重力と引力 #31 |回廊Ⅲ 質量10:泥まみれの確信と、スライドする世界
午前四時。 フロアの窓から見える空が、濃い群青からわずかに白み始めている。
カタカタカタ……、ターン。
最後の一打が響き、二人のエンジニアの手が止まった。 モニターには、正常稼働を示す緑色のログが流れているわけではない。むしろ、システムの心臓部から『自動最適化アルゴリズム』を無理やり引き剥がしたことによる、無数の「空白」がそこにはあった。
「……切り離し、完了しました。これで、暴走の余波は止まります」
若手リーダーが、掠れた声で呟いた。 その目は真っ赤に充血しているが、そこにはかつての「不信」はない。自分たちの手でシステムの呪縛を断ち切り、自分たちが責任を持って制御できる範囲を、暗闇の中から素手で手繰り寄せた男の目だ。
「ここからは、この代替ロジックで再構築します。それが、僕らが出した『唯一の仮説』です」
まだ、勝利したわけではない。魔法のようにシステムが元通りになったわけでもない。 だが、彼らは「言われたから直す」という被害者の位置を捨て、このボロボロのシステムをどう生かすかという、当事者の戦場に立っていた。
私は、デスクに置いたままだったスマートフォンの電源を入れ、社内ポータルを開く。 そこには、昨夜のうちに本部長への「事後承諾」を含めて仕込んでおいた報告が、既成事実として既に全社へ配信されていた。
『本部長の英断により、戦略的フェーズ移行を決定。次期予算を大幅に確保』
嘘だ。事実は、致命的な不具合を隠蔽し、各部署の保身を取引材料にして時間を稼ぎ、その隙にシステムの根幹を無理やり書き換えるという、泥臭いハッキングだ。 だが、この「工作」という嘘が今、現場が掴み取った「仮説」という唯一の希望によって、誰にも覆せない正解へとスライドし始めていた。
本部長は、私の報告に「お前が全責任を持て」と吐き捨てた。それは、成功すれば自分の手柄にし、失敗すれば私を切り捨てるという、彼なりの卑怯なゴーサインだった。 私はその期待に応え、彼に「最高の果実」を差し出した。同時に、現場に「戦うための時間」を強引に作り出した。
私は、壁から引き抜いたままの電話線を見つめる。 これから出社してくる上層部たちは、この配信された「結果」を見て、あたかも最初から自分たちが描いたシナリオであるかのように、満足げに頷くだろう。彼らが望んでいるのは「真実」ではなく、自分の地位を守ってくれる「つじつまの合う物語」なのだから。
「……お先に失礼します」
残務を終えた二人のエンジニアが、私に向かって短く会釈をして、エレベーターへと向かう。 ザッ、ザッ、と。 静まり返ったフロアに、カーペットを踏みしめる彼らの足音が響く。それは、床を引きずるような幽霊の足音ではない。自分たちの仮説を信じ、自律的に動こうとする人間の足音だった。
私は、自分のモニターを落とした。 真っ暗になった液晶のガラス面に、一人の男の顔が浮かび上がった。
徹夜の疲労で肌はくすみ、隈が張り付いている。 だが、そこには組織の重力にすり減った顔はなかった。 正解のない暗闇に立ち、泥にまみれ、嘘を重ねてでも、チームが「自らの仮説」で戦い始めるための結界を守り抜いた男の顔だ。
組織の重力は、相変わらず醜悪で、利己的だ。 しかし、私という支点によって、世界は確実にスライドした。 昨日の「絶望」は、今、戦うための「仮説」に上書きされたのだ。
私は、上着を手に取り、まだ誰もいないオフィスを後にした。 朝の冷たい空気が、熱を持った体に心地よかった。
(回廊Ⅳへ続く)
