役立たずとなってしまった。貴族たちは都市で生きることができなくなり、自分たちの所領に戻って農業をするようになった。そして数百年にわたって、古代ローマの文化など忘れ果て、文字の読めない人たちが大多数の社会に西欧は変わってしまった。

もしかしたら、これから人類が迎える時代は、この古代ローマ帝国崩壊に匹敵するものになるかもしれない。ゲルマン人は「学問的知能」をあざ笑い、武力で制圧した(もちろん例外的な人間もいた)。このため、西欧では学問が急速に衰えた。宗教的目的を持った僧侶だけがかろうじて学問を伝えたが、当然ながらその学問はキリスト教一色に染め上がったものになった。純粋な意味で「学問的知能」といえるものがほとんどない社会が、数百年にわたって続いた。

世界はそのとば口にある。世界はこれから、大きく変貌する恐れがある。その中でどう泳ぐのか、各人が自分の適性を見据えながら、真剣に考える必要がある。

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