映画『片思い世界』等に見る、坂元裕二の「死への態度」(追記あり)
※本記事は映画『片思い世界』の核心に触れるネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。
アマプラに『片思い世界』が来ていたのを見つけ、有料だったのですが、ずっと待っていた映画だったのでさっそく観てみました。
不思議な映画です。アンバランスと言ってもいい。何がアンバランスなのかというと、キャストと脚本家、そして監督の豪華さの割には、どこか映画的なまとまりというか、完成度に欠ける。美術は美しいが、物語の語り口が少し微妙で、チグハグな印象すらある。
キャストと制作陣は豪華です。主演は広瀬すず、杉咲花、清原伽耶。3人とも単独主演を張れる実力と華がある俳優たちです。脚本家は坂元裕二、監督は土井裕泰。これはドラマ『カルテット』や映画『花束みたいな恋をした』のコンビであり、特に坂元裕二はすでに当代一の脚本家といって差し支えありません。

『片思い世界』より
特に杉咲花の演技が素晴らしい。姿は20代の女性でありながら、母親を思う気持ちは子どもの頃のままという、絶妙なキャラクターを魅力的に演じ切っていたと思います。
また、ちょっとしたタイミングで事件の「当事者」たりえなかった、そのために好きな女の子を助けられなかった過去を引きずったまま前へ進むことができない男の子を演じた横浜流星も良かった。
杉咲花演じる少女のお母さん役・西田尚美と、出所後に職場で働く殺人犯が対峙する場面も、ヒリヒリして非常に良かった。(ただ、その行動があまりにも軽率に見えてしまい、リアリティラインを損なう部分はありましたが…)
そんな映画が、なぜ「アンバランス」と感じられるのか。

『片思い世界』より
僕は、この映画について、坂元裕二の考える「死」のあり方が直接的に反映された作品だ、という印象を持ちました。この映画はそのために存在していた。映画的な完成度がどうとかじゃない。そう思えるくらい、すごくストレートにメッセージを感じ取れる作りになっていました。
そのメッセージとはどんなものか?
ここで別のドラマのセリフを引用してみましょう。坂元裕二が脚本を手がけたドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』の中で、オダギリジョー演じる小鳥遊(たかなし)という人物が、作中でとわ子に向かって非常に重要な言葉を口にします。そのセリフが、坂元裕二の伝えたいことを非常に端的に示していると感じました。
「過去とか未来とか現在とか、そういうのってどっかの誰かが勝手に決めたことだと思うんです。時間って、別に、過ぎてゆくものじゃなくて、場所っていうか、別のところにあるものだと思うんです。人間は現在だけを生きてるんじゃない。5歳、10歳、20歳、30、40… その時その時を人は懸命に生きてて、それは別に過ぎ去ってしまったものなんかじゃなくて。あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、彼女は今も笑ってるし、5歳のあなたと5歳の彼女は今も手を繋いでいて…今からだって、いつだって気持ちを伝えることができる。人生って小説や映画じゃないもん。幸せな結末も、悲しい結末も、やり残したこともない。あるのは、その人がどういう人だったかってことだけです。」

『大豆田とわ子と三人の元夫』より
このセリフがどのような文脈で出てきたのかを簡単に説明しましょう。大豆田とわ子の親友であるかごめが、物語中で実に唐突に亡くなってしまいます。詳しい理由は明かされません。かごめの死を、とわ子は気丈に受け止めながら日常の社長業をこなしますが、心のどこかにぽっかりと大きな穴が空いたように見えます。そんな中で、ある日偶然に会ったのが小鳥遊でした。公園のベンチでシナモンロールを分けっこして食べながら、二人はとりとめのない話をします。その流れで、とわ子は誰にも言えなかったかごめの話をするのです。「去年ね、亡くなっちゃったんですよ」…そこで、小鳥遊は上記のセリフを言うのです。
これは、坂元裕二の考える「死」、もっと具体的に言うなら「死者との距離感」を実に明確に言葉にしたものだと思うのです。時間は一方向に流れ去るものではない。だから、人は死によって完全に失われるわけでもない。一緒に笑った時間も、手を繋いだ時間も、愛した時間も、それらは「終わった」のではなく、今もどこかに確かに存在している。
『片思い世界』は、その考え方を、物語そのものの構造へ落とし込んだ作品だったのではないでしょうか。
『片思い世界』における主演の三人は、痛ましい事件によって命を落とした被害者の少女たちです。物語序盤ではそこが明文化されない。でも、よく見ていくとバスに乗れなかったり、人に話しかけても反応がなかったり、コンサート会場で大声を出しても周りの誰も気づかなかったりして、気づくのです。ああ、この三人はもう現世に生きる人間ではないのだと。

『片思い世界』より
しかし、死者でありながら彼女たちは暮らし、成長しています。12年前の合唱の練習中、10歳、9歳、8歳という年齢で惨殺されながらも、人間とは別の世界のレイヤーに存在し続け、ルームシェアをしながら、仲良く暮らしているのです。
もちろん、寂しい。幼少期に痛ましい事件の犠牲になり、殺されてしまったことは、これ以上ないほどに悲しいことです。成長した彼女たちは街に出ても人に関わることはできません。死者だからです。しかし、3人は生活を続け、20代の女性として生きている。このビジョンに坂元裕二の独特のまなざしがあります。

『ファーストキス』より
もしかしたら坂元裕二の個人的な体験、それが何かは計り知れませんが、非常に近しい人間の死に触れた経験が、こういう物語を書かせるのではないかと思えるほどです。『大豆田』も『ファーストキス』も、そしてこの『片思い世界』も、死者に対するとても一貫した姿勢が見てとれます。
それは、シンプルに言うとこういうことです。
「人が死んでその生を終えても、その存在は過ごした時間とともに、消えることなく残り続ける」
近年の坂元裕二は、いくつもの違う作品において、繰り返し繰り返し、このテーマを描き続けているように感じます。
脚本家・坂元裕二の考える「死」が強く表出したのがこの『片思い世界』という映画なのではないか。つまり、映画的なバランスを犠牲にしても、伝えたいことを優先した作品なのではないか。
そして、「死」についての思いは僕も同じです。誰かが死んでしまったとしても、その相手との生きた記憶、共に過ごした時間、交わした愛情は、残り続ける。生きている側が大切に記憶し続ける限り、それは消え去ることはない。掛け値なしにそう思うのです。
観終わった後に思えば、この『片思い世界』というタイトルは、映画の設定を実に端的に、見事に表現したものだと言えると感じます。

『片思い世界』より
7/19追記:
『片思い世界』のパンフレットには、脚本家・坂元裕二のこのような言葉が掲載されていたそうです。
「棺桶に入れたい作品ができた」って言う方がいて、何だよ羨ましいなって思ってたけど、この作品はそう思えましたね。
タイトルとモチーフが浮かんだとき、「ああ、これで最後でいいかも」と思ったし、制約はあるにせよ、たぶん書きたいものが書けました。
「自分の38年の脚本家人生は、これを書くためにあったんだな」と思いますし、「第一作目がこれだったら、こんなに長い間書いてなくて済んだのに」って思ってます(笑)
はっきり言ってこの映画は、世間的にはそこまでは評価されていない。この映画についての評論をいくつか見ましたが、評価が割と微妙なんです。
でも、当の坂元裕二はここまで言っている。「棺桶に入れたい」とまで書いている。それはなぜかというと、本稿で書いたように、坂元裕二の「死」の捉え方そのもの、亡くなってしまった存在へのまなざしそのものを、とてもストレートに描いたのが、この『片思い世界』だったのではないかと思うんですね。
『片思い世界』というタイトルは、ありそうで意外とない。上記の記事の最後にも書きましたが、非常にピンポイントな、「これしかない」というタイトルになっています。そして、人は他者を完全に理解することはできないという点において、そもそも世界は片思いでできているとも言えるのです。
生者と死者がお互いに在りながらも触れ合えないこと。しかし、思い続ける限り、相手は世界のどこかに存在し続け、決して消滅しないこと。いなかったことにはならないこと。坂元裕二は、「死」をそのように捉えている。あるいはそうあってほしいと願っているのではないか。
僕は、このパンフレットに掲載されたという言葉を読んで確信を持ちました。それは、この記事で書いたように、この『片思い世界』という映画をはじめとした近年の坂元作品から受け取った印象は的外れではなかったということです。結論として、坂元裕二は自らの「死」への態度について、核心の部分をこの映画『片思い世界』に描き出していたと思うのです。
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