人と人間はどう違う、『夏の砂の上』のオダギリジョーと松たか子、『レボリューショナリー・ロード』、寂しさを埋めたい夜
「人は鏡」とはよく言ったもので、他人について何か嫌悪の念を感じるときというのは自分自身の中にもその嫌悪が向いている。例えば「あんな奴」と毒づいているときは、自分がその「あんな奴」になってしまっている。「あいつはこうだからダメなんだ」みたいに思っていると、不気味なほどにそのダメなところと同じ要素を自分の中に見つけてしまうことがある。
人はみんなある程度似たり寄ったりで、「愛」であれ「憎」であれ、自分とどこか似たものを持つ人に引き寄せられ、そして引き寄せているのではないか。そんなことを思うと、人というのは、個だけが重要なのではなく、どうしても関係性の中で生きるものなのかなと思う。
娘がうんと小さい頃、「人と人間ってどうちがうの?」という、大変クレバーで鋭い質問をしてきたことがある。その時はどう答えたのか正確には覚えていないが、「人間」のほうは関係性まで含めた概念だ、ということを小さい娘に向けた言葉で言った気がする。
こういう時は、今ならAIである。「人と人間の違いは?」とChatGPTに問う
てみると、こんな答えが出てきた。
「人」=一人ひとり、または人々
「人間」=人という存在や、その本質・人格・社会性まで含めた概念
という違いがあると考えると分かりやすいでしょう。
悪くはないが、ぴったりの答えではなかった。「人間は」という話をする場合、人というものに対して大上段に構えるというか、生物学的・哲学的・倫理的な文脈が含まれる。「人」よりも「人間」の方が、より観察的な視点が入るニュアンスである。
『夏の砂の上』を観た。アマプラである。長崎を舞台に、5歳の息子を事故で亡くした男性の家に、17歳の姪が母親の事情で同居することになる。この映画は長崎という土地柄がキーになっていて、雨が降らない、海の見える坂の途中に家がある、職に就こうとも仕事はなく、近所づきあいのレベルで人間関係が閉じている…というのが物語の輪郭を決定的に形作っている。
この映画のポイントはキャストにある。
幼い息子を亡くし、どこか無気力で生活能力のない中年男の主人公にオダギリジョー。彼の元に転がり込む姪は高石あかり。主人公の別居中の妻に松たか子。高石あかりに好意を示すバイト先の大学生に高橋文哉。高石あかりの母親に満島ひかり。松たか子と不倫関係になる男性に森山直太朗。オダギリジョーの元同僚の男性に光石研である。
高石あかりは『ベイビーわるきゅーれ』シリーズのみならず、朝ドラ『ばけばけ』では主演として小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻役をつとめた注目株。高橋文哉は『Tシャツが乾くまで』の喫茶店の店員の彼だし、満島ひかりについては序盤と終盤に少しずつ登場するだけで、満島ひかりをこんなに贅沢に使った物語はちょっと記憶にないほどだ。
だが、それより何より、オダギリジョーと松たか子である。この二人といえば『大豆田とわ子と三人の元夫』が思い浮かぶのだ。友人のかごめを亡くして傷心の大豆田とわ子(松たか子)に、小鳥遊(オダギリジョー)がどこか浮世離れした風情で、たまたま出会った朝のラジオ体操をきっかけにいろんな話をするようになる。その中で小鳥遊は「その人と出会って過ごしたという事実は、死別したとしても決してなくならない」といった話をするのである。
結局『大豆田とわ子と三人の元夫』の中での二人は、結ばれることはない。「一緒にマレーシアに住みませんか」という話までしながら、結局はそれぞれの人生に戻っていく。最後までそんなロマンチックでストイックな関係の二人が、この『夏の砂の上』では夫婦になり、子どもを亡くし、妻は不倫をし、男は濁った目で虚無な日々を送る。そんな二人になってしまう。なにしろ「モテ業」でないオダギリジョーというのも珍しい。
とある映画で象徴的な恋人を演じた二人が、違う映画で関係の壊れた夫婦を演じる。これはまるで、『タイタニック』でロマンチックな刹那の恋人同士になったレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが、サム・メンデスの『レボリューショナリー・ロード』で悲劇的な運命を辿る夫婦を演じたが如くである。というかほとんど同じ構造である。
今日はふと、一人暮らしだった若い頃の夜を思い出していた。自分が若い頃はネットもなく、寂しさを紛らわせるツールも今ほどなかった。どうしたかというと、ビデオを借りてきて映画を見たり、本を読んだり、外に酒を飲みに行ったりした。事前に予定してなければ友達もつかまらないので、そういう時の外飲みはもっぱら一人だった。とても不経済だが、当時は他に選択肢もなかったのだ。
寂しさ。
それは、自分の中に対話する相手がいない状態。思えば、完全に一人の夜を過ごす人は普通に多い。話しかければ返事が返ってくる、みたいな即物的な話ではない。人が近くにいても、寂しいものは寂しい。耐え難いからこそ、それを何かで埋めるわけだが、本当にそれは埋まっているのかどうか怪しい。物語に触れようが、誰かと話ができようが、孤独感というのはいいようもなく自分の根本をひんやりと包み込んでくる。
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