重力と引力 #10 |回廊Ⅰ 深度9:期待の30代が「静かに」去る理由
やがて、彼は退職届を出しました。
最終日の面談。
彼は私に向かって、ただ静かに頭を下げました。
「大変お世話になりました。ここで多くを学ばせていただき、成長できました」
辞める本当の理由を尋ねても、彼はそれ以上のことは口にしません。
会社への不満も、私への恨み言も、何一つ。
ただ、かつてプロジェクトを何とかしようと語り合っていた頃の熱だけが、綺麗に消え去っていました。
面談の間、彼は一度も、私の目を見ませんでした。
私は、心のどこかで彼が怒りをぶつけてくれることを待っていたのかもしれません。
「なぜあの時、守ってくれなかったのか」と。
もし彼がそう叫んでくれたなら。
私は深く頭を下げ、「すまなかった」と謝ることができた。
そして、「実は私も、上からの圧力に苦しんでいたんだ」と打ち明けることで、互いにシステムに潰されそうになった被害者同士なのだと、痛みを分かち合うことができたはずでした。
しかし、彼は何も言いません。
その絶対的な沈黙を前にして、私の喉は張り付くようにカラカラに乾いていました。
彼が何を思って去っていくのか。
私への軽蔑なのか、組織への絶望なのか、それとも、完全な無関心なのか。
彼の沈黙の底にあるものが何なのか、私には最後まで分かりませんでした。
ただ、空調の効いた会議室の中で、急にワイシャツの襟が首を絞めるように苦しくなる。
「仕方なかったんだ」
喉まで出かかったその言葉は、私を完全に通り過ぎていく彼の視線を前に、音になることなく消えました。
代わりに、胃の奥が鉛のように重く沈み、嫌な汗だけが背中を伝っていく。
面談が終わり、彼が去った後のデスク。
綺麗に拭き上げられた机と、電源の落ちた黒いモニターだけが残されていました。
そこには、「私が彼を潰したのだ」という明確な断罪すらありません。
ただ、かつてそこにあったはずの不器用な「体温」が失われたという、ぽっかりとした空洞。
自分が何に打ちのめされているのかさえ、言葉にできないまま。
乾いた喉を持て余し。
彼のいない無機質な空間で、私は呆然と立ち尽くしていました。
次回、いよいよこの回廊の底、【深度10】へ。
言葉にならないこの両手の感触を見つめ、私たちが明日からどう生きていくのかを問います。
