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重力と引力 #32 |回廊Ⅳ 引力1:用意された椅子と、灰色の服従

午前九時。 分厚い絨毯が足音を吸い込む役員フロアは、数時間前まで私が泥にまみれていた現場とは別世界のように静まり返っていた。無菌室の空調は、今日も完璧な温度と湿度を保っている。

本部長室の重厚なドアをノックする。 「入れ」 短く、不機嫌を装った声が響いた。

革張りの椅子に深く腰掛けた本部長は、デスクの上のタブレット端末を睨みつけていた。画面には、私が明け方に全社へ配信した「戦略的フェーズ移行」の報告書が映っているはずだ。

「貴様、あれはどういうつもりだ」 低い声が飛んでくる。 「経営企画室主導で予算を確保するだと? 誰がそんな勝手なシナリオを描けと言った」

怒気を孕んだ言葉の羅列。しかし、その瞳の奥には隠しきれない安堵と、計算高い光が揺れていた。 無理もない。今朝の役員会で、彼は「システム崩壊の危機を未然に防ぎ、来期の予算枠まで確保した優秀な指揮官」として、経営企画室長から名指しで称賛されたはずなのだから。

かつての私なら、ここで「現場の危機を救うための苦肉の策でした」と正論を振りかざし、自分の正しさを証明しようと熱起していただろう。あるいは「勝手な真似をして申し訳ありません」と、被害者のように縮み上がっていたかもしれない。

だが、今の私にそんな安い自尊心は微塵も残っていない。 白か黒か、正義か悪か。そんな無菌室のルールはとうに捨てた。現場の彼らが新しいコードを叩き続けるための「時間」と「空間」を守れるのなら、相手の虚栄心だろうが、自分の手柄だろうが、盤面にある手札はすべて使い倒す。

「すべて、本部長の昨夜の厳しいご指導によるものです」 私は深く頭を下げ、感情の消えた平坦な声で告げた。 「あの危機的状況下で、本部長が『全体最適を最優先に考えろ』と背中を押してくださった。その英断がなければ、現場はあのままシステムと共倒れになっていたでしょう」

「……」

「私はただ、本部長の深いお考えを、経営企画室や営業部が理解しやすい形に『翻訳』したに過ぎません。すべては、本部長の手腕です」

沈黙が落ちる。 彼は探るような目で私を見つめていたが、やがて小さく息を吐き、革張りの背もたれにゆっくりと体重を預けた。

「……経営企画の室長も、随分と機嫌が良かったよ」 声のトーンから、尖った怒気が完全に消え去っている。 「だが、現場はまだ完全ではないんだろう。お前の言う『代替ロジック』とやらがコケれば、私の顔に泥を塗ることになるぞ」

「ご心配には及びません。現場には、私が責任を持って『本部長の期待に応えろ』と発破をかけておきます」

用意された「英雄の椅子」に、彼はすんなりと座った。 これでいい。彼がこの虚栄心に満ちた椅子に座り続けている限り、それが現場を理不尽な横槍から守る最大の防波堤になる。矛盾を飲み込み、自分の手を汚してでも、この灰色の現実をコントロールする。それが、プロフェッショナルとしての私の「ワガママ」だ。

「下がれ。結果だけを持ってこい」 「承知いたしました」

一礼して、本部長室を後にする。 ドアを閉めた瞬間、冷たい安堵が胃の奥に広がった。

一つ目の関門は突破した。昨日まで私を押し潰そうとしていた「重力」は、今や私を守る強力な盾へと変換された。 次は、現場の彼らが作り上げた不完全な「仮説」を、本物のシステムとして起動させる戦いだ。

私は足早に、まだ熱の残る自分の戦場へと向かった。

(引力2へ続く)



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