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【アドラー心理学 Vol.01】努力すればするほど、満たされなくなるのはなぜ?「劣等感」と「補償」、そしてエネルギー

誰かと比べて、
自分が頼りなく思えて、
つい落ち込むことってありませんか?

あの人の言葉には人が集まるのに、
自分の話には誰も反応してくれない。

同じだけ頑張ってるはずなのに、
成果が出ているのは、なぜかいつも他の人。

「自分も、もう少しできるようにならなきゃ」
「こんな自分のままじゃ、見向きもされない」

そう思って、
もっと頑張ろうとする。

そうやって、
自分が欠けている部分を
必死になって埋めようとすることって
あると思うんです。


昔は敵視されていた劣等感ですが、
最近では「悪いものじゃない」と言われることも増えてきました。

たしかにそれは、希望のある考え方です。

アドラー心理学でも、
劣等感は人を成長へと向かわせる「出発点」だとされていますから。

でも、ほんとうに、
そう言い切ってしまっていいんですかね?


欠けていると感じるから、努力する。
足りないと思うから、もっと手を伸ばす。

それ自体は、自然なことなのだと思います。

でも、その「頑張りのエネルギー」が
どこに向かっていて、
誰との関係のなかで動いていて、
自分にとってどんな「在り方」をかたちづくっているのか。

そのことをちゃんと見つめないまま走り続けてしまうと、
頑張れば頑張るほど、
むしろ満たされなさが強くなっていく。

そんなこともあるんじゃないでしょうか。


今の自分の頑張りは、
ほんとうに「自分のため」のものになっているのか。

それとも、誰かに追いつこうとして
空白を埋め続けているだけなのか。

その問いに、
すぐ答えを出せるかどうかはわかりません。

ですが、
少しだけ、立ち止まって考えてみる。

その時間が、
何かを変える…というより、
「戻す」ためのきっかけになるんじゃないかと。


そもそも、僕たちはなぜ、
「今のままじゃ足りない」と思ってしまうのか?

劣等感というと、
まるで「欠けている感覚」が
自然に湧いてくるもののように思われがちだけど、
ほんとうにそうなのか。

もしかしたらそこには、
生まれたときからずっと背負ってきた、
何かしらの前提があるのかもしれません。


たとえば、アドラー心理学には
「器官劣等性」という考え方があります。

これは、
身体的な弱さやハンディキャップのような、
ごく初期の「足りない部分」が、
人の意識の土台になっていくという考え方です。

極端な例でいえば、
病弱だった子どもが「強くなりたい」と願って、
医師を目指すようになったり、
足が遅いことで悔しさを抱いた子が、
運動に人一倍の努力を注ぐようになったり。

つまり、「欠けていた」という体験が、
人を「成長」へと向かわせる原動力になるということ。


もちろん、多くの人は、
そんなにわかりやすい物語の中を
生きているわけではないと思います。

でも、ふとした瞬間に

  • いつも他人の目が気になる

  • 人にどう思われているかを先回りして想像してしまう

  • 小さな失敗にも、必要以上に自分を責めてしまう

といったことはないですか?

そんな「敏感さ」のようなものって、
実はどこかのタイミングで感じた「足りなさ」が、
まだ心のどこかに残っているサインなのかもしれません。

そして、その「感覚」があるからこそ、
気づけることがあるのも、また事実なんですよね。


優しさ、思いやり、気配り……

そういったものは、
むしろ「弱さ」を経験した人のほうが、
深く実感できたりします。

でも、ここで立ち止まって考えたいのは、
そうした「足りない部分」が生む感受性や努力が、
どこへ向かっているのか、ということです。

それが、
「何かを埋めるため」だけのもので終わっていないか。

それとも、誰かとの関係のなかで、
ちゃんと「つながる」ために使われているのか。

欠けているように感じることそのものは、
悪いこととは言えません。

ですが、その欠けと、どう向き合っていくかで、
僕たちの「在り方」は、大きく変わってくるように思うんです。


欠けたままではいられない。
だから埋めようとする。

だけど、そればかりを続けていると、
いつのまにか「何を満たしたかったのか」さえ、
わからなくなってしまうことがあるんですよね。


「弱かったから、強くなろうとした」
「足りないと感じたから、誰よりも努力した」

そんなふうに、
欠けた部分を補うようにして、
前へ進もうとする。

アドラー心理学では、このような働きを
「補償」と呼びます。

わかりやすく言えば、
「埋めるための頑張り」です。


たとえば、
ずっと「人に認められなかった」という経験をした人が、
「すごいね」と言われたくて、
成果を出すことに一生懸命になる。

あるいは、
「何もない」と感じてきた人が、
「自分にはこれがある」と証明したくて、
何かしらの武器を手にしようとする。

それは、決しておかしなことではありません。

誰だって、自分の存在を守るために、
何かを身につけようとしますから。


でも、ときどき思うんです。

その頑張りって、
本当に「補われて」いますか?

たしかに、スキルや実績は手に入る。
まわりの評価だって、少しずつ変わっていく。

でもなぜか、
心のどこかはずっと、
「まだ足りない」と言い続けている。

埋めたはずなのに、
いつの間にか別の痛みがやってくる。

どれだけ積み上げても、
その「土台」が揺らいだままでは、
どこか虚しさが残ってしまいます。


たとえば、
人に頼られるようになったのに、
「本当は自分なんて…」という声が止まらない。

あるいは、
評価されるたびに、
「もっと頑張らなきゃ」と不安になる。

それはつまり、
自分の中にある「欠けている部分」が、
ちゃんと扱われないまま、動き続けているということ。


補償というのは、
とても強力なエネルギー源です。

それによって、人は前に進めるし、
ときには人生を変えることさえできる。

でも、だからこそ、
それがどこに向かっているのかを見失ってしまうと、
どこまで行っても、心が追いついてこない。


補おうとする力が、
誰かとの比較や評価に向かっているとき、

その頑張りは、
気づかないうちに、
「つながり」ではなく
「距離」を生んでしまうこともあります。

そして、
その補償の動きが長く続いていると、
「ほんとうの自分」が、どこにあるのかすら
わからなくなってくることもあるんです。


「自分を証明したい」と思う気持ちには、
たしかに意味がある。

でも、証明ばかりを求めてしまうと、
いつかきっと、疲れてしまう。

だからこそ、
補おうとするエネルギーが、
「自分を取り戻す」方向に使われていくことが、
大切なんじゃないか。

そんなふうにも思うんです。


でも、見過ごすことができないのは、
その補おうとする力が、
ときに「ねじれたかたち」であらわれてくることもあります。

たとえば、

  • 努力しても報われない現実に、苛立ちがつのっていく

  • 認められない悲しさが、いつのまにか誰かへの敵意に変わっていく

  • 自分より目立つ人を見ると、どうしても心がざわつく

  • 評価されたときほど、なぜか罪悪感が湧いてくる

こういった感情やふるまいに、
心当たりがあったりしませんか?

これらは、アドラー心理学で言うところの
「神経症的なライフスタイル」の一部。

つまり、
劣等感から生まれた補償が、
自分を整える方向ではなく、
「逃避」や「誇張」の方向に向かってしまっている状態です。


たとえば、

  • 何かに失敗するくらいなら、最初から本気を出さない(責任回避)

  • 自分がうまくいかないのは、まわりのせいだ(他者非難)

  • いつか見返してやる、という気持ちばかりが強くなる(復讐心)

  • 成功しても「こんな自分が受け取っていいのか」と戸惑ってしまう(罪悪感の誇張)

どれも、
「おかしい」と言えるほどではないかもしれません。

でも、その根っこには、
「ちゃんと扱われなかった欠けている部分」が、
残っているように思うんです。


そして、それが
「ずれた補償」という形で外に出ると、
エネルギーはうまく循環しません。

頑張っているはずなのに、なぜか苦しい。
努力しているのに、空虚感がぬぐえない。

そんなふうに、
「前に進んでいるようで、どこか足を取られている」ような感覚が
つきまとってしまうんですよね。


このとき、補おうとするエネルギーは、
「つながり」を築くというよりも、
「比較」や「証明」や「支配」といった方向へと向かっていきます。

それはつまり、外との関係性が、
少しずつ不健全なかたちになっていくということ。


誰かの視線を気にしすぎたり、
一歩引いたところから世界を見ていたり、
「わかってくれない」と心を閉ざしてしまったり。

そうやって、
本当は誰かとつながりたくて動いているはずなのに、
逆に「距離」が生まれてしまう。

そんなジレンマの中に、
僕たちはときどき迷い込んでしまうのかもしれません。


……と、ここまで書いてきたけれど、
これは決して、
「頑張っている人が悪い」と言いたいわけではないんです。

むしろ、
頑張ってきたからこそ、
たどり着けた場所がある。

努力を続けたからこそ、
わかることもある。

ただ、
そのエネルギーの「方向」や「関係のあり方」に、
ときどき目を向けてみる。

それだけでも、
補うための行動が、いつのまにか「整える」ための営みに
変わっていくことがあるように思うんです。


だからきっと、
そのときに必要は問いは

「いまの自分は、どんな関係性に向かって頑張っているんだろう?」

というものだと思うんです。


「欠けを埋めようとする力」自体は、
悪いものじゃない。

それによって、自分を保てることもあるし、
誰かの期待に応えられるようになることもある。

だけど、
その力が向かう「先」を見失ってしまうと、
気づかないうちに、
自分自身をどこかで削り続けてしまう。

補償というのは、
どこか「無理やり繕う」ような力が
はたらいているように思うんです。


「本当はこうじゃないけど、そう見せようとする」という力学は、
表面的にはうまくいっているように見えても、
エネルギーが内側に還元されにくいんですよね。

だからこそ大事なのは、
「どこが足りないのか」ではなく、
「どこに向かっているか」。

補おうとする動きが、
他者との「つながり」の中で働いているのか。
それとも、ただ「比較」の中でこじれていっているのか。

補償の「質」よりも、「向き」のほうが、
きっと僕たちの在り方に影響してくる。

そんなふうに思うのです。


補おうとする気持ちが、
「誰かに証明するため」ではなく、
「誰かとつながっていくため」のものであったなら、

きっと、同じ努力でも、
そこに込められるエネルギーの質は、
まったく別のものになるはずです。


同じように学んで、働いて、頑張っていても、
その行き先が、「承認」なのか「関係」なのかで、
心の満ち方は大きく変わってくる。

言い換えれば、
補償の「質」よりも、
それが向かっている「方向」が、
僕たちの在り方をじわじわ変えていく。


たとえば、
最初は「評価されたくて」始めたことが、
気づけば「応援したい誰かのために頑張りたい」という感覚に変わっていたり。

「認められたい」が、
「誰かの痛みに寄り添いたい」へと変わっていったり。

そんなふうに、
「埋めるため」だった行動が、
「育てるため」の営みに変わっていくことがある。

それはきっと、
「自分を何かから守るような力」から、
「誰かと手渡し合うような力」へと、
少しずつ変わっていくということ。

「自分を守るため」だった頑張りが、
「誰かとの関係性を育てるため」のものに変わっていく。

そんなふうに、
補償が向かう「方向」を見つめなおすことで、
僕たちのエネルギーの流れが少しずつ整っていくのではないか。


だからもし、
いま頑張っている自分が、
「何かを埋めるため」だけに動いているように感じたなら、

その力が、
誰かとの関係を育てていくほうへと
少しずつ向かいはじめるには、どうしたらいいのか。

そんな問いを、
自分のそばに置いてみるだけでも、
エネルギーの流れは、少しずつ変わっていくのではないかと。


補おうとする気持ちは、
きっと僕たちの中にずっとある。

でもそれを、どこに届けるかは、これから選べる。

そんなふうに、思うのです。


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