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重力と引力 #33 |回廊Ⅳ 引力2:怯えるプロと、三時間の制限

無菌室の空調が効いた役員フロアから、開発フロアへと足を踏み入れる。 重い扉を開けた瞬間、空気の質が変わった。微かな機械の排熱と、冷めたコーヒーが酸化した匂い。徹夜明けの澱んだ空気が、そこには充満していた。

フロアの奥、ホワイトボードの前に二人のエンジニアが立ち尽くしている。 盤面には、青や赤のマーカーで複雑なフローチャートやモジュール間の干渉リスク、そして「原因究明」と「ロールバック手順」の緻密なプロセスがびっしりと書き込まれていた。

「……まだ代替ロジックは投入できないのか」 私が背後から声をかけると、若手リーダーが血走った目で振り返った。

「リスクが多すぎます。もしこの仮説ロジックが既存のDBと干渉した場合、今度こそデータが完全に破損するかもしれない。まずは昨夜のメモリーリークの『真の原因』を特定し、完璧な影響範囲の特定を終わらせないと……」

彼の声は微かに震えていた。 昨夜、自らの手でシステムを切断するという大手術を終えた彼らは今、プロフェッショナルとしての「責任」の重さに押し潰されそうになっていた。再びシステムを崩壊させる恐怖から、机上の計算という安全地帯に逃げ込み、ホワイトボードの前で立ち止まってしまっている。

「ここで原因究明の議論を始めて、何時間経った?」 「……二時間半、いや、三時間近くです」

私は無言で彼らの横を通り抜け、ホワイトボードの粉受けからイレーザーを掴んだ。 そして、彼らが三時間かけて構築した「完璧なリカバリ計画」と「原因分析」の図式を、端から一気に消し去った。

「なっ……!」 若手エンジニアが声を呑む。

「机の上でいくら頭を抱えても、ここから先の答えは出ない」 私はマーカーの粉が舞う空間で、彼らに静かに告げた。 「過去の正解が通用しないこの暗闇の中で、三時間以上立ち止まるのは、命の時間をドブに捨てるのと同じだ。完璧な計画書でシステムは直らない」

彼らは、反論を飲み込んだまま私を見つめている。 彼らが恐れているのは「失敗」だ。無菌室の住人たちが最も嫌悪し、徹底的に罰を下す「想定外のエラー」を恐れている。だが、私はすでに、その無菌室からの横槍を防ぐための分厚い盾を被ってここに来ている。

「原因の特定も、安全の保証もいらない」 私は空になったホワイトボードを背に、彼らの目を真っ直ぐに見据えた。 「システムを、不完全なまま走らせろ」

「そんなことをすれば、また落ちますよ!」 「ああ、落ちるだろうな。だが、ただ怯えて待つのではなく、我々の意思で『どう壊れるか』を見届けるんだ」

動かさなければ、システムのどこが脆弱で、どこが耐えうるのかという「情報」すら手に入らない。正論や分析という殻を破り、痛みを伴うアクションを起こすことでしか、本物の仮説の輪郭は浮かび上がってこないのだ。

「三時間だけ猶予をやる。このフロアには誰の怒号も届かせない」 私は自席のパイプ椅子を引き寄せながら言った。 「やれ。お前たちのコードの限界を、力ずくで引きずり出せ」

若手リーダーは一瞬だけ唇を噛み、そして、迷いを吹っ切るように自席のターミナルへと向き直った。 カタッ、と。 恐れを捨てた、最初の一打がフロアに響いた。

(引力3へ続く)


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