重力と引力 #25 |回廊Ⅲ 質量4:白紙のメールと、泥まみれのワガママ
フロアの奥。無機質な空調の重低音だけが支配する空間を歩き、彼らの背後に立つ。
私の気配に、二人が重い鎖を引きずるように振り返った。彼らの目の下には濃い隈が張り付き、唇は乾燥して白くひび割れている。
「……無理です」 若手リーダーが、乾いた声で絞り出した。 「原因は特定できました。でも、これを切り離せば、本部長の絶対要件を無視することになります」 「直せたとしても、俺たちは終わります。……俺たちの判断で、これを消すことはできません」
彼らの声は微かに震えていた。 無理もない。彼らのタイピングを完全に止めているのは、技術力ではない。組織の重力だ。一介の技術者に、上層部の肝いり機能を独断で捨てる権限などない。
私は無言で手を伸ばし、若手リーダーの手から黒いマーカーを奪い取った。 カチリ、とキャップを外す。ホワイトボードに向かい合う。 赤い矢印が集中している『自動最適化アルゴリズム』のブロック。そこに向けて、力強く、大きなバツ印を引いた。
キュッ、という鋭い摩擦音が、静寂のフロアを引き裂いた。 二人が息を呑む。
「根元から、完全に切り離せ」 私は盤面を見つめたまま告げた。
「でも、そんなことをすれば明日の会議で……!」
「事後処理はすべて私がやる」 私は振り返り、彼らの土気色の顔を真っ直ぐに見据えた。 「この機能を生かしたままでは、プロジェクト全体が死ぬ。一番腐敗した腕を、今ここで切り落とす」
優しい慰めは口にしない。私が彼らの防波堤になって美しく散るつもりなど毛頭なかった。この泥沼を生き残るためには、上層部のエゴすらも強制的に書き換える「全体最適のワガママ」を、誰かが強引に通すしかないのだ。
「……やれ」 私はマーカーを粉受けに置き、彼らに背を向けて自席へと歩き出した。
席に戻り、冷たい感触のキーボードに指を置く。 まずは関係各所――経営企画室、営業部長、そして本部長へ、現在の深刻な状況と機能切断の必然性を説くメールを書き始めた。
『緊急事態のご報告。深刻なシステムエラーにより、顧客データに重大な欠損が生じるリスクが発覚しました。つきましては、被害を最小限に抑えるため――』
そこまで打って、私はピタリと指を止めた。 画面上の文字を見つめる。正しい。論理的だ。誠実な報告だ。 だが、気付いてしまった。この正しいだけの「緑色のエクセル」を送れば、彼らはどう反応するか。
彼らは即座に分厚い壁に囲まれた自部署(サイロ)の奥へと引きこもり、内側から重い鍵をかけるだろう。そして「なぜ事前に防げなかった」「顧客への見栄えはどうなる」と、安全圏から正論の矢を放ち返し、現場に再び数週間の「検討」と「調整」を強いるはずだ。
彼らは、全体のための正論では動かない。 机上の合理的な説得など、正解のないこの暗闇では何の意味も持たないのだ。
カタカタカタカタ、ターンッ。
私はバックスペースキーを押し続け、書きかけの美しいメールをすべて全消去した。 真っ白に戻った画面の光が、私の冷えた顔を照らす。
綺麗な計画も、誠実な報告も捨てる。 サイロの奥で丸まる彼らを動かすのは、理解ではなく「恐怖」と「保身」だ。それぞれの予算やメンツといった急所をピンポイントで突く、泥臭い脅しでなければならない。
私はマウスを乱暴に放り出し、デスクの受話器を握りしめた。
(質量5へ続く)
