重力と引力 #11 |回廊Ⅰ 深度10:底
少しだけ、画面から目を離して。
あなたの、その両手を見つめてみてください。
キーボードを叩き、マウスを握り、日々たくさんの仕事をこなしてきた手。
「会社が悪い」
「上層部が分かってくれない」
「仕組みがおかしい」
そうやって、見えない何かのせいにしてきたその手は、本当に綺麗でしょうか。
隙のない正論を打ち込み、現場の体温を奪ってはいなかったか。
波風を立てないための沈黙を選び、誰かを公開処刑の場に立たせてはいなかったか。
金曜日の夕方にそっとパソコンを閉じ、誰かの命の時間をすり減らしてはいなかったか。
私たちが「仕方ない」とやり過ごしてきた小さな自己防衛の積み重ねが。
いつの間にか連鎖し、最も立場の弱い誰かの呼吸を止めてしまう。
彼が去ったあとの、電源の落ちた黒いモニター。
空っぽになったデスクの前に立ち尽くしたとき、私は、自分の両手を見つめました。
見えない魔物のせいにしていた、悲劇の正体。
彼をあの暗闇の底へと突き落としたのは、紛れもなく、私自身のこの両手でした。
今、この文章を読んでいるあなたも。
もしかしたら、自分の手のひらにある微かな汚れに、気づき始めているかもしれません。
けれど、どうかその手を隠さないでください。
私たちは皆、ただ生き延びるために、自分に不器用な麻酔を打ってきただけなのです。
痛みに耐えきれなくなる前に、心を殺し、息を潜めていただけなのですから。
麻酔から醒める痛みは、とても不快で、残酷なものです。
胃の奥が重く沈み、もしかしたら、少し息苦しさを感じているかもしれません。
でも、どうかその痛みから逃げないでください。
自分が奪ってきたものの重さに気づき、呆然と立ち尽くすこと。
その痛みを感じられるということは、あなたの内側にまだ、人間としての確かな「体温」が残っているという、何よりの証拠なのですから。
ここからどうすればいいのか。
その明確な答えを、私はまだここに置いていません。
希望めいた励ましの言葉で、この空気を手っ取り早く明るくすることも、あえてしません。
ただ、静かな因果と、鈍い痛みだけを、この底に置いておきます。
明日もまた、無慈悲に朝が来ます。
見慣れたオフィスに、いつもと同じように始業のチャイムが響きます。
そのとき。
体温を取り戻したあなたは、その両手で、何を掴み、何を手放すのでしょうか。
(回廊Ⅱへ続く)
